夢とジャズ
一十 にのまえつなし
第1話
夢の中に漂うのは、幼い頃の記憶だった。なにもかもが大きく見えた幼稚園の頃。ひときわ大きな存在だった父。
あの頃、父はいつも静かに笑っていて、僕はその笑顔にすがりつくようにそばにいた。
部屋の隅には古いレコードプレーヤーが置かれ、針が盤に触れると、ジャズの音が流れ出した。気まぐれで、自由なメロディ。サックスの音が空気を震わせ、ドラムの軽いビートが響く。
父が「これが本物の音だよ」と言うたび、僕は目を閉じてその音に耳を傾けた。どこか寂しげで、でも温かい響きが世界を満たしていた。
でも、その夢には影があった。現実とは違う、バロック。抵抗する気持ちが胸の奥でうずまき、僕は父の手を握っていた。
ある日、僕たちは閉じ込められた。狭い部屋だった。壁は湿っていて、どこか遠くで水が滴る音がする。
息苦しくて、逃げ出したくてたまらない。床の隙間から虫が這い出てきた。小さな黒い影が無数に動き出し、足元を覆う。ミミズもいた。ぬるぬるした体が絡み合い、僕に近づいてくる。
恐怖が喉を締め付け、叫びそうになる。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
父が動いた。どこからか白い粉の入った袋を取り出し、ためらうことなくそれを撒き始めた。粉が空気に舞い、虫たちの動きが鈍くなる。僕も震える手で父を手伝った。薬を掴み、床に撒く。必死だった。
虫が死に絶えるまで、僕たちは無言で作業を続けた。そして、静寂が戻ってきた。虫の気配が消え、ミミズのうごめきも止まる。
安堵が体を包み、僕は父にすがりついた。父の服からは、タバコとジャズのレコードを聴くときに漂う懐かしい匂いがした。
どこか粗野で、素朴な香りだ。
「今回は失敗しない」
父が呟いた。低い声だったけれど、確信に満ちていた。僕はその言葉を聞いて、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
失敗しない? 何を? 混乱する頭の中で、遠くからジャズのピアノが響いてきた。
自由で、気まぐれで、でもどこか悲しげな音。父の目を見ると、深い闇のような瞳がそこにあった。その中に渦巻く何かを感じて、僕は息を呑んだ。
夢はそこで終わらなかった。時間が流れ、場面が変わる。
広い空間にいるのに、やっぱり逃げられない。見えない鎖に縛られているような感覚。父はそばにいて、でも遠くに感じた。レコードプレーヤーがまた回り始める。ジャズのメロディが部屋を満たすけれど、僕の心はざわついていた。
その時、気づいたんだ。父の輪廻に巻き込まれていることを。この繰り返し、この終わらない夢のような時間。
父が何かを取り戻そうとしているのか、清算しようとしているのかわからない。でも、僕はそこにいた。父の魂と切り離せない存在として、ジャズの音に揺られながら漂っていた。
何度も同じ場面が繰り返された。閉じ込められ、虫が這い、薬を撒き、父にすがりつく。
毎回、父は「今回は失敗しない」と言う。レコードの針が盤を滑る音が、その言葉に重なる。
失敗しないって何だ? 何が終わるはずだったんだ? 頭の中がぐるぐると回り、答えが見つからない。
ジャズのメロディが僕を包み込むたび、父の瞳が遠くを見ている気がした。深い闇の中に、果てしない何かがあった。
ある時、夢の中で風が吹いた。冷たくて、鋭い風。レコードの音が一瞬途切れ、その風が僕の体を突き抜ける。
目が覚めたような気がした。
夢の中なのに、意識がはっきりする。父がそこに立っていて、僕を見ていた。でもその目はもう遠くを見ていた。僕の向こう側、僕ではない僕。
僕は立ち上がり、父から離れた。初めて自分の足で歩き出した。背中で父の気配を感じながら、レコードの音が消えていくのを聞いた。振り返らずにこの夢を去ることを選んだ。
そして、今ここにいる。現実の中で、目を覚まして。夢の残響がまだ胸に残っている。ジャズのメロディが耳の奥で鳴り続け、父のタバコの匂いが鼻をかすめる。
でも、もう父の輪廻の中にはいない。自由だ。心のどこかで父のことが引っかかっている。あの深い瞳、「今回は失敗しない」という言葉。
あれは父の呪いだったのか、願いだったのか。レコードプレーヤーの針が跳ねる音が、記憶の中で響く。
僕は静かに目を閉じた。父の魂に安らぎを願う。もう回り続けるレコードのような繰り返しの中で苦しまなくていいように。
虫の這う音も、閉じ込められた恐怖も、ジャズの音に溶けて遠ざかる。
父が愛したあの音楽が、どこかで流れ続けているなら、それが父の安らぎになるかもしれない。僕は記憶を抱えたまま、前に進む。
夢はゆっくりと薄れ、心の隅に残った曲。
What a wonderful world
夢とジャズ 一十 にのまえつなし @tikutaku
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