第4話 メアリー先生


 車は伊豆山を過ぎて海岸線を熱海へ、伊豆半島へと向かっていく。


「このまままっすぐ南でいいんだよね。」


「ああ、しばらくはそれでいい、近くなったらまた言うから。」


 じいちゃんはそれから少し、そのころを思い出すように目を閉じた。


「……それから、先生は療養所に赴任したんだ。」


 じいちゃんの声が、ぽつりと回想の底から立ち上がった。


 病院の廊下は、木の床がわずかに軋む音だけが響いていた。

 潮の香りが、どこか遠くから漂ってくる。


「先生は、稲取には自ら希望して行くと言ってたな。

『自分も感染しているから、病棟で患者の世話ができるからちょうどいい。』と。

 先生は陽性になったが、軽い咳程度でまだ人にうつしてしまうほどではなかった。

 けど、『いずれそうなるだろう。』と言っていたよ。

 それでも、奈津は『先生に師事する』って言って

 ……ついて来たんだよ。

 看護学校を出たばかりだったのにな。」


 僕は、車の中でその話を聞きながら、遠い昔に、それぞれの運命が静かに重なっていった場面を想像していた。


「俺も、ご両親も、もちろん反対したさ。

 ……でも、止められなかった。」


 記憶の中の廊下へ、少しずつ近づいていく。

 先生がいた、その病棟へ。

 先生は、そこでも変わらなかった。

 病気のことを恐れるより、患者の心を見ていた。


「治る見込みのない患者にも、最後まで寄り添う医師でありたいって……先生はそう言ってた。」


 ある日の先生の言葉が、はっきりと思い出された。


「ここは『世捨て人の集まり』じゃないのよ。」


 笑顔でそう言いながら、先生は白衣の裾をひるがえした。


「この病棟が、少しでも『普通の場所』になるようにしたいの。

 風景が寂しいじゃない。もっと笑ってもいいのよ……。」


 その声が、病棟の静けさをやわらかく包んでいった。


 じいちゃん……当時の賢太は、運転手として、時には使い走りとして、時には家族のような顔をして、病院と外の世界をつないでいた。


「先生がそう望んだから、いろんな物を運んだ。

 ……まあ、結局、俺はずっと運転してたな。

 先生との関係は……ずっと続いてたんだよ。」


 ほんの少しだけ、誇らしそうな声。


「親父の計らいで、先生は『患者』としてじゃなく『医師』として稲取に行った。だから、隔離はされなかった。

 ……病院の敷地からは出られなかったけどな。

 でも、奈津や俺とは……会うことができた」


 メアリー先生は、外と完全に断たれることはなかった。

 それでも『内側』にいた彼女は、自らを患者として扱うことを拒み、『医師としての役割』を、最後まで手放さなかったんだ。


  

 一年が経った頃だった。

 先生の体が、目に見えて弱ってきたという連絡があった。


「メアリー先生が呼んでいる」


 親父からの電話は、それだけだった。

 俺は、急いで稲取へ向かった。

 車を走らせ、海岸線を一気に駆け抜けた。


 木造の玄関の前に、メアリー先生が立っていた。

 白衣は着ていたが、見るからに元気がなかった。

 風に髪が揺れていたが、彼女の姿は、どこかかすんで見えた。


「……今すぐ、奈津を連れて帰って。」


 咳き込んだあと、先生は言った。


「もう、診察もできないほど体が弱っている。

 これ以上は……彼女を預かれない。」


 俺が振り返ると、奈津が、病棟の奥からゆっくりと歩いてきた。

 目は赤く、唇がかすかに震えていた。


「……なぁ、奈津。」


 俺は、声をできるだけ優しくした。


「ここで……終わりになったんだ。

 先生の言うことを、聞こう……な?」


 でも、奈津は首を振った。


「先生……実は……。」


 言葉を探しながら、奈津はゆっくりと顔を上げた。


「医療従事者の定期検査で……陽性だったんです。

 感染の疑いが出たので……帰れなくなりました。」


 静けさが、一瞬で場を支配した。

 時計の音も、人の気配も消えた気がした。


「……そんな……。」


 先生の声が、ほんの少し震えた。


「ご両親になんと伝えれば……合わせる顔がないじゃない。」


 それでも奈津は、少しだけ笑った。

 その笑みは、ひどく幼く見えた。


「これでまた、先生のそばで働けますね。」


 しばらく沈黙が続いた。

 外の風が、風鈴をひとつ揺らした。


「……賢太。」


 メアリー先生が、ふと俺の名前を呼んだ。


「……あの子、病棟の隅で泣いていたわ。ひとりで……。」


 それ以上、言葉は続かなかった。


「……ええ。」


 俺は頷いた。


「わかってます。……強がりだったんですよね。」


 その日、俺は荷物を置いて、ひとりで帰った。

 何かが終わってしまったことを、はっきりと感じながら。

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