第15話 お帰り、ガロ
消えていない……? ガロの魂は、まだ……?
「本当か! モーリッツ!」
安堵と、しかし拭いきれない不安が俺の中で交錯する。モーリッツの表情に影が落ちた。
「ああ、だが彼の魂の輝きは、ひどく弱々しくなっている。まるで……自ら光を閉ざし、この世界から……いや、君との繋がりから目を背け、生きることを拒んでいるかのようだ」
生きることを拒んでいる? あの強大な魔獣……白夜の牙に傷をつけた瞬間、流れ込んできた記憶……ガロの父が、白夜の牙の子供を殺していたという事実。それを発端とした憎しみの連鎖。
それに気づいた、あの時の諦観に満ちたガロの思いが、そうだというのか?
「どうすればいい!? どうすればガロを救える!? 方法があるんだろう!? 教えてくれ、モーリッツ!」
俺は彼の腕を掴み、必死に訴えた。
「落ち着きたまえ、アスタ」
モーリッツは俺の手を静かに解いた。
「方法はある。だが、それは君自身の力……
その時、俺は、はたと気づく。感情を共有する力は、俺個人に与えられた【
「
魂同士の対話……。それは、ガロを救う唯一の道かもしれない。
「だが、待ってくれ! 俺にそんな力はない! 感情共有の力だって、まだ完全に制御できているわけじゃ……!」
「大丈夫さ。君の力はまだ眠っているだけだ。だが、それを一時的に引き出す手助けならできる。私の祝福……【
モーリッツは不敵に笑った。
「【
俺はモーリッツの過去の話を思い出し、身構えた。あの力が暴走すれば……。
モーリッツは苦笑した。
「心配はいらないよ。あの時の暴走は、魂喰いとしての渇望が引き起こしたものだ。それに、あれ以来、あれほどの力を任意に引き出すことはできていない。だが、魂の力を一時的に活性化させ、
「……頼む」
「よろしい」
俺の答えに、モーリッツは目を閉じ、再び静かに歌い始めた。それは以前宴で聴いたものとは違う、もっと静かで、深く、魂に直接語りかけるような旋律。彼の声は、夜空のオーロラと共鳴するかのように澄み渡っていた。
――意識が、急速にガロの内の深い場所へと引き込まれていく。現実世界の感覚が遠のき、俺の視界は再び、あの白い空間へと落ちていった。
だが、今度の白い空間は、以前とは違う。以前は虚無だったはずの空間に、今は足元がある。ゆっくりと地面に足が触れると、静かな水面のように、かすかな波紋が広がった。
俺は、波紋の中心へと意識を向け、さらに深く……彼の魂の源流へと潜っていく。
瞬間、視界が白から一気に色を帯びた。だが、それは俺自身の視界ではない。ガロの体もない。俺は再び「視点」だけの存在となり、目の前に広がる光景をただ見ている。
「父ちゃん! あの白夜の牙を倒しに行くって本当のことなの!?」
これは……ガロの記憶、彼の魂が紡いできた物語の世界だ。目の前にいるのは、小さな海獅子族の男の子だった。黒目がちの大きな瞳に不安を浮かべ、それでも懸命に父親を見上げている。その仕草、声……間違いない、幼い頃のガロだ。
俺はガロに話しかけようとしたが、声が出ない。ガロには俺の存在が見えていない。ここは過去の記憶を追体験するだけの場所なのだろう。
「心配するな、ガロ」
立派な体躯の海獅子族の男性――ガロの父が、幼い息子の頭を大きな手でガシガシと撫でた。
「父ちゃんが必ず、あの恐ろしい魔獣を退治する。村に平和を取り戻してやるからな」
ガロは嫌そうな顔をしていたが、その瞳は父親への信頼と愛情を隠しきれずにいた。今はもう失われてしまった、温かい親子の時間……。
場面が、ふいに切り替わる。暗く、冷たい洞穴の中。ガロの父が、数人の仲間と共に、白夜の牙と死闘を繰り広げている。
これは……ガロの記憶ではなく、白夜の牙から流れ込んできた記憶か?
戦闘の最中、岩陰から小さな影が飛び出す。幼い
白夜の牙が咄嗟に幼い氷紋熊を庇うように動く。
その隙を突き、ガロの父の槍が閃き、白夜の牙の額を掠めさせる。
あの三日月の傷は、そうしてできた傷だった。白夜の牙が怯んだことで、無防備になった幼い氷紋熊。ガロの父は、表情を変えずに槍を突き出した。
断末魔の悲鳴。
幼い氷紋熊は血を流し、力なく地に伏せた。幼い氷紋熊――我が子の亡骸を目の当たりにした白夜の牙から、天を裂くかのような絶叫があった。それは、怒りというよりも、深い、深い悲しみに満ちた慟哭だった。
その凄まじい気迫に浮足立ったガロの父たちは、撤退を余儀なくされる。後に残されたのは、我が子の亡骸を抱きしめ、ただ慟哭する巨大な魔獣の姿だけだった。
場面が、また切り替わる。そこには、見慣れた、成長した現在のガロがいた。ガロは、白い空間の真ん中に力なく座り込み、うつむいていた。
「アスタ様……」
ガロは、か細い声でつぶやいた。今度はガロにも、俺の存在が認識できているようだった。
『ガロ! 無事だったか! いや、無事……ではないか……』
安堵したのと同時に、何から話すべきか考えがまとまらず焦ってしまい、言葉がうまく出てこない。
「……見ていたのですね。僕の父が、やったことを。それが原因で、父は白夜の牙から報復を受けて死んだ。……そして、アスタ様は僕の体を使って、今度は僕が白夜の牙を殺した」
ガロの声は、感情が抜け落ちたように平坦だった。
「憎しみが憎しみを生み、悲しみが悲しみを呼ぶ……。もう、うんざりなんです。……やったら、やり返されるんだ。この連鎖は、どこかで断ち切らなければならなかった」
ガロは顔を上げ、虚ろな目で俺を見た。
「だから、もういいんです。この憎しみの連鎖が、僕の命で終わるのなら……僕は、このままここで……消えても構わないと思った。それに……僕の体も、アスタ様が使った方が、ずっとうまく使える。僕なんかより、ずっと……」
ガロは、力なく微笑もうとした。それは、諦めの笑みだった。
「だから……もう、いいですよね……?」
『ふざけるなッ!』
俺は怒りに震えながら叫んだ。心の底からの、魂の叫びを。
『それでいいわけがあるか! 逃げるな、ガロ! 憎しみの連鎖だと!? 大事なのは、それを断ち切るために、これからどう生きるかだろう!? 過去の悲劇に囚われて、未来まで手放すのか!? 確かに、お前の優しさだけでは、この厳しい世界は渡れないかもしれん! だがな、その優しさこそが、何よりも尊く、強く、そして美しいものなんだ! それは必ず誰かの救いになる! 凍てついた心を溶かす、唯一の光になる! その気高い優しさを、誰にも穢させはしない! お前は、他の世界の民と手を取り合い、新しい未来をその手で掴みたかったんじゃないのか!? その夢を、お前自身のその手で叶えたいと願ったんじゃないのか! こんなところで終わっていいわけがないだろう!』
俺の魂の言葉を、まっすぐ、ガロの心にぶつけた。それは激しい波紋となって、ガロの瞳を揺らがせる。――堰を切ったように、涙があふれ出した。
「アスタ様……。こんな弱い僕でも……それでも、僕を必要だと言ってくれるんですか……?」
ガロの声が震え、言葉にならない嗚咽が漏れる。俺は短く、しかし確かな意志を込めて言った。
『ああ』
俺は「視点」から、光の腕をガロの前に生やすと、震えるガロの背中に、そっと回した。温かい光がガロを包み込む。体のこわばりが、ゆっくりと解けていくのが分かった。
魂の輝きが、弱々しいながらも、再び確かな光を取り戻し始めている。涙はまだ止まらないが、その瞳には、諦めではない、生きようとする意志の光が灯り始めていた。
俺は心の底からの安堵を感じながら、そして、失いかけた相棒への深い想いを込めて、静かに、しかしはっきりと紡いだ。
『――お帰り、ガロ』
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