③
「──始業式? そんなのどうでもいいでしょ。はい、立って立って。タイムイズマネーって言うでしょ? 早く行こ」
今すぐにわたしを連れ出したいらしい綾崎は、噂の三倍は強引だった。始業式をサボれと命じてきたと思ったら手を掴まれ、男子サロンの部室に連れ込まれた。
何この急展開? 手抜きエロ漫画でもなかなかないくらいのスピード感。
「紅茶でいい?」綾崎の問いに、
「え、ええ」戸惑いつつうなずく。
入り口から向かって左側に給湯室が併設されているようだった。男子サロンは女子禁制で初めて入ったが、広さといい調度品といいわたしたち女子とは扱いがまるで違うとわかる。わたしが座らされた革張りのソファーも非常に心地よく、値段を聞きたいけど聞きたくないジレンマ。知ったら緊張してしまいそうで。
戻ってきた綾崎がテーブルに置いたティーカップから、抜けるような爽快な香りが漂う。ダージリンだろうか、と彼を窺えば、
「ダージリンの
と見透かしたかのように答える。男子の先輩──しかも生徒会長──も呼び捨てらしい。
一口飲むと、特有のフルーティーな苦みが滅入っていた気分を優しく温めた。ほっと小さく息をつく。
と、唐突に切り出された。
「君んちの事件からミステリーのにおいがするんだよね。トリックとロジックの
「はぁ」意図がわからず気の抜けた返事になった。「それがどうしたというの?」
「探偵ごっこをしようと思ってね」綾崎は無邪気そうにほほえんだ。「とりあえず事件のことを教えてよ」
ああ、とようやく理解した。綾崎は推理作家でもあったことを思い出したのだ。わたし自身に用があるのではなく事件に興味があったということか、と。
逡巡しないでもなかったが、話してみることにした。名推理に期待して、というよりも、話──というか有り体に言えば愚痴──を聞いてもらいたいというような私情が主だった。
「んー」聞き終えた綾崎は、考えるように低く声を延ばし、それから、「秋園由太歌は配信中にお菓子とかをよく食べるの?」
わたしは首を横に振って長い黒髪を揺らした。「配信中には飲み物は飲むけど食べ物は滅多に食べないよ。でも、カヌレは彼の好物だったからその時は食べようと思ったのかも」
「なるほどね」と綾崎は含みのある様子で言い、「ほかに気になったことはない? どんな些細なことでもいいよ」
記憶をたどってみたけど、「あとは、ないと思う」
「えー」綾崎は不満そうに薄めの唇を尖らせた。「それだけじゃちょっと伏線が足りないなぁー」
「ごめんね。でも、わたしに答えられるのはこれくらないなの」
「じゃあ仕方ないね」
と綾崎が屈託なく言うので探偵ごっことやらを諦めるのかと思ったが、そんなことはなかった。わたしはこの男の子の行動力を見くびっていたのだ。彼はスマートフォンを取り出すとどこかに電話を掛けた。
「シノリちゃん、久しぶりー、元気してたー?──うん、ちょっとお願いがあってね。実は例の作曲家の事件を調べててさ──そうそう、特捜本部の刑事の知り合いを紹介してほしいの。へっぽこ弁護士のくせになかなかいい勘してるじゃん──一人いるけど問題がある? どんな問題なの?──え? むっつりどスケベ? ああ、うん、まぁ、いいよ、その人でも──うん、今から迎えに来て、学校にいるから──授業? もちろんサボるよ。当たり前でしょ」
電話を終えた綾崎にわたしはすかさず尋ねた。というか突っ込んだ。
「人脈どうなってんのよ……」
「別に普通じゃない?」
「普通ではないと思うけど……」と控えめに反論しつつ、わたしは立ち上がった。「もうわたしは必要ないみたいだから戻るね──」話聞いてくれてありがとね、と言おうとして、
「何言ってんの? 真琴も来るんだよ?」虚を衝かれたかのような顔の綾崎に止められた。
虚を衝かれたのはこちらである。
「いや、本当に何で?」と尋ねれば、
「身内だからこその情報が必要になるかもしれないじゃん。そのたびに電話したりするの怠──タイパ悪いし、それなら連れてったほうがいいでしょ? 雑用がかr──助手にもなるし」
呆気に取られて雑用係こと秋園真琴は、ポカンと口を開けた。何て自分本位な理屈だろうか。マイペースとかそんなレベルじゃないじゃない。
少ししてシルバーのセダンで乗りつけたシノリちゃん──法橋司律は、へっぽこ弁護士という言葉から想像されるものとは違って、仕立てのいいパンツスーツを着こなす大人の女性だった。
が、綾崎には弱いのか、「コンタクトにしたんだ。そっちのほうがかわいいよ」と褒められるなり威厳のようなものは一瞬で霧散していた。それか、意外と男慣れしていないのかもしれない。
法橋の運転で向かったのは先日出頭した警察署の近くのホテルだった。
そこのカフェラウンジの片隅で一人、コーヒー片手に待っていた、むっつりどスケベ刑事を認めてわたしは、「あ……」と声を零した。
向こうも気まずそうで、法橋が、「面識があるのか?」と問う、彼女の大学の同窓生の刑事──気絶したわたしを運び、初動捜査での事情聴取を担当したベリーショートに銀縁眼鏡の
「ああ」と首肯して久礼羽は、お堅そうなのにむっつりなんだ、という視線を送るわたしを横目に、綾崎に水を向けた。「たしかにあの時の少年のようだな」
「ああ」綾崎は思い出したように発した。「カフェ店主殺害事件の捜査本部にいた人」
「流石によく見ている。キヤシキカンリカンをして名探偵と言わしめただけのことはある」
「何、それを口実にして抜けてきたの? 『実績のある民間協力者の意見を伺ってきます』とか言って」
久礼羽は再びうなずいた。「本来ならありえないことだからそれなりの理由が必要なんだ」
「ふうん、大変だね、公務員は」綾崎はどうでもよさそうに言う。
わたしたちを簡単に紹介した法橋が、「では、わたしはこれで」と言って店を後にすると、早速、綾崎は事件について尋ねた。
「とりあえず久礼羽さんが知ってることを全部教えて」
しかし久礼羽は、わたしを一瞥して躊躇の気色を見せた。関係者、それも容疑者に限りなく近い重要参考人の前で語っていいものか、と悩んでいるのだろう。
「はぁぁぁ」綾崎は芝居がかった長い溜め息を吐いた。「話してくれないと始まらないでしょ? 真琴のことは気にしなくていいから、ほらほら早くゲロっちゃって」
「しかし」と、なおもためらう久礼羽。
やっぱりわたし帰ったほうがいいんじゃない、と喉まで出たところで綾崎が、テーブルの上で持て余していた久礼羽の手を握った。ので、わたしはぎょっとしてその言葉を呑み込んでしまった。
「ねぇ、礼良さん」綾崎は突然、下の名前を呼んだ。
「ひゃ、ひゃいっ」思春期の処女みたいな反応。久礼羽の凛々しい顔がみるみる紅潮していく。
「ぼくの言うこと聞いてくれたら」綾崎の目が妖しく光る。上唇をちろりと舐めた彼は、「後で気持ちいいことしてあげる」
「き、気持ちいいこと?」久礼羽は興味津々だ──食いつきがすごいな。
「うん」綾崎はいい笑顔でうなずいた。「ぼく、結構上手いんだよ? 礼良さんが慣れてなくてもちゃんと気持ちよくしてあげられるから──ね、だから、いい子になろっか」
「……はい」手指をおもむろに撫でさすられながら誘惑された警部補は、五秒も持たずに陥落した。「何でも話します……」
わたしはいったい何を見せられてるんだ……? この人、わたしの知る久礼羽さんと違うんじゃ……?
などと困惑しているうちに捜査情報の漏洩が始まろうとする。何が重要かわからない──警察が見落としているかもしれないから、久礼羽が初動捜査に参加したところから順を追って語ってもらうという。
見てはいけないものを見るのは緊張する。わたしは固唾を呑んで耳を凝らす。
◆
久礼羽が現場に到着したのは、わたしが気を失う少し前だったそうだ。その後のわたしへの聴取が終わると、強行犯係として現場──板張りのリビングを確認した。
まず目についたのは、血溜まりに沈む遺体。うつ伏せの背中から細長い刃状のもの──のちの鑑識で、材質はステンレスで、ゴミを拾うための、いわゆるゴミ拾いトングを加工したものだと判明した──が垂直に生えていた。争った形跡がなかったことから、背後から不意打ちで襲われたものと見られる。
遺体の周囲からは、発見した治恵子と美幸がつけた血の足跡が複数延びていた。彼女たちは、駆け寄って呼びかけたりした際のものと説明している。
次いで掃き出し窓へ視線をやると、土の足跡が目立った。室内も物色されているようで、一見、前庭から物取りが侵入したかに思われたが、窓が割られているわけでもなく、断定には至らない。
「──おや?」
ふと気になった物があった。リビングの座卓に置かれていたメタリックブルーのステンレス製の蓋付き灰皿だ。ずんぐりとしたカボチャのような、あるいはカーリングストーンのような形をしている。割と大きめのサイズだ。
「どうしました?」鑑識係が尋ねてくる。
「何となく灰皿が引っかかるんだ」
久礼羽は違和感の正体を探ろうと灰皿を観察した。と、すぐに判明した。
「きれいすぎないか……?」
灰皿は蓋が開いていたが、中に吸殻はなく、灰の一片すらなかった。荒らされた室内とのコントラストで、異彩めいた様相を呈していたのだ。
「たしかにそうですが」鑑識係は、気に掛けるほどではないのではないか、と言いたげだった。
きれいだからといって何なんだ? という問いに対する答えは持ち合わせていない。久礼羽はひとまず頭の片隅に置くにとどめることにした。
その後、初動捜査として現場周辺の聞き込みをしたが、芳しい成果は得られなかった。住民は、「怪しい人は見ていない」「いつものご近所さんしか見ていない」と異口同音で、複数台ある近辺の防犯カメラの映像もそれを裏付けた。不審者は映っていなかったのだ。
また、凶器に指紋はなく、その他現場にあるいかなるものからも秋園家の人間以外の指紋は検出されなかった。
唯一の成果といえば、秋園家のリビングから盗聴器が発見されたことだった。可能性としては、この盗聴器で家族の予定を把握した犯人が、由太歌が一人の隙を衝いて事をなしたとも考えられた。
翌朝に設置された特別捜査本部で行われた第一回目の捜査会議では、初動捜査を受けて、物取り、怨恨、保険金目的の線で同時に捜査を進めることとなった。
由太歌の死亡保険金が男性であることを加味しても多額であることが明らかになると、その受取人である四人の妻たちへの嫌疑が現実味を帯びてきた。中でも美幸は、事業用資金の融資の連帯保証債務を負っていた。主債務者は彼女の実姉だが、夜逃げしており音信不通。失踪による住所不明は期限の利益の喪失事由に該当していて本来ならば一括返済しなければならない状況だが、債権者との交渉により分割での支払いを認めてもらっているようだった。しかし事業用資金ということでその額は莫大であり、返済に困った美幸が凶行に及んだというのは動機としてはありうるだろう。
とはいえ、治恵子、美幸、寧音は出先のデパートや飲食店の防犯カメラの映像、店員の証言によりアリバイが成立しており、わたしだけが槍玉に挙がる形となった。
しかし、わたしは容疑を否認。供述に不審な点もなく、犯行を立証する積極的な証拠もない。逮捕状を請求するには程遠い状況だった。
一方、怨恨の線には一人の女が浮上してきていた。由太歌の同僚の篠沢佳乃(四十一)だ。十三年ほど前からおよそ二年間、由太歌と交際していた彼女は、破局と時期を同じくして交通事故を起こしており、それが原因で聴力を失っている。会社の関係者によると、事故は篠沢を陥れるために由太歌が画策して起こしたのでないか、という噂が当時ささやかれていたという。つまり、篠沢による怨恨殺人。こちらも動機としては妥当なところだろう。
当時の事故の資料はすでに破棄されており、捜査は靴底を磨り減らすよりほかはなかった。
久礼羽は県警捜査一課の刑事と共に篠沢を当たった。すると彼女は、
「来ると思ってたわ。わたしを疑ってるんでしょう?」
と問われもしないうちに反問してきた。唇の動きから発言を理解する読唇術が使えるようで手話の類いは不要だった。
「いや、特定の人物を疑うところまではいっておらず、広く情報を集めている段階だ」久礼羽はしかつめらしく繕って答える。「あなたと秋園由太歌氏についての噂を耳にした──ああ、十一年前の事故のことだ。当時のことについて詳しく聞かせてもらえるか」
篠沢は記憶の中の面影を慈しむように瞼を伏せ、やおら瞳を開くと、「噂は逆よ」と言う。「わたしを疎ましく思った由太歌君がわたしを振ったのではないわ。わたしへの劣等感や焦りで本来の才能を発揮できなくなっていた彼を見ていられなくて、わたしから別れを切り出した。互いに心が求めても愛し合わないほうがいい人っているでしょう? わたしたちは近すぎないほうが上手くいくと思ったの。
その判断は功を奏して、由太歌君はヒット曲を作ることができたわ。正直に言えば複雑な心境ではあったけれど、すべてを呑み込んで祝福することにした。彼も素直に受け取ってくれたはずよ」
「では、事故はなぜ起きたのだ?」久礼羽は尋ねた。「自分と相手の前方不注意だと説明されていたそうだが」
篠沢は場都合が悪そうに、あるいは恥ずかしそうに、「あの日、別れ話が終わって車を運転していたら、涙がこらえられなくて視界がにじんだのよ──その瞬間、折悪く対向車線から車が飛び出してきた。過労が災いした居眠り運転だったそうよ。わたしたちは正面からぶつかった。心に余裕がなくてシートベルトを忘れていたわたしは、大怪我を負い、聴覚障害を抱えることになった」彼女は自嘲的に笑い、「自業自得なのよ。だから、事故のことで由太歌君を恨むことはないわ」
篠沢の語り口は、久礼羽たちの耳に真実らしく響いた。そしてそれは、その他の事故の関係者の証言とも矛盾しない。
だが、篠沢が由太歌とのことについて嘘をついていないことが証明されたわけではい。自分のほうから別れを切り出したというのは今となっては悪魔の証明だろう。由太歌亡き今、どうとでも言えることだ。
「ちなみに、事件当日の十七日の午後零時二十分から午後一時二十分までは何をしていた?」
と久礼羽に尋ねられた篠沢が、
「自宅でごはんを食べたりテレビを観たりね。独り者の独り暮らしだからアリバイを証言してくれる人はいないわね、残念ながら」
と答えたこともあり、物取りに偽装して宿怨を晴らそうとした線は、いまだ消せない。
なお、司法解剖の結果は事件から二日後の火曜日の朝には報告されていた。当初の検視どおり、背後から心臓を刺されたことによる心タンポナーデ──心外膜に血液が溜まりポンプ機能が阻害されるもの──が死因だった。また、配信の状況、死体現象及び胃の内容物から推定された死亡時刻は、午後零時二十分から午後一時二十分であった。
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