④
「久礼羽さんに確認したいことが四つあるんだけど」久礼羽の話が終わると、綾崎はおもむろに口を開いた。「まず一つ目。盗聴器の音質はどうだった?」
久礼羽は答える。「鑑識からは、非常に悪かったと聞いている。かろうじて聞き取れる程度の、出所の不明な粗製品だそうだ」
「自動字幕生成も難しそう?」
「篠沢を想定しているのだろう? わたしたちも疑って調べたが、一般に流通しているどのアプリでも、ほとんどが意味のわかる文章にはならなかったそうだよ」
ふん、と低く応じて綾崎は、質問を転じる。
「二つ目。秋園由太歌に恨みを持ってたり執着してたりしそうな、つまりは動機のありそうな人物は篠沢佳乃以外にいなかった?」
「今のところは見つかっていないな」
「三つ目。秋園由太歌のスマホやパソコンは当然調べたんだよね? 家族の予定を聞き出されるといったような不審なやり取りか、そこまでいかなくても多少でも不可解な履歴はなかった?」
「いや、ないな。特に篠沢との通信履歴は、犯行のきっかけになったものがあるかもしれないと注意深く確認したが、怪しいものどころか仕事関係の連絡以外は何もなかったよ」
「最後の一つ。秋園由太歌の司法解剖では刺創のあった心臓と消化物を調べるための胃腸以外にはメスを入れてないんだよね?」
「ああ」久礼羽は首肯した。「
「オッケー、ありがと」それから綾崎は、今度はわたしにそのかわいらしい顔を向けた。「事件当日に真琴が友達と遊ぶ予定が決まったのはいつ?」
なぜそんなことを聞くのかわからず一瞬返事が遅れた。「……前の晩だよ。夜の九時ごろにお誘いのメッセージが来たのよ」
綾崎は質問を重ねる。「秋園家では誰が煙草を吸うの?」
「由太歌さんだね」
「いつも小まめに灰皿を洗ってるの?」
「うーん」どうだろ、と考える。微妙なところだろう。「由太歌さん、匂いや音に敏感だったりで神経質なところがあるから余所よりはきれいにしてると思うけど、でもそんなに頻繁に洗うわけでもないかな」
「当日に出掛ける前の灰皿はどうだった? 久礼羽さんが見たようなきれいな状態だった?」
「それが、見てないのよ。リビングにはなくて、たぶん由太歌さんが防音室に持っていってたんだと思う」
「ふむ」と鼻から洩らすと綾崎は、顎先に指を当てて黙考に沈む。
何を考えているのかわからないが、それはそれとしてわたしには久礼羽に聞かなければいけないことがあった。久礼羽さん、と呼びかけ、
「美幸さんに借金があるというのは本当なんですか?」
初耳だったのだ。美幸がそれで困っていたなんて知らなかった。
「事実だ」久礼羽は端的に答えた。「両親の協力で何とか支払えている状況だが、そうとう逼迫している。そう遠くないうちに滞るだろう」
「そんな……」
どうして言ってくれなかったんだろう、と思い、一介の高校生では頼りにならないか、と悟り、ということは、と思考が進む。
「治恵子さんと寧音さんは知ってるんですか?」
「美幸さんは秋園家の人間には誰にも話していないと言っていた。自宅の共有持分が差し押さえられれば迷惑を掛けてしまうのはわかっていたのに、実の姉だからと連帯保証人を安直に引き受けた自分を恥じて言い出せなかったそうだ」
押しに弱くて内向的な美幸の性格を考えると納得できるところもあった。一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう。気づいてあげられなかったことが悔やまれた。
「現場のリビングでさ」唐突に横から声が投げかけられた。考え込むのをやめた綾崎が質問してくる。「事件の前と後で変わったところはなかった?」
「荒らされたり盗られたりとかじゃなくてってことだよね? 何か変わってたかな……」
わたしは記憶を確かめる。
「ごめんね、わからない。たぶん同じだと思うけど」
綾崎は落胆するでもなく、「気づいたら教えて」とあっさりと言い、かと思えば不意に立ち上がった。「治恵子の勤めるクリニックに行くよ」
有無を言わせる気のない圧倒的断定口調だった。こちらの返事も待たずに行ってしまう。
ホテルのカフェラウンジだからか伝票がテーブルにないので、記憶の中のメニュー表を開いて勘定を確認する。
久礼羽のブレンドコーヒー(二千円)、わたしのアメリカーノ──エスプレッソのお湯割りのこと。わたしの好きな飲み方だ──(二千円)、そして綾崎の夕張メロンのタルト(紅茶付き。五千円)と佐藤錦さくらんぼのガトー(三千円)、締めて一万二千円
……。
久礼羽を窺うと、彼女も同じようにわたしを見ていた。わたしはうなずいてみせると、
「お会計はお願いしますね」
久礼羽は眉間をうねうねさせた。
〈
それでも患者はそれなりに訪れているようで、颯爽と現れた綾崎に、待合室が華やいだ。いい年したご婦人方が、きゃあきゃあはしゃいでいる。が、
「警察だ」
と、まるでハードボイルドなドラマで悪党の隠れ家に踏み込む刑事のような厳粛さで久礼羽が、受付の年若い女──たぶん事務職員の──に警察手帳を呈示すると、水を打ったように、というか冷や水を浴びせられたように静かになった。場が緊張しているのを肌に感じる。
この人、これで美少年の誘惑にデレッデレのむっつりさんなんですよ、と教えてあげたくなったが、唇は引き結んでおく。
久礼羽は、聞き込み捜査に協力してほしい旨を伝えると、民間の捜査協力者と紹介した綾崎にバトンタッチした。彼は早速尋ねる。
「正面玄関にある防犯カメラは、フェイクじゃなくて本物?」
秀麗なる眉目に真正面から見つめられた受付嬢は、はぅ、と熱っぽい吐息を洩らした。呆けていて答えない。
「んんっ!」
久礼羽のわざとらしい咳払いで、はっとしたように正体を取り戻した受付嬢は、慌てて答える。
「カ、カメラは本物です」
「防犯カメラはほかの出入り口にもあるの?」綾崎は聞く。自然体だ。
「は、はい、裏の職員通用口にも一台設置しています」一方、受付嬢の口調はぎこちない。緊張しているようだ。
「カメラの管理者は誰? セキュリティー会社?」
「いえ、わたしたちで管理しています」
「所有者管理ね」とつぶやいて綾崎は、続ける。「映像の保存期間はどれくらい?」
「ええと」受付嬢は少し自信なげに、「平時からチェックしているわけではないのではっきりとはわかりませんが、二週間ぐらいだったはずです」
「ここの出入り口の鍵は全部共通?」
「同じです」
「
元鍵に刻印されている鍵番号さえあれば合鍵が作成できてしまうため、防犯の観点から元鍵を常用しない人も珍しくなく、
「元鍵は院長先生が自宅の金庫に保管していて、いつもは二本ある合鍵で戸締まりをしています」
このクリニックもその例に洩れないようだった。
「鍵当番みたいな人はいるの?」
「看護師と事務職員が週ごとに輪番で担当しています」
「それなら」と綾崎は推測するように続ける。「今から一箇月以前、ここ五箇月以内にクリニックの出入り口の合鍵が紛失したことはなかった?」
「え」と受付嬢は声を零し、見開いた目をぱちぱちさせた。「どうして知ってるんですか?」
ふふ、と妖美の微笑を漂わせた口元が、「それは秘密」と答えれば、
「あ、あっ、ごめ、ごめんなさいっ」受付嬢は心から申し訳なさそうにする。非常に物わかりがいい。「余計な詮索はしません、はい」
「で、鍵の紛失についてだけど、見つかったんだよね? どこにあったの?」
「はい、秋園先生……ええと、勤務医の先生が間違って持ち帰ってしまっていました。バッグに紛れ込んでいたそうです。でも、予備の合鍵もありましたし、すぐに気づいてもらえたので問題は何も起きませんでしたよ」
そういえば、治恵子は診察中だろうか。
綾崎は質問を重ねる。「ところで、このクリニックではエコー検査やCT、MRI検査はしてもらえるの?」
「できますが……」受付嬢は今度は心配そうに眉を集めた。「気に掛かる症状がおありなんですか?」
「ううん、ないよ」
受付嬢はほっとしたように肩を脱力させた。
私情の入れ方があからさますぎてあきれる。久礼羽もそうだけど、世の大人たちは、わたしが考えるよりもずっといい加減なのかもしれない。
名残惜しそうにする受付嬢と患者たちに見送られてクリニックを出る。時刻は午前十一時になろうかというところ。晴れ渡る空に浮かぶ太陽は、まだまだ
炎天によく暖められた覆面パトカーのセダンに乗り込むと、またしても唐突に綾崎が言った。
「真相はだいたいわかったけど、後は真琴次第だね」
「え、わたし?」
「うん、ぼくの推理が正しければ、リビングに何らかの痕跡が残っている可能性がある。それがわかれば推理が完成するんだよ。だからもう真琴待ちなの」
「そんなにプレッシャー掛けられても……」本当に思い当たる節がないんだけど。
「ま、気楽に構えてればいいよ。ないならないでも解決はできるし」なんて、そう言う綾崎のほうこそ気楽そうだ。「あ、でも、リビングを調べてるのをほかの妻たちに悟られないようにしてね」
「ということは」久礼羽が割り込んで言う。「彼女たちの中に犯人がいるんだな?」
「さぁ、どうだろうねぇ」しかし綾崎は、からかうようにはぐらかす。「推理作家としてはネタバレはタブーなんで何とも言えないね」黙秘権を行使しまーす、とおどけて笑い、
「むぅ」と不服そうにする久礼羽に、
「あ、あとね」とたった今思い出したように言う。「鍵屋を当たって秋園家の誰かがクリニックの合鍵を作ってないか調べといて」
「それは構わないが、しかしなぜ……」
「推理の裏取りのためだね。詳細は探偵役の推理披露パートでわかるから」今は聞くな、ということらしい。「よろしくねー」
捜査終了ということで、覆面パトカーで夜這星高校まで送ってもらった。着いたら、午前十一時半を過ぎていた。
車が小さくなっていくとお腹の虫がさざめいてわたしは、聞こえただろうか、と目の端で綾崎を窺った。
が、綾崎は振り返りもせずに校舎に向かって歩いている。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は別のことが気になりだした。元々不思議に思ってはいたが、深くは考えていなかったことだ。
繊細そうに華奢なシルエットを小走りに追いかけ、わたしは綾崎の名を呼んだ。
足を止めて振り向いてくれた綾崎に尋ねる。
「どうしてわたしを疑わないの? 君からすれば、わたしは動機があってアリバイもない女でしょ。ネットだってそんなふうに見てる」
なのに、最初から信じてくれていた。クラスメイトでさえ猜疑に流れていたというのに。
「何かと思えばそんなことか」綾崎は肩透かしを食ったように洩らした。
わたしのメランコリーを軽視されたようで少しモヤモヤするけど、黙って──目で促して続きを待つ。
「勘──じゃ納得しなそうだね」
うん、とわたしが力強くうなずくと、綾崎は、仕方ないなぁー、というように微笑し、落ち着いた声音で答えた。
「ネタバレしない範囲で答えるとすれば──その目が理由だよ」
目?
と言われても普通の目だと思うけど──疑問符の色が浮かんでいるであろうわたしに、綾崎は苦笑風の含み笑いを零した。
「真琴って、しっかりしてそうなのに意外と抜けてるんだね」
なんて言うから思わず、
「いいから早く答えてよ」
しかしわたしのムカムカは、
「今も泣いてるんでしょ? 偽装メイクがんばってるのはわかるけど、腫れてるの全然誤魔化せてないよ」続く綾崎の言葉にあっけなくやっつけられてしまった。「忍ばせた涙が夫への愛の存在を証明していた──勘違いした執筆初心者がよくやる気取った文体で書くならこんな感じかな? どう思う?」
「小説家のことはわからないけど」その……、と決まりの悪さを呑み込み、「ありがと」
信じてくれて。由太歌への愛が嘘じゃないって言葉にしてくれて。
「うん、じゃあ原稿料払ってね」
「?」
「お昼奢ってってこと」
ああ、なるほど。「ちゃっかりしてるね」
「本格ミステリ専門の推理作家なんて今やニッチなビジネスだからね。いつまで人気が持つかもわからないし」
君くらいの美少年なら大丈夫だよ。
っていうのは流石にデリカシーがないか。
その夜、みんなが寝静まったころ、わたしはこそ泥よろしく抜き足差し足忍び足でリビングを調べていた。
綾崎の言うとおりなら、あるはず。何があるかはわからないけど、何かがあるはずなんだ、と信じて、座卓、ソファー、飾り棚、サイドボード、テレビ、掃き出し窓、フローリングと見ていき──、
「ふぅ」
小さく息をついた。何もないよ、綾崎君、と心の中で問いかける。答えはない。が、
「真琴お母さん? 何してるの?」
寝惚け眼の愛くるしいパジャマ姿──長女が現れた。トイレにでも起きたところが、リビングから気配がして気になったのだろう。
「何でもないよ」
今日のところは切り上げて、とりあえずは長女をベッドまで連れていこうとドアの所に歩み寄り──ふと目の端に違和感が引っかかった。
怪訝そうにする長女を騙して寝かしつけてから再びリビングに戻り、違和──ドアの横の壁に目を凝らした。
「……見つけた」
事件の前にはなかったものが、目の前にあった。ちょうどわたしの肩口の高さの壁紙が、小さく剥がれていたのだ。範囲は子供の小指の爪程度だけど、二箇所もある。
これが何を意味するのかわたしにはわからない。
けどきっと、綾崎にならわかるのだろう。わたしの涙を見抜いたように。
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