事件から三日、夏休みも残すところあと数日となった昼下がりのことだった。警察から電話が掛かってきて、話を聞きたいから出頭してほしい、と要請された。令状もないし任意なのだろうと思ったが、早く犯人を捕まえてほしい一心で了承した。

 そうして指定された警察署を訪れるなり、通路に並んだ取調室の一室に連れ込まれた。対応したのはセミロングを高い位置で結ったポニーテールの若い女と小柄ながら眼光鋭い五十絡みの女だった。

 椅子に腰を下ろして向かい合うと、ポニーテールの刑事が口を切った。


「当日の行動をもう一度、今度は朝起きた時から教えてください」


「はぁ」わたしは困惑した。


 前回の説明と重なるところは繰り返しにしかないないが、なぜそんな無意味なことを? と訝りつつ話した。


「つまり」年配の刑事が険しい声で言う。「死亡推定時刻のあなたのアリバイを成立させるには、友人の証言だけでは足りず、その老婆の証言も必要ということね」


 司法解剖の結果、由太歌の胃から、配信の終わり間際に食べた焼き菓子のカヌレが見つかった。ほとんど消化されていなかったことから死亡推定時刻は配信の終わった午後零時二十分から午後一時二十分だろうとのことだった。だから、友人と老婆の証言が揃えば現場との距離から考えてアリバイが完全に成立するが、友人のものだけだった場合はたしかにアリバイが不完全になる。


「ええと、おばあさんは何て言ってたんですか?」当然調べているものと思ってわたしは尋ねた。


「『秋園真琴? どなたですか?』だそうです」ポニーテールが答えた。「何度聞いても、あなたのことは記憶にない、としか返ってきませんでした」


 肩を落とすと同時に溜め息が洩れた。「認知症ですもんね、仕方ないですね」半ば自分に言い聞かせるように言い──「まさか、それでわたしが殺したって言いたいんですか?」と思い及んだ。


 年配の刑事が、ぴくりとも動かない無表情のまま言い連ねる。


「初動捜査の時点では物取りによる犯行かと思われたが、遺体に争った形跡がない不自然さは拭えない。

 また、犯人は被害者が一人だった時に事に及んでいることから家族の予定を把握していたものと見られる。物取りがそうであったと考えるのは少し厳しい。

 これらを考慮すると、身内を疑わざるを得ない。妻たちの中でアリバイがないのはあなただけ──」


「わたしじゃありません!」わたしは断固として抗議する。「わたしには、わたしたちには動機がないじゃないですか! 仲良く暮らしてました! それなのに、どうして幸せを壊すんですか。意味がわかりません!」


「動機ならあるじゃないか」年配の刑事が言う。「多額の死亡保険金があなたにも入る──」


 わたしは、バンッと手のひらで白っぽい机を叩いた。「お金なんかのために愛する夫を殺すわけないでしょうっ!?」


 声を荒らげたわたしを冷ややかに観察しながら年配の刑事は、切り返す。「本当は愛してなどいなかったんじゃないかい?」


「はぁあ?」語尾が喧嘩腰に跳ねた。「何ですか、それ」


「相手が年上すぎると、最初はよくても次第に嫌気が差してくる女もいます」ポニーテールも口を出す。「あなたがそうでなかったとも限りません」


「違いますって! わたしは本当に由太歌さんを愛していました!」と、ここで反駁材料に思い至る。「盗聴器はどうなったんですか?! 盗聴器でわたしたちの予定を盗み聞きしてた誰かが犯人なんじゃないんですか?」


 自宅のリビングから盗聴器が見つかったのだ。心当たりがないし気持ち悪いしで最悪だけど、犯人の手掛かりかもしれない。

 しかし、


「仕掛けた人物はまだ判明していません」ポニーテールが答えた。「したがって今回の件とは無関係かもしれませんし、断定的なことは何も言えません」


「それなら関係あるかもしれないじゃないですか! だいたい、仮にわたしが犯人で、友人との待ち合わせに遅れる口実をこしらえるにしたって、わざわざ実在の人物の名前を出したりしませんって。迷子のおばあさんを案内していたって言えばすむんですから、よく知らない人を利用しようとは思いません!」


「口実に真実味を持たせるために特定の人物を挙げた、というのも考えられます。そのために以前から都合のいい赤の他人を探していて、認知症の彼女に目をつけていたのではないですか?」とポニーテール。


「真実味を持たせてもアリバイ証言が得られなかったら結局は疑われるんですから同じことじゃないですか! そんな無駄なことしません!」


 もううんざりだった。だから、いかにも容疑者らしい台詞で嫌だったけれど、つい口走ってしまった。


「だいたい、証拠はあるんですか?! アリバイがないことと犯人であることはイコールじゃないでしょう? 動機にしたって何の根拠もない憶測で言ってるだけじゃないですか!」


「……」「……」


 刑事二人は視線を見交わすと、ふっと小さく息をついた。

 納得してくれたのか、と窺うわたしに顔を向けた年配のほうが尋ねてくる。


「では、ほかに犯人の心当たりはあるのかい?」


 記憶を探るも、


「いえ、わかりません」


 そして、わたしは解放された。いくら何でも証拠もなしに容疑者扱いはできないということなのだろう。

 警察署を振り返って仰ぎ見れば、窓のブラインドが動いた。誰かに見られていたのだろうか。

 はぁ。やな感じ。








 事情聴取の翌日の木曜日、司法解剖を終えたので遺体を引き渡したいという連絡が警察からあった。治恵子と寧音は仕事で不在で、わたしもちょうど子供たちと外で遊んでいて、美幸が応対した。

 美幸はすぐに葬儀社に電話し、葬式の手筈を整えようとした。夏場だからなるべく早いほうがいい、遺体が帰ってきたらその翌日には通夜が行えるようにしよう、とあらかじめ家族で話し合って決めていたのだ。

 しかし、折り悪く斎場の予約がいっぱいで通夜は土曜日となった。


「土日のほうが参列してもらいやすいから悪いことばかりではないわ」


 夜になると、女だけになった食卓で、自分の責任でもないのに申し訳なさそうに報告する美幸を慰めるように治恵子がそう言った。

 父親の死を理解していない末っ子が、口元を汚した顔をきょとんとさせて四人の母親を見る。スプーンからシチューのジャガ芋が、ぼとっと落ちた。


 色素の薄いボブカットをポニーテールにした寧音が耳心地のよい声で、「こらこら」とフォローに入りながら、「日曜日が初七日だからちょうどいいしね」


 父親にはもう会えないと悟っているらしき長女と次女が、泣きそうな顔をしているが、誰に似たのか涙は見せない。おかげでわたしも我慢できていた。たぶんほかの妻──母たちも同じようなものだろう。子供の前では気丈でいられる。


「日曜日にはひととおり終わるんだよね?」葬式のことはほとんど知識だけのわたしも会話に参加する。「夏休み中に終えられるんだから、一日くらい遅れてもわたしは気にしないよ」


 美幸は眉尻を下げて曖昧にほほえむと、「気を使わせちゃって、ごめんなさいね」


 そして土曜日の午後四時、葬儀社が手配してくれた斎場で通夜が開式された。

 弔問客には親族のほか、由太歌の友人や会社の人、歌手などの芸能関係者、そして刑事がいた。おそらくは怪しい人物を捜すために来ている刑事を除けば、皆、沈痛そうな面持ちをしているが、一人だけ悲しみだけでは説明できないような複雑な色を漂わせている女がいた。受付の際に盗み見た、参列者に名前と住所を書いてもらう芳名帳ほうめいちょうには、篠沢しのざわ佳乃よしのとあった。四十歳ほどで、赤みがかった髪に緩くパーマを施している。

 哀愁、懐旧、あとは何だろう……悔恨?

 などと篠沢が抱いているかもしれない感情に思いを巡らしているうちに焼香を終えた彼女が、遺族席に座るわたしたちに一礼して後ろのほうの一般弔問客の席に戻る。

 すると、隣の寧音が耳打ちして教えてくれた。


「彼女、由太歌さんの元カノなの」


 由太歌と同じ音楽制作会社に勤める作曲家で、ずいぶんと昔に別れてしまったが、その際、一悶着あったらしい。詳しく聞きたいところだけど、通夜が終わってからのほうがいいだろう。わたしは口をつぐみ、スカートの裾を指先で扱いてもどかしい好奇心を騙した。

 通夜振る舞いの段になってわたしは、篠沢の姿が見えないことに気がついた。話してみたかったのだが、焼香が終わったらすぐに帰ったようだった。

 そうしてお開きになって帰宅すると、疲労と共にソファーに沈む寧音に尋ねた。


「さっき言ってた一悶着って、何があったの?」


 寧音は、もたれた首を持ち上げた。気怠げだが、話したくないというほどではないようで、「わたしも噂でしか知らないんだけど」と始めた。「篠沢さんが聴力を失った原因が由太歌さんだった──っていう話があるのよ」


 二つの意味で驚いた。「彼女、作曲家なんだよね? 耳が聞こえないのに?」


「そうそう、すごいよね」寧音は肯定した。「聞こえてたころのイメージを頼りに曲を作ってるみたい」


「天才じゃない」


「そそ!」寧音は我が意を得たりとばかりに急き込んでうなずいた。「それがそもそもの発端だったのよ。十三、四年前くらいだったかな、同期でライバルだった由太歌さんと篠沢さんは付き合いはじめた。人としての相性は悪くなかったみたいで、いずれ結婚するだろうって周りは思っていたそうよ。

 けれど、才能っていうのは残酷で仕事のほうでは差がつくばかりだった。篠沢さんの実力に由太歌さんがついていけなくなっていたらしいの。評価も彼女のほうが上で、重要な仕事は彼女にばかり回されるようになっていった。顧客のニーズがそうなんだから仕方ないんだけど、男の人って変なところでプライドが高いでしょ?──よくわからない? まぁまだピンと来ないか。とにかくそれで二人の関係はぎくしゃくしてたの。

 そんな折、当時人気だったアーティストの作曲の依頼が入った。しかもミリオンセラー小説原作のドラマの主題歌で、名を上げるには打ってつけ。くすぶっていた由太歌さんは何としてもこの曲を担当したかった」


「駄目だったんだね」


「ええ、エンタメ業界は厳しいの。人に夢を見せられない者にチャンスは与えられない。会社は篠沢さんの起用を決定したわ──けれど、それは実現しなかった。そのタイミングで彼女は交通事故に遭って耳が聞こえなくなってしまったの」


「まさか」その先は察しがついた。


「そう、それで由太歌さんが代役を務めた。結果的にドラマはヒットして彼も一端の作曲家の仲間入りを果たした。同じ時期に破局していた篠沢さんがリハビリでいない間にどんどん実績を積んでいった。まるで光と影。一方はスポットライトを浴び、一方は舞台にすら上がれない。破局と事故を転機に運命が入れ換わったかのようだった。

 そうなってくると勘繰りたくなるのが人の性でさ、事故は由太歌さんが篠沢さんの車に細工して起こしたんじゃないかとか、睡眠薬を盛ったんじゃないかとか、いろんなストーリーがささやかれはじめた」寧音は背もたれに乗せるようにして首を後ろに倒した。「わたしの知ってることはこんなところねー」


「あのさ」わたしは思いつきを口にする。「それって動機ってやつなんじゃないの」犯人は篠沢さんなんじゃないの、と。


 寧音はまた首を起こした。さっきよりも怠そうだ。「真琴も案外単純ねぇー」などと言う。「噂は噂。痴情の真相は当人にしかわからないもんよー」


 そのとおりではあるけど、通夜での篠沢の様子を思うと嫌疑の暗雲はどんよりと濃く、晴らせない。







 月曜日から二学期が始まる。その準備をしていて、学生証がなくなっていることに気がついた。捜してみても見つからなくて、始業式には学生証なしで臨むことになってしまった。まぁなくても困らないんだけど。

 登校して階段を上ったところで、こそこそとした不快な視線の感触──陰口の気配がした。そちらに目をやると、廊下の窓際に集まった女子がおしゃべりに興じていた。会話したことのない子たちだ。

 気のせいか。

 と思うことにして教室へ向かう。彼女たちの横を通り過ぎようとして──彼女たちに緊張が走ったのがわかった。びくっと硬直したのだ。

 何なの? ともう一度彼女たちを見ると、その瞳におびえが浮かんでいて、まるで鏡像のようにわたしも恐怖した。

 もしかしてわたしを夫殺しの悪女だと思ってる?

 ネットでそういう邪推がささやかれているのは知っていた。でも、だからって証拠もないのに犯人扱いするほど短絡的な人は少数派なんじゃないの。

 けれど、わたしが現れた教室が、一瞬だけだったけど同じように色を失って、人間の弱さと浅はかさを理解させられた。明らかに疑っていた。仲の良かった友人たちまで。

 お前が殺したのではないか──声なき問いが耳にまつわりつく。

 わたしは自分の席に着くなりメイクが崩れるのも構わず机に突っ伏した。

 知り合いから疑われるのが、友達に信じてもらえないのがこんなにつらいなんて知りたくなかった。

 由太歌さん……。

 彼のどこかとぼけた顔をまなうらに思い起こし──教室全体で息を呑む気配がした。


「?」


 今度は何? と伏せたまま横を向いて薄目を開ければ、


「腰まであろうかという濡羽色ぬればいろの髪──君が秋園真琴だね」


 至近距離に甘やかに香る、花の美少年。二年生の綾崎千宙が、なぜか当たり前のように三年生の教室にいて、蠱惑的な微笑を浮かべてわたしを見つめていたのだった。

 ──本当に何で?

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