海獣王ガロ 〜凍てつく世界と星渡りの賢者〜

平手武蔵

第1話 ファーストコンタクト

 ふと気づくと、べっとりとした黒い絵の具を一面にぶちまけたような、漆黒の夜空が視界に広がっていた。遠く向こうには、煌々と輝く赤い月が見えた。気味の悪いほど静かで、巨大な月だった。


 少し目線を下にやれば、どこまでも続く水平線があった。そこが海なのか、巨大な湖なのかは分からない。赤い月光の粒を、さざ波が静かに揺らしていた。

 水面ばかりで陸地は見えず、ただひたすら、一様な景色が流れていた。まるで巨大な絵画の中を漂っているようだ。俺は、おそらく空を飛んでいる。おそらく、というのは体の感覚が何もないからだ。手を伸ばそうとしても、その手が存在しない。声を上げようとしても、喉がない。音は聞こえず、風も感じない。世界から切り離された、「視点」だけの存在になっていた。ただ景色を一方的に見せられているような、奇妙な浮遊感と無力感だけがあった。


 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。思い出そうとすると、とてつもない疑問にぶち当たった。そもそも、俺は一体、何者なのか。


 地球にある日本という国に生まれた。ここまではセーフだ。しかし、どこの誰で、どういう生い立ちであったか、まるで分からない。名前すら思い出せない。空っぽの頭の中に、答えのない問いが空回りするような、底なしの不安が渦巻いた。

 今まで生きてきた世界の一般常識や知識は、はっきりと理解しているというのに、自分自身のことだけがすっぽりと抜け落ちている。このアンバランスさが、余計に不気味だった。


 それから数十分が経っただろうか。あるいは、もっと長い時間か。時間の感覚すら曖昧だった。景色は何も変わらない。視界に入り続けている、見慣れない赤い月――そもそも、あれが本当に月であるかも怪しいものだ。禍々しい光を放ち、まるで巨大な目がこちらを覗き込んでいるかのようだ。

 もしかしたら、これは異世界転生というやつかもしれない。もやもやとした思考を、なんとかまとめ上げた。ネット小説や漫画で読んだ知識が、こんな形で役立つとは皮肉なものだ。だからといって、視点だけの俺に何をできるというわけでもなく、途方に暮れるしかなかった。


 しばし空を漂っていると、ようやく水面に変化が現れる。初めは水平線から現れた白い小さな塊にしか見えなかった。やがて、それが近づくにつれて、巨大な氷の大地であったことに気づいた。流氷だ。どこまでも続く、白と黒のコントラスト。

 南極なのか、北極なのか、極地にたどり着いたのかもしれない。しかし、ここは本当に極地なのだろうか。異世界である以上、地球と何から何まで同じであるわけがない。おとぎ話のような平面の形をしていることだってありうる。仮に地球と同じような惑星だったとしても、もしかしたら、ガリレオ・ガリレイが否定した天動説の成り立っている世界かもしれない。想像は膨らむが、確かめる術はない。


 とりとめのないことを考えていると、流氷の一片の上、一点だけ違う色が見えた。一匹の海獣――アシカが人型を成したかのような奇妙な生き物――が、いることに気づいた。

 

 その海獣をめがけて、俺は――いや、俺の視点は引き寄せられるように、速度を上げて飛び続ける。流氷がどんどん近づき、海獣の姿が段々と分かってきた。筋骨たくましい体に、たっぷりとした脂肪の鎧。そして、おそらく獲物から剥いだとみられる毛皮をまとった勇ましい姿だ。

 黒の毛並みは艶々と月の光を反射していて、まだ若い個体なのだろうとは思った。一見いかめしいが、よく見ると、つぶらな目をしている。顎の周りは少し毛が伸びていて、ちょっとしたタテガミのようだ。

 その海獣は一人、立ち尽くすように、こちらを――俺の視点を、まっすぐに見据えていた。驚いているのか、警戒しているのか、その表情までは読み取れない。


 ぶつかる!


 回避しようにも、体がない俺にはどうすることもできない。視界が真っ白に染まった。瞬間、ただの視点だった俺の中に、嵐のような情報と感覚が流れ込んできた。海獣――ガロと呼ばれる生き物の存在感が、俺という空っぽの器を満たしていくのを感じた。彼の若い生命力、狩人としての鋭い警戒心、そして、こちらに向けられた純粋な驚きのような感情の波。彼は海獅子族という種族の獣人の若者で、水の神メルクレードに祝福された狩人だという。日本語とは異なる言語の知識、彼自身の断片的な記憶までもが、奔流のように俺の中に流れ込み、彼と一体になったことを理解した。


 視界の白がゆっくりと消えていく。瞬間、失われていた体の感覚が一気に戻ってきた。骨身に染みる凍てつく寒さ。毛皮越しの硬い氷の感触。筋肉が軋むような確かな重み。無音だった世界に、風が氷原を撫でる微かな音、遠い波の音、そして何より自分自身の荒い息遣い――静寂の音が聞こえ始めた。長い時間、息を止めた後のように、体が求めるがまま、この世界の冷たく澄んだ空気を深く、深く肺に満たした。

 人間だった頃とは比べ物にならないほど、力強くドクン、ドクンと脈打つ心臓の鼓動を感じ、今ここに「生きている」ということを、強烈に実感した。

 だが同時に、激しい情報の流入と肉体の獲得による負荷だろうか。なんとも懐かしいような、それでいて抗いがたい、まどろむ感覚が強く押し寄せてきて――俺は意識を手放した。


 ◇


 いつまで眠っていたのだろうか。重い瞼をゆっくりと持ち上げる。うっすらと俺の目が開いた。

 最初に視界に入ったのは、雪を固めたようなドーム状の内壁だった。ゆっくりと自分の手――毛皮に覆われた、明らかに人間のものではない大きな手だ――を見つめる。まだ少し頭はぼうっとしているが、確かにこの体は自分のものとして感じられる。寒さは厳しいが、毛皮と分厚い脂肪のおかげか、耐えられないほどではない。


 そして、視線を枕元に移した時、俺は驚いた。


 昆虫のような透明な羽の生えた、可憐な小人がそこにいたのだ。大きさは手のひらに乗るくらいだろうか。銀色の髪がきらめき、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいる。枕元で、うとうとしていたらしい。それはまさしく、ファンタジー世界における妖精であった。他に特徴を上げるとすれば、頭からぴょんと飛び出した触覚のようなもの、胸元で淡く光る赤い宝石のようなものであろうか。流氷の天使とも言われるクリオネに、なんとなく似ている。

 クリオネは儚げなイメージであるが、捕食時はバッカルコーンという触手を頭部からいくつも出し、獲物から栄養をすするのだとか。この可憐な妖精も食事の際は恐ろしい姿を見せたりするのであろうか。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。


 何も分からない……。だからこそ、慎重に動かねば。俺は状況を確認しようと、まず寝かされている床から起きようとしたが、体が動かない。金縛りにあったように、ぴくりともしないのだ。何か不思議な力に縛られているのだろうか。焦り始めた、その時のことだった。


「シエラ? 僕はどうしてここに……」


 あれ? 声が出た。だが、俺が意図した言葉ではない。俺の体が……この海獣の体が、勝手に喋っている。


「ガロ! やっと起きてくれた! 心配したんだから!」

 シエラと呼ばれた妖精は、ぱっと顔を輝かせ、小さな体で飛び跳ねるように喜んだ。

「お腹、すいてるでしょ? そこのテーブルに干し肉あるからね。私、族長に知らせてくるから!」


 シエラは弾かれたように、羽音を残して部屋の小さな出口から飛び出していった。


 一人残された俺は、呆然としていた。どうやら、俺にこの海獣――ガロの体を自由に動かす権利はないらしい。少し考えた後、俺は悟った。

 俺は物語の主人公として異世界に転生し、新たな人生を歩む……のではなかった。ガロという存在の中に、まったく別の意識体として宿ってしまったのだ。彼の目を通して世界を見るように、ただ彼の感覚を共有しているにすぎない。俺は運転手ではなく、助手席に座る同乗者、いや、彼の頭の中に住むだけの居候のようなものなのかもしれない。


 俺の思っていた異世界転生とは少し違う、いや、かなり違う。なんとも不思議な運命の始まりだった。

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