第四章 愛の存在証明

 ふと老婆が目についた。

 腰は曲がっていないが、皺は深く、その細い体は頼りない。枯れ枝のような印象だった。

 それだけだったならば、取るに足りない街の風景の一つとして気に留めることもなかっただろう。

 しかし、その老婆は異質な空気をまとっていたのだ。

 途方に暮れたような表情をしているのに、彼女から緊張感や危機感は感じられない。駅の東口にあるペデストリアンデッキ──広場の機能を兼ねた横断歩道橋──のベンチに膝を揃えてちょこんと座って、ぼんやりとどこともなく見つめていた。

 腕時計に目を落とすと、現在時刻は午前十一時四十一分──友人との待ち合わせまで残り二十分を切っていた。

 夏の盛りの強烈な日差しは容姿なく街行く人の肌を焼いている。福祉系の学部に進学しようとしているからというわけでもないが、わたしは一瞬の迷いを振り払って老婆へと足先を向けた。


「何かお困りですか?」


 見ず知らずの女子高生にいきなり声を掛けられたからか、老婆は当惑するようにその痩せこけた頬の片方に手を当てた。わたしを観察するように、けれど値踏みするようでもなく、まじまじと見てから、


「道に迷ってしまって」


「どこに行きたいのですか?」


「それが……」老婆は弱り切ったように眉尻を下げ、「うちへの帰り方がわからないのよ」


 その状態に自分自身ひどく戸惑っているようだった。


「もしかしたら道をお教えできるかもしれませんので、住所を聞かせてもらうことはできますか?」


「ええと……」


 ややあって老婆が答えた住所は、ここから遠くない住宅街──老人の足でも徒歩十五分程度だろう──のものだった。つまりここは近所。通常なら迷子になるはずがない。

 だからわたしは確信した。このおばあさん、認知症だ、と。

 そして、それは間違いではなかった。


「ここのはずですけど」


 そう言うわたしの眼前にはモダンな外観の一戸建てがあった。老婆の言った住所に案内したところたどり着いたのがここなのだが、表札に出ている名前が道中に聞いた彼女のそれと違っていて、さらに見覚えもないという。


「おかしいわねぇ……」老婆は頬に手を当てて首をかしげた。


「もしかしてお引っ越しされたのではないですか?」


 と尋ねたのは、認知症においては新しい記憶から失われていくからだ。つまり、ここは以前の住所で、現在は別の──徒歩で来ていたことからおそらくはそう遠くない場所で暮らしているのだろうと当たりをつけていた。

 記憶はまだ無事だろうか、思い出せるだろうか。祈るような気持ちと言えば大げさだが、それに近い気持ちで言葉を待っていると、


「ああ、そうだったわ」老婆は出し抜けにどこか牧歌的な声を発した。


 そうして説明された住所を、同じ轍を踏まないように、実際の街並みなどを忠実に再現したバーチャル地球儀アプリで確認すると、たしかに一戸建ての住宅で、老婆も、「そう、このおうちよ」と自信ありげにうなずく。


 よかった、と安堵し、案内しようとすると、


「でも、悪いわ」老婆は言う。「腕時計を何度も見て、あなたには予定があるのでしょう?」


「あるにはありますけど」途中で投げ出すのは無責任だろう。「でも、今日じゃなくてもいいような用事なのでお気になさらなくても大丈夫ですよ」


 友人もわたしのこういう性格を理解してくれている。先ほど連絡したら、『いいよー、わたしらは適当に遊んでるから終わったら連絡ちょーだい』と言ってくれた。


「そう? 悪いわねぇ」


 と言う老婆を連れて休み休み歩くことおよそ四十分、その住宅に到着した。確かに彼女の自宅で、鍵も一致した。


「ありがとねぇ」老婆はのんびりとした口調で言い、早く友人の下へ行きたいわたしに四回目になる同じ質問をした。「あなたのお名前を教えてもらえるかしら?」


 内心で微苦笑してわたしは、


真琴まことです。夜這星高校三年の秋園あきぞの真琴と言います」


「真琴さんね、覚えたわ」とやはり同じ受け答えから、「あなたみたいな親切な娘さんなら安心だわ。よかったらうちの息子と一度会ってみないかしら?」と新しい展開。


「ごめんなさい」わたしは答える。「わたし、もう結婚してるんです」


「あらまぁ」老婆は目を丸くした。「ずいぶん早いのねぇ」


 よく言われるし疑われることもしばしばだが、事実である。

 それはそれとして、現在時刻は午後零時四十五分。今から移動してだと急いでも合流は午後一時ごろになりそうだった。







 その予想は的中したが、友人たちは腹を立てるでもなく、わたしの到着時間がいつになるかで賭けをしていて、かえって楽しんでさえいるようだった。

 そうして夕方まで街で遊んで、門限というわけではないが、午後六時半には自宅──いわゆる閑静な住宅街にある、夫たちと暮らす一戸建て──が見える所まで来たわたしは、首をかしげた。家の前にパトカーが駐まっていたのだ。それも何台も。

 訝り、不安になりながらも歩を進めると、わたしに気づいたらしきパンツスーツの女──黒髪のベリーショートに四角い銀縁眼鏡をした、三十歳ほどの──がパトカーから出てきて、警察手帳を呈示してやや口早に名乗った。所轄署の刑事らしい。


「秋園由太歌ゆたか氏の四人目の妻の秋園真琴さんか?」刑事は硬い物言いで質問してくる。


「そうですが──」尋常ならざる事態に心臓と不安が暴れている。「何かあったのですか?」


「落ち着いて聞いてくれ」あなたこそ落ち着いたらどうですか、と言いたくなるような様子で刑事は告げた。「殺人事件だ。由太歌さんが何者かに刺し殺されたんだ」


「……嘘ですよね?」


 本当はわかってる、嘘のはずがないなんてことは。


 刑事は不憫そうに眉根を寄せ、かぶりを振った。「事実だ」


 信じられないし信じたくない現実を目の当たりにするとかえって冷静になるんだな、と他人事のような感想が浮かぶが早いか、不意に立ちくらみがして、


「大丈夫か」


 刑事に支えられた。

 体のほうが耐えきれなかったらしい。答えることもできずにぷつりと意識が途切れた。







 膜に覆われたような不明瞭な声が聞こえた。体の気怠さを自覚すると、わたしは自分の状況──ショックのあまり失神してしまったことを理解した。

 重い瞼を持ち上げると、子供部屋の床に横たわるわたしを、切れ長の瞳──一人目の妻の治恵子ちえこが心配そうに覗き込んでいた。消化器内科の個人医院で勤務医をしている彼女は、至って冷静に問診を始めた。


「頭痛はある?──ないのね。吐き気は?──それも大丈夫?」


 治恵子の所見は、過度なストレスによる神経調節性失神だろう、ということだった。病院に行くほどではなく、様子見でいいそうだ。

 わたしが体を起こすと、おっとりとした丸顔の女──二人目の妻で専業主婦の美幸みゆきが子供部屋に入ってきた。顔には疲労の色が濃く、彼女の、茶色に染めた短めの髪にもいつもの艶がない。


「よかった、目を覚ましたのね」美幸は元気のない声で言った。


「今の時間は……」と壁掛けのデジタル式時計を見ると、十八時四十分になろうとしているところだった。気を失っていたのはほんの数分だったようだ。聞かなければならないことだらけだけど、とりあえずは、「子供たちは寧音ねねさんが見てくれてるの?」と残りの一人、声優をしている三人目の妻の名を出してどちらにともなく尋ねた。


 わたし以外の妻はそれぞれ一人ずつ由太歌さんとの子供がいる。みんなまだ幼く──妻の順番に並べると五歳、六歳、三歳だ──心配だった。


「ええ、車で動画を観てるわ」治恵子が答え、


「幸い、現場は見せずにすんだから、『お腹空いた』って不機嫌になれるくらいには元気よ」美幸が苦笑まじりに言い足した。


 現場、という生々しく物騒な響きがわたしを不穏にさせた。


「由太歌さんが殺されたっていうのは──」本当なの? と言いかけたところで、


「失礼」先ほどの刑事が現れた。「事情を伺いたいのだが」と治恵子に視線を投げかける。


「あまり刺激的なことは避けて、短時間なら」


 医師の条件にうなずくと刑事は、わたしに向き直った。そして、前置きとして事件の概要を説明した。

 第一発見者は治恵子と美幸。午前から連れ立って出掛けていて十七時ごろに揃って帰宅したところが、リビングの中央、ソファーの横のフローリングにうつ伏せに倒れている由太歌を見つけた。背中には銀色に輝く、抜き身の刀身のようなものが突き立てられており、血溜まりができるほどの出血。治恵子はすぐに駆け寄って生死を確認したが、由太歌は間違いなく事切れていた。凶器はステンレス製の細長い板を鋭利に加工したもので、背後から心臓を一撃で貫いているようだった。

 また、リビングから前庭に下りられる掃き出し窓が開けっ放しになっていたことに加え、リビング、寝室、和室は荒らされ、床には土足で上がったらしき足跡があり、金品がなくなっていた。

 美幸から通報を受けた警察が到着したのが十七時十五分ごろで、十七時半過ぎには子供たちと出掛けていた寧音も帰宅した。そして最後にわたしが帰ってきて、情けなくも気絶し、今に至る。

 企業勤務の作曲家である由太歌は、今日は午前十時二十分から午後零時二十分まで弾き語りと雑談の配信をしており、したがって死亡推定時刻は配信終了後から十七時ごろまでとなるが、これは検視と状況のみからの推定であり、解剖すればより狭まる可能性が高い。

 そこで警察としてはわたしのアリバイを確認したいらしく、刑事は尋ねた。その時間は何をしていたか、と。


「道に迷っていたおばあさんを自宅に送り届けてから──」


 と言ったところで刑事の銀縁眼鏡が胡乱そうに光った。いかにも嘘らしいエピソードだから気持ちはわかるけど、


「本当ですよ?」それから、おばあさんのこと──名前や住所、認知症のことを説明し、「──その後は、午後一時ごろに友達と合流して夕方の六時ごろまで一緒に遊んでました」

 

「足取りをもう少し詳しく教えてくれ」


 というので、具体的な地名や目印になる建物などを伝えた。

 そのメモが終わると刑事は、


「ところで」と質問をよりプライベートなほうへ転じた。「真琴さんと由太歌さんやほかの奥様方はだいぶ年が離れているようだが、どういった経緯で結婚に至ったんだ?」


 由太歌が三十七歳、治恵子が三十六、美幸が三十三で、寧音が誕生日が来れば三十路だ。他方のわたしは十八歳の現役高校生。たしかに悪目立ちしているが──これはあれか、わたしは疑われているのか。

 そう察してむっとしないでもなかったが、とはいえ答えはする。


「由太歌さんの歌がきっかけです」


 由太歌が作詞作曲した映画の主題歌に救われたのだ。

 わたしは物心ついたころから完璧主義の嫌いがあり、しかも内罰的というか責任感に縛られる性格だった。そのせいで自分を追い詰めすぎていた時期があった。自分の能力以上の結果を自分に求めて、そんなのできるわけないのにできない自分を許せなくて、自分で自分を果てしなく貶めては無理な努力を重ねていた。こんなことすらできない自分は無能のクズだ、そんなやつには休みなんていらない、結果が出るまで死んでも体を動かしつづけなければならない、と。

 そんな時にふと耳に入ってきたメロディー、それが当時上映されていたその映画の主題歌だった。その歌が言わんとしているメッセージ──独特の死生観は、ある種の開き直りをわたしにもたらした。目から鱗が落ちるとでもいうのか、ふっと心が軽くなったのだ。

 わたしは早速、由太歌のSNSにメッセージを送った。もちろん色恋に濡れた下心など一滴もなかった。一ファンとして純粋に感謝と応援を伝えたかっただけだ。しかし、どうしたわけか、わたしたちの相性は悪くなく、気づけば恋人になり、妻になっていた。


 ひととおり聞いた刑事の感想は、「運命的だな」だった。その冷淡な物言いは社交辞令か否かを悟らせない。彼女はちらと腕時計を確認すると、「今日のところはここまでにしておく。ご協力、感謝する」と言って退室していった。


 奇禍が現実であることは認めたが、いまだ現実感はなかった。まるでスクリーンの向こう側を眺めているかのようで──。

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