第5話 覚悟
病棟の診察室には、風鈴のような微かな音が響いていた。
その音が、時間の経過を忘れさせるほどに静かだった。
先生の計らいで、奈津の両親が稲取を訪れたのは、それが最初で最後だった。
奈津の父は、最初から目元を赤くしていた。
椅子に座ったまま、拳を膝に握りしめて、
目の前の娘を見つめていた。
やがて、堰を切ったように、涙がこぼれた。
顔がくしゃくしゃになるほどに泣く、あんな大人を初めて見た。
たぶん、もう二度と会えないと覚悟していたのだろう。
奈津は、ただうつむいていた。
それまで黙っていた奈津の母が、ゆっくりと立ち上がった。
一度、先生に向かって深く頭を下げた。
「この子も……看護婦として、ここで働くと決めた以上、覚悟はしております。
どうか、最後まで先生のお供をさせてやってください。」
その声には、揺らぎがなかった。
次の瞬間、母は涙をぬぐう夫を睨んだ。
「……あんた、いつまでも泣いてんじゃないよ。
娘が命懸けでやるって言ってるんだ、テテ親なら、しゃんとしな。」
父は、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……お前が決めて、歩んだ道だ。精一杯、頑張ってこい。」
奈津は、その声に顔を上げた。
そして、まっすぐ両親を見つめて言った。
「はい。最後まで、お仕えいたします……。
長い間……お世話になりました。」
その瞬間、何かが決まった気がした。
空気が変わった。
もう誰も、止めることなどできなかった。
……なんて人たちなんだよ。奈津の家は。
俺も父親も……ただ、唖然として見ていた。
いざという時、覚悟を決めた女ってのは、本当に強い。
……かなわないよ、まったく。
こんな場面を見せられたら、
もう、俺も笑って覚悟を決めるしかなかった。
風鈴の音が、ふたたび鳴った。
そのとき、俺は先生と目が合った。
何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
それだけ。
「わかりました。」とすら言えなかった。
でもきっと……伝わっていた。
「覚悟」って、言葉じゃないんだよ。
熱海の街並みを抜けると、道は海岸線へと開けた。
潮の香りが、ほんのり車内に入り込んできた。
セダンは静かに走り続けていた。
「……それから、ひと月ほど経った頃だった。」
じいちゃんの声は、どこか遠くから響いてくるようだった。
「思いがけない知らせが届いたんだ。」
車は再び国道へ伊豆半島を南下していった。
「知らせってなんだよ。」
「まぁ、せかすな。俺にも心の準備が必要なんだ。」
一瞬、車内が静かになった。
風の音だけが、窓の隙間をすり抜ける。
少しじいちゃんが黙った。
そして意を決したかのように語りだした。
「先生のもとに、結核の特効薬が届いた。
ストレプトマイシン。
当時は、滅多に手に入らなかった。
米軍経由で、先生に治験の依頼が来たんだよ。」
僕は思わず身を乗り出した。
「じゃあ……じゃあ、先生は……助かるかもしれなかったってこと?」
「そうだな。」
じいちゃんは頷いた。
「でも……先生は、その薬を、自分じゃなくて……奈津に投与したんだ。」
息を呑んだ。
言葉が、すぐに出てこなかった。
「……なんで。」
ようやく声にしたとき、自分の声が震えていたのがわかった。
「なんで、先生は……ばあちゃんに?
自分が助かるかもしれなかったのに……。」
じいちゃんは、窓の外を見たまま、少し笑った。
「先生は、こう言ったんだよ。」
「この薬は、私のようなおばあちゃんではなくて……。
未来のある若者にこそ、使ってほしいの。」
その声は、悲しみでも誇りでもなく、ただ、当たり前のことを言っているようだった。
じいちゃんは、ゆっくりとつぶやくように言った。
「……あの人に、もう一度だけでも、ありがとうって言いたかったよ。」
車が、ゆるやかにスピードを落とす。
そして、停まった。
エンジン音が消えると、世界も止まったようだった。
「……さて。」
じいちゃんが、助手席から僕を見た。
「ここから先は、お前にも関係がある話だ。」
「……僕に?」
「そうだ。よく聞けよ。」
……ああ、
僕につながる命のリレーは、こうして守られていたんだな……。
診察室の窓からは、午後の光が柔らかく差し込んでいた。
白いカーテンが風に揺れて、影が床に淡く踊っていた。
メアリー先生は、椅子に座りながらも背筋を伸ばしていた。
その姿は、弱った身体を感じさせず、むしろ、何かを背負う人間の気高さをまとっていた。
「奈津。」
先生の声は、静かだったが、どこか響くものがあった。
「その薬で病気を治したら……。
賢太のもとに嫁ぐか、あるいは、感染症の研究をしている大学病院に移るか、あなた自身が選びなさい。」
奈津は驚いたように顔を上げた。
少しの沈黙の後、絞るような声で言った。
「……先生が元気になれば、もっとたくさんの人を助けられるはずです。だったら……私じゃなくて……。」
奈津の声が、かすかに震えた。
「……先生が使ってください。」
その一言に、診察室の空気がふるえた。
メアリー先生は、そっと目を伏せ、しばらくして、物憂げな表情で口を開いた。
「病気が治っても、私は……ただの年老いた外国人として、この国で、ひとり生きていくだけよ。」
窓の外を見つめながら、先生は続けた。
「でも、あなたたちには未来がある。
子を産み、育て、大人にすることができる。
生きる者には、それが叶わなかった者の分まで……
生きる義務があるのよ。」
そして、先生は奈津の方へと顔を戻し、まっすぐに見つめて言った。
「だから……生きるチャンスがあるなら、あきらめちゃ、いけない。」
その言葉には、命じるような強さはなかった。
むしろ、願うようなやさしさが滲んでいた。
長い間、誰も言葉を発さなかった。
診察室にただ、風の音だけが残っていた。
……その日から。
奈津は治療を受けながら、先生の助手として、再び働き始めた。
もちろん、献身的だった。
看護でも記録でも、誰よりも早く動いていた。
けれど、俺は知っていた。
先生の身体は、もう……誰かを診るどころじゃない状態だったんだ。
それでも先生は患者にとって、『最後の医師』であろうとしていた。
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