第3話 青い瞳の異邦人
「ところで賢治、……夜鳴きラーメンって、知ってるか?」
突然の問いかけに、僕は目を細めた。
「……ラーメン屋? 深夜営業の?」
「いや、もっと違うんだよ。昔は屋台が夜になると街を回って来てな……。
先生が会議で遅くなると、よく俺にラーメンを奢ってくれたんだよ。」
じいちゃんの声が、またすこし遠くなった気がした。
「夜鳴きラーメン、ってやつがあってな……。」
車は海へと向かう道を、ゆっくりと走っていた。
窓の外に、かすかに潮の匂いが混じる風が流れ込んできた。
……じいちゃんの声は、いつのまにか笑いを含んでいた。
「昔はな、ラーメン屋が屋台を引いてたんだよ。今みたいなキッチンカーじゃなくて、ちゃんとリヤカーで。
夜になると、チャルメラの音を鳴らして町を回ってた。」
……湯気の立ちのぼる、あの屋台の音。
……チン、と鳴る金属の丼。
……鼻をくすぐる、鶏ガラスープの匂い。
「俺はその隣にでっかい公用車をつけて、先生とラーメンを食べてたんだよ。
出てくるのは若造と金髪の婦人だ、そりゃあ注目されたさ。」
じいちゃんの言葉に、当時の風景が浮かんできた。
裸電球の明かりが、ほんのりとラーメンの湯気を照らしている。
片言の日本語で笑う金髪の婦人。
ラーメンをすする音と、リヤカーの軋む音。
その夜の町には、特別な音があった。
「日本の夜は、賑やかね。」
メアリー先生が、そう言って笑った。
その顔が、ふと浮かぶ。
柔らかい目と、湯気で曇った眼鏡。
まるで、どこか別の時間から来た人のようだった。
「……あの時の笑顔がな、なぜか忘れられないんだよ。」
じいちゃんの声が、急に静かになった。
風が車窓を叩く音が、妙にやけに強調されて聞こえた。
「そんな生活が、二年くらい続いてた。
でもな……。」
「……奈津が看護学校を卒業する年の春、先生は帰りに、倒れたんだ。」
車内に、沈黙が落ちた。
じいちゃんはもう何も言わなかった。
ただ、前を見ていた。
小田原への標識が見えてきたころだった。
車内を流れる空気が、ふと変わった気がした。
「奈津がな……先生を宿舎まで運んだんだよ。」
じいちゃんがポツリとつぶやいた。
信号のないバイパスを、一定の速度で車が進んでいく。
「女性同士だからってことで、奈津が看病を引き受けた。
でも先生は……繰り返し言ってたらしい。
『早く帰りなさい。手洗いとうがい、マスクも忘れずに』ってな。」
その言葉が、車の中に残った。
ラジオはもう切ってあった。
ウィンカーの音だけが、淡々とリズムを刻んでいる。
「それでも奈津は、通い続けたらしい。何度も、何度もな。」
じいちゃんの声には、どこか迷いのような、誇らしさのような、複雑な響きがあった。
……ばあちゃんとじいちゃんが結ばれる縁。
それは、こんなふうに始まっていたのかもしれない。
助手席から聞こえてくるその言葉が、まるで遠い昔のラブレターの一文のように感じた。
「……先生も頑固だったが、奈津も負けてはいなかった。」
じいちゃんがふっと笑った。
「後になって、先生が笑って言ってたよ……。」
そして言葉を切った。
その沈黙は、まるで風のように車内を流れていった。
じいちゃんの声が、いつもより少し低くなった。
「……先生はしばらく、仕事を休んだんだよ。」
小田原を抜けた先、海辺の風景が、窓の外に広がっていた。
風の音が、時折、車体を撫でる。
「病院までの送迎は、俺がやった。
でももう、通訳は来なかった。
先生が……断ったんだろうな。」
……そのときの様子が、じいちゃんの言葉に乗って、僕に伝わってきた。
夜の寄宿舎。
外灯の下に止まる車の影。
じいちゃんは後部座席と運転席の間に、厚いビニールシートを張っていた。
助手席には、消毒スプレーと手袋の箱。
「賢太、マスクをして来ること。
降りたら換気と消毒……手袋も。手洗い、うがい、忘れずに。」
座席に座る先生の声は落ち着いていたが、その中にかすかに滲む、冷たい確信があった。
「それはつまり……」
若いじいちゃん……賢太が、思わず問い返す。
「……そうだよ」
メアリー先生は、目を伏せながら言った。
「結核になったの。」
その瞬間、空気が変わった。
車内の音が、まるでフィルターを通したように遠ざかる。
じいちゃんの言葉も、エンジンの音も、すべてが消えかけた。
僕はそれ以上、何も言えなかった。何も感じられなかった。
世界が、切れた。
そんな感覚だった。
風の音と、どこかで鳴っていた風鈴の音だけが、時間の隙間から聞こえてくる。
やがて、じいちゃんの声が、再び流れ始めた。
「先生は、自分でも患者と接してたからな。
連日の講義、訪問、移動で体が限界だったんだよ。
咳が続いて、検査を受けて……結果は、陽性だった。」
少し間を置いて、じいちゃんは言葉を続けた。
「医者の不養生ってやつだな。
先生は、自分の体の不調すら、記録の一部にしてしまうような人だった。
それだけ、仕事に熱心だったんだよ。」
僕は、ただ黙ってハンドルを握っていた。
セダンは、どこまでも静かに、東伊豆に向かっていた。
車は、ゆっくりと湯河原から海沿いの道に入った。
遠くに、伊豆半島の輪郭が見えている。
じいちゃんは、しばらく何も言わなかった。
助手席で、まっすぐ前を見たまま、手元の花束をそっと握り直す。
「……その時代、結核はな。
飛行機にも船にも乗れなかったんだよ。」
僕は、ちらりとじいちゃんの横顔を見た。
その目は、ずっと遠くの景色を見ているようだった。
「だから先生は、帰れなかった。
故郷にも、家族のもとにも……戻れなかったんだ。」
風が窓の隙間を通り抜け、髪の先を揺らした。
「この国で療養することになったんだよ。
人里離れた病院で……伊豆の山の中だった。
今みたいに治療方法もないし、隔離が当たり前だった時代だ。」
「……先生は、ひとりで?」
そう尋ねると、じいちゃんはかすかに首を横に振った。
「……いや。奈津が一緒に行くって、きかなかった。
『あなたには女性の身の回りのお世話は難しいでしょ。』
そう言って奈津が一緒に行くってきかなくてな。
先生と一緒には座れないから、助手席に乗せて行ったんだ。」
その言葉のあと、少し間が空いた。
「奈津は助手席で、じっと前だけを見ていたな。
……黙って。でも、心だけは、強かったよ。」
ラジオはもう切ってあった。
車内は、タイヤが舗装を滑る音と、遠くの潮騒だけだった。
「これから行くのは、その病院があった場所だ。稲取の……。」
じいちゃんの声に、少しだけ熱がこもった。
「先生が、療養しながら……それでも診療を続けていた場所。
……あそこに、今も先生が眠っている。」
言葉の合間に、花束が軽く揺れる音がした。
じいちゃんの指が、優しくそれに触れていた。
「俺も、もう年だ。奈津は膝を悪くしてな、
……あそこには、もう登れないって言うんだよ。」
静かに笑ったような声。
でも、どこか遠くで、別の景色を見ているような気がした。
「だから今日は……俺が行く。
花束を持って、最後の……。」
言い切る前に、指が花束の包装を少し握りしめた。
「……お別れに。」
僕は、何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
「……そう、か」
そう言うのがやっとだった。
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