第2話 星渡りの賢者

 ガロの視点を通して、俺は辺りを見回した。半球状に見える狭い室内空間は、押し固められた雪のブロックで緻密に築かれていた。氷の結晶が壁の内側で微かにきらめいている。わずかに高くなった床には、何の動物かわからない厚手の毛皮が敷かれており、そこにガロは寝かされていたようだ。

 このような雪のブロックで作られた住居……前にテレビで見たことがある。何だったか……そうだ、イグルーというやつだ。外の凍てつく空気を思えば、この中は驚くほど静かで、寒さは感じるものの、それほどでもない。イグルーの断熱性か、あるいはガロ自身の厚い脂肪と毛皮のおかげか……それは定かではなかった。


「あのお……少し、よろしいでしょうか」


 ガロは、その逞しい見た目とは裏腹に、どこか遠慮がちに、しかし確信を持ったように声を発した。


「……絶対に、いますよね」


 この狭いイグルーに、今はガロしかいない。他の気配はない。間違いなく、俺に対する問い掛けだろう。

 どうすべきか。無視を決め込むこともできるかもしれないが、この不可思議な世界の謎を解き、自分が何者なのかを知るためには、彼との接触は避けられないだろう。むしろ、絶好の機会でもある。

 彼の問いに応えよう。そう強く意識した瞬間、視界がぐにゃりと歪み、現実のイグルーの景色が急速に色を失い、まばゆい白光に包まれた。


「やはり、いらっしゃったのですね!」


 気づけば、俺は白一色の、無限とも思える空間にいた。足元も天井もなく、ただ柔らかな光だけが満ちている。音もなく、空気の流れすら感じない、不思議な静寂に包まれた場所だ。そこに、ガロが膝をつき、俺の視線の先に深く頭を垂れていた。彼の姿だけが、この白い空間の中で確かな輪郭を持っている。

 これは驚いた。彼に意識を向けただけで、現実とは異なるこんな空間を作り出す力が、この俺に備わっているとでも言うのだろうか。ガロに宿った時に流れ込んできた膨大な情報の中に、この力の使い方も含まれていたのかもしれない。


 検証は後に行うとして……はてさて、俺はガロに、どう返答するべきか。自分が何者かわからない以上、正直に話すのもためらわれる。ならばいっそ、この異世界においては、神秘的な存在を演じてみるのもありかもしれない。ガロも超越的な何かを期待しているようだし。


『……うむ、顔を上げよ』


 俺はわざとらしく一つ咳払いをし、できるだけ落ち着いた、叡智あふれる賢者のような声音を意識して、心の中で紡いだ。この空間では、言葉を発するというより、意思が直接響くような感覚だ。ガロは厳かな面持ちで、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、畏敬と緊張の色が浮かんでいる。


「私はガロと申します。海獅子族の、しがない狩人でございます。あなた様は……やはり、神なのでしょうか?」

『神など、そのような大それた存在ではない。我は……そうだな、異界より流れ着いた、ただの意識体のようなものだ』

「異界とはなんと! ……それでは、あなた様をどのようにお呼びすればよろしいでしょうか」

『……名はない。我自身、自分が何者であったのか、その記憶を失っている。ゆえに、お主の好きなように呼ぶがよい』


 そうは言ってみたものの、いきなり「名はない、好きに呼べ」などと言われても、困惑するのが当然だろう。案の定、ガロは少し渋い表情になり、うーむ、と唸りながら顎のあたりに手を当てる仕草をした。いかつい見た目に反して、真面目で素直そうな青年だ。困っている顔を見ていると、なんだか大型犬のようで、少し心が和む。

 そんなガロをしばし見守っていると、どうやら考えがまとまったようだ。彼は再び居住まいを正した。


「では、僭越ながら……アスタ様、とお呼びしてもよろしいでしょうか」

『アスタ……か。理由を聞いてもよいか』

 なんだか、ちょっとかっこいい響きだぞ。

「はい。アスタ、というのは私達の古い言葉で『星』を意味します。あなた様が私の内に宿られる直前……昨夜、私は夜空に舞う、彩りあふれる流星群を見ておりました。生まれて初めて見るような壮観な景色に、ただただ息を呑んでいたのです。その中で、ひときわ強く、まばゆい輝きを放つ一つの流星が、私に向かってまっすぐに飛来いたしました。それが、あなた様でした。その時の輝きは、今も私の内にあるあなた様の気配から感じられます。決して失われてはおりません。ゆえに、『星』の名を冠し、アスタ様とお呼びしたく存じます」


 なるほど。俺は流星として、この世界に、そしてガロの中にやってきた、と。ガロには俺の存在が輝きとして感じられているのか。それならば、彼がかしこまって頭を垂れたくなる気持ちも、分からないではない。


『……あい分かった。アスタ。悪くない響きだ。ならば、そのように呼ぶがよい』

「ははっ! ありがとうございます、アスタ様! 早速ではございますが、アスタ様に一つ、お聞き届けいただきたい儀がございます」

『申してみよ』


 俺の言葉に、ガロは少し姿勢を正し、真剣な眼差しで語り始めた。


「恐れながら、私の夢をお聞きください。百年ほど前、この世界は大災厄に見舞われました。古老たちの言い伝えによれば、かつては太陽の恵みあふれる緑豊かな大地がどこまでも広がっていたと聞きます。しかし、突如として猛烈な大波が陸という陸を飲み込み、気候は一変してしまいました。大地は厚い氷に閉ざされ、生き残った者たちは、このコータイのような小さな集落にかろうじて寄り添い、日々を生き延びるだけで精一杯でした。誰もが絶望の淵に沈んでいたその時、神々は我々に語りかけたのです」


 ガロの声色が変わり、まるで神託を再現するかのように、荘厳な響きを帯びた。


 ――汝ら、生き残りし子らよ。これは試練である。遥かなる六つの世界が一つとなった。その融合の揺り戻しが、汝らに耐え難き苦痛をもたらしたことであろう。だが、これは神々の戯れではない。来るべき大いなる危機が、この新生せし世界に迫っているのだ。

 

 ――六つの世界を統合し、来るべき時に備える必要があった。その時は、およそ二百年後。その時までに、六つの世界の民は手を取り合い、古き因縁を越え、新たなる脅威に立ち向かわねばならぬ。さもなくば、今度こそ真の滅びが訪れるであろう。


 ――故に、勇敢に試練に立ち向かう汝らのために、我ら七柱の神は祝福を与えよう。各々の内に眠る才能を開花させ、この苦難を乗り越え、来るべき日に備えるのだ。


 ガロは語り終えると、一度深く息をついた。

「そうして、私たちは神々から祝福を授かりました。私にも、水の神メルクレードのご加護とされる狩りの技がいくらか。しかし、現実は厳しく、私たちは日々の暮らしに追われています。他の世界から来たやもしれぬ者たちとの接触や交流は、災いを恐れる族長によって固く禁じられているのです」

『……なるほどな。お主はその禁を破り、他の世界の民と手を取り合いたい、と。神々が示した未来のために、力を求めているのだな』

「おっしゃる通りです、アスタ様!」

 

 淀みなく語るその様から、それがガロの心からの願い、成し遂げたい夢であることは疑いようもなかった。だが、夢を語るガロの瞳の奥に、一抹の頼りなさも感じる。


『お主はそのような大志を抱きながら、今日まで具体的に何をしてきた? 村の掟をただ受け入れ、流されるまま日々を過ごしてきたのではないか? 胸を張って、悔いのない時間を過ごしてきたと言い切れるのか?』

「そ、それは……」

 ガロは言葉に詰まり、うつむいた。

『だが、案ずるな。お主の夢、確かに聞き届けた。これより、我がお主を導こう。その熱意、無駄にはさせぬ。そのためにも、まずはこの世界のことをもっと知らねばならぬがな。ガロよ、これから厄介になるぞ』

「アスタ様……! ありがたき幸せ! どうか、この未熟な私をお導きください!」


 ガロが感極まったように、再び深く、うやうやしくお辞儀をしたかと思うと、その姿は白い光の中に溶けるように消失した。

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