第15話 お帰り、ガロ

 消えていない……? ガロの魂は、まだ……?


「本当か! モーリッツ!」

 安堵と、しかし拭いきれない不安が俺の中で交錯する。モーリッツの表情に影が落ちた。

「ああ、だが彼の魂の輝きは、ひどく弱々しくなっている。まるで……自ら光を閉ざし、この世界から……いや、君との繋がりから目を背け、生きることを拒んでいるかのようだ」


 生きることを拒んでいる? あの強大な魔獣……白夜の牙に傷をつけた瞬間、流れ込んできた記憶……ガロの父が、白夜の牙の子供を殺していたという事実。それを発端とした憎しみの連鎖。

 それに気づいた、あの時の諦観に満ちたガロの思いが、そうだというのか? 


「どうすればいい!? どうすればガロを救える!? 方法があるんだろう!? 教えてくれ、モーリッツ!」

 俺は彼の腕を掴み、必死に訴えた。

「落ち着きたまえ、アスタ」

 モーリッツは俺の手を静かに解いた。


「方法はある。だが、それは君自身の力……魂喰たまくいとしての力を使う必要がある。魂喰いは魂を感知する力を持つ。その力は、研ぎ澄まされれば、単なる感知を超え、他者の感情、記憶、そして魂そのものと深く共鳴する領域へと至る。我々はそれを感情共鳴エンパシーと呼んでいる」


 その時、俺は、はたと気づく。感情を共有する力は、俺個人に与えられた【星の記憶アスタ・メモリア】の能力の一つだと思っていたが、どうやら魂喰いとしての特性だったらしい。


感情共鳴エンパシーは、相手の心の奥底……深層心理の領域に、自らの意識を送り込むことを可能にする。そこでなら、言葉だけでは届かない、魂同士の対話ができるだろう。今のガロ殿のように、固く心を閉ざしてしまった相手にも、君の声を直接届けることができるはずだ」


 魂同士の対話……。それは、ガロを救う唯一の道かもしれない。


「だが、待ってくれ! 俺にそんな力はない! 感情共有の力だって、まだ完全に制御できているわけじゃ……!」

「大丈夫さ。君の力はまだ眠っているだけだ。だが、それを一時的に引き出す手助けならできる。私の祝福……【生命の謳歌ヴィータ・カンターレ】の力でね」

 モーリッツは不敵に笑った。

「【生命の謳歌ヴィータ・カンターレ】だって!? だが、あんたはさっき……!」

 俺はモーリッツの過去の話を思い出し、身構えた。あの力が暴走すれば……。

 モーリッツは苦笑した。

「心配はいらないよ。あの時の暴走は、魂喰いとしての渇望が引き起こしたものだ。それに、あれ以来、あれほどの力を任意に引き出すことはできていない。だが、魂の力を一時的に活性化させ、感情共鳴エンパシーへと導くぐらいのことはできる。ガロ殿の魂を傷つけるようなことはしないと約束しよう。……覚悟はいいかな? ガロ殿を救いたいのだろう?」


「……頼む」

「よろしい」


 俺の答えに、モーリッツは目を閉じ、再び静かに歌い始めた。それは以前宴で聴いたものとは違う、もっと静かで、深く、魂に直接語りかけるような旋律。彼の声は、夜空のオーロラと共鳴するかのように澄み渡っていた。


 ――意識が、急速にガロの内の深い場所へと引き込まれていく。現実世界の感覚が遠のき、俺の視界は再び、あの白い空間へと落ちていった。


 だが、今度の白い空間は、以前とは違う。以前は虚無だったはずの空間に、今は足元がある。ゆっくりと地面に足が触れると、静かな水面のように、かすかな波紋が広がった。


 俺は、波紋の中心へと意識を向け、さらに深く……彼の魂の源流へと潜っていく。


 瞬間、視界が白から一気に色を帯びた。だが、それは俺自身の視界ではない。ガロの体もない。俺は再び「視点」だけの存在となり、目の前に広がる光景をただ見ている。


「父ちゃん! あの白夜の牙を倒しに行くって本当のことなの!?」

 これは……ガロの記憶、彼の魂が紡いできた物語の世界だ。目の前にいるのは、小さな海獅子族の男の子だった。黒目がちの大きな瞳に不安を浮かべ、それでも懸命に父親を見上げている。その仕草、声……間違いない、幼い頃のガロだ。


 俺はガロに話しかけようとしたが、声が出ない。ガロには俺の存在が見えていない。ここは過去の記憶を追体験するだけの場所なのだろう。


「心配するな、ガロ」

 立派な体躯の海獅子族の男性――ガロの父が、幼い息子の頭を大きな手でガシガシと撫でた。

「父ちゃんが必ず、あの恐ろしい魔獣を退治する。村に平和を取り戻してやるからな」

 ガロは嫌そうな顔をしていたが、その瞳は父親への信頼と愛情を隠しきれずにいた。今はもう失われてしまった、温かい親子の時間……。


 場面が、ふいに切り替わる。暗く、冷たい洞穴の中。ガロの父が、数人の仲間と共に、白夜の牙と死闘を繰り広げている。

 これは……ガロの記憶ではなく、白夜の牙から流れ込んできた記憶か?


 戦闘の最中、岩陰から小さな影が飛び出す。幼い氷紋熊ひょうもんぐまだった。

 白夜の牙が咄嗟に幼い氷紋熊を庇うように動く。

 その隙を突き、ガロの父の槍が閃き、白夜の牙の額を掠めさせる。

 

 あの三日月の傷は、そうしてできた傷だった。白夜の牙が怯んだことで、無防備になった幼い氷紋熊。ガロの父は、表情を変えずに槍を突き出した。


 断末魔の悲鳴。


 幼い氷紋熊は血を流し、力なく地に伏せた。幼い氷紋熊――我が子の亡骸を目の当たりにした白夜の牙から、天を裂くかのような絶叫があった。それは、怒りというよりも、深い、深い悲しみに満ちた慟哭だった。

 その凄まじい気迫に浮足立ったガロの父たちは、撤退を余儀なくされる。後に残されたのは、我が子の亡骸を抱きしめ、ただ慟哭する巨大な魔獣の姿だけだった。


 場面が、また切り替わる。そこには、見慣れた、成長した現在のガロがいた。ガロは、白い空間の真ん中に力なく座り込み、うつむいていた。


「アスタ様……」

 ガロは、か細い声でつぶやいた。今度はガロにも、俺の存在が認識できているようだった。

『ガロ! 無事だったか! いや、無事……ではないか……』

 安堵したのと同時に、何から話すべきか考えがまとまらず焦ってしまい、言葉がうまく出てこない。


「……見ていたのですね。僕の父が、やったことを。それが原因で、父は白夜の牙から報復を受けて死んだ。……そして、アスタ様は僕の体を使って、今度は僕が白夜の牙を殺した」

 ガロの声は、感情が抜け落ちたように平坦だった。

「憎しみが憎しみを生み、悲しみが悲しみを呼ぶ……。もう、うんざりなんです。……やったら、やり返されるんだ。この連鎖は、どこかで断ち切らなければならなかった」

 ガロは顔を上げ、虚ろな目で俺を見た。

「だから、もういいんです。この憎しみの連鎖が、僕の命で終わるのなら……僕は、このままここで……消えても構わないと思った。それに……僕の体も、アスタ様が使った方が、ずっとうまく使える。僕なんかより、ずっと……」

 ガロは、力なく微笑もうとした。それは、諦めの笑みだった。


「だから……もう、いいですよね……?」


『ふざけるなッ!』

 俺は怒りに震えながら叫んだ。心の底からの、魂の叫びを。


『それでいいわけがあるか! 逃げるな、ガロ! 憎しみの連鎖だと!? 大事なのは、それを断ち切るために、これからどう生きるかだろう!? 過去の悲劇に囚われて、未来まで手放すのか!? 確かに、お前の優しさだけでは、この厳しい世界は渡れないかもしれん! だがな、その優しさこそが、何よりも尊く、強く、そして美しいものなんだ! それは必ず誰かの救いになる! 凍てついた心を溶かす、唯一の光になる! その気高い優しさを、誰にも穢させはしない! お前は、他の世界の民と手を取り合い、新しい未来をその手で掴みたかったんじゃないのか!? その夢を、お前自身のその手で叶えたいと願ったんじゃないのか! こんなところで終わっていいわけがないだろう!』


 俺の魂の言葉を、まっすぐ、ガロの心にぶつけた。それは激しい波紋となって、ガロの瞳を揺らがせる。――堰を切ったように、涙があふれ出した。


「アスタ様……。こんな弱い僕でも……それでも、僕を必要だと言ってくれるんですか……?」


 ガロの声が震え、言葉にならない嗚咽が漏れる。俺は短く、しかし確かな意志を込めて言った。


『ああ』


 俺は「視点」から、光の腕をガロの前に生やすと、震えるガロの背中に、そっと回した。温かい光がガロを包み込む。体のこわばりが、ゆっくりと解けていくのが分かった。

 魂の輝きが、弱々しいながらも、再び確かな光を取り戻し始めている。涙はまだ止まらないが、その瞳には、諦めではない、生きようとする意志の光が灯り始めていた。

 俺は心の底からの安堵を感じながら、そして、失いかけた相棒への深い想いを込めて、静かに、しかしはっきりと紡いだ。


『――お帰り、ガロ』

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