⑤
翌日、わたしは再び男子サロンの部室を訪れた。スマホのメッセージで壁紙のことを伝えると呼びつけられたのだ。
時刻は午前九時五分──二日連続のサボりで、さらに女子禁制の花園への侵入。すっかり不良生徒の仲間入りだ。
綾崎と向かい合うようにソファーにお尻を落ち着けると、腿の裏に触れる革張りの風合いが思いのほかひんやりしていて、ちょっぴりどきっとした。
組んだ脚に手を乗せた綾崎が、口を切った。
「真相は真琴にとってあまり喜ばしくないものだけれど、それでもやっぱり聞きたい? 今のままでも真琴は証拠不十分で起訴されないだろうし、何なら迷宮入りさせちゃったほうがメリットが多いよ?」
「聞かせて」わたしの心──覚悟は決まっていた。半ば無意識にスカートの裾をぎゅっと握り、「由太歌さんを殺した犯人を野放しにさせておけないし、わたしは証明したい。わたしの愛が本物だって、本当に由太歌さんを愛していたってことを世間の人たちに認めさせたい」
「ま、そうだよね」綾崎は、翻意は期待していなかったのだろう、あっさりと引き下がった。「じゃ、久礼羽さんを呼び出すからちょっと待ってて」
額に汗を浮かべた久礼羽が現れたのは、それからきっかり三十分後だった。
お疲れ様です、むっつりさん。
と内心で労う(?)わたしの隣に久礼羽が腰を下ろすと、綾崎は上半身で、んー、と伸びをした。ふわっと力をほぐして手を下ろすと、やりますか、というようにわたしたちにその端整な顔を向け、おもむろに口を開いた。
「警察は物取りか篠沢佳乃の線で考えてると思うんだけど、残念ながらどちらも犯人じゃない。
まず物取りが考えにくい根拠だけど、まるで映画に登場する殺し屋の仕事かのように鮮やかすぎる不意打ちであること。犯行時に秋園由太歌はリビングにいたと推測されるところ、作曲家らしく音に敏い耳を持つ彼に気づかれないで掃き出し窓から侵入し、さらに刺殺圏内まで接近するのはかなり無理があると思わない?」
わたしと久礼羽がうなずくと、綾崎は続ける。
「しかも一撃で肋骨の隙間を通して心臓を刺す、ここまで来るとフィクションめいてくる。素人にはまず不可能だ。仮にそんな凄腕の殺し屋なり忍者なりが実在したとしても、今度は足跡を残した杜撰さが引っかかる。殺しの技術と釣り合っていない。
結論、素人か玄人かにかかわらず物取りの可能性は否定される」
続いて綾崎は、篠沢に言及する。
「篠沢佳乃については二つに場合分けして考えるんだけど、彼女を犯人とした場合、状況から考えると秋園由太歌が一人の時を狙ったと見るべきっていうのはいいよね? 近隣の防犯カメラや住民の目を掻い潜っていることから周到に計画された犯行だと解するのが自然だし、であれば盗聴器も彼女が下調べのために仕掛けたと考えるべきだろう。また、動機は恋情に由来する怨恨と仮定する」
ここまでで異論はある? と問われ、
「ないよ」「大丈夫だ」わたしと久礼羽は答えた。
綾崎はうなずくと、
「まず単独犯の場合。これは、篠沢佳乃が重い難聴であること、盗聴器の音質が字幕の自動生成を許さないほど悪いこと、秋園真琴の事件当日の予定が決まったのがその前夜であること及び家族の予定について秋園由太歌が篠沢佳乃に伝えた形跡がないことから、篠沢佳乃が秋園家の人間の予定を把握できたはずがないことが窺え、したがって状況と矛盾し、犯人ではありえないと結論づけられる。
そもそも、難聴なのに音質の劣悪な盗聴器を仕掛けるというのが
じゃあ共犯の場合はどうなるかというと、と綾崎は淀みなく論理を展開する。
「この場合、まず考えなきゃいけないのは誰であれば篠沢佳乃の共犯者になりうるかということ──」
「秋園美幸か」久礼羽が答えを口にした。
「そう。ほかに目ぼしい動機のある人物が篠沢佳乃の周りにいない以上、秋園美幸しかいない。これは一見、互いにメリットがあり、ありえそうにも思える──」
「普通にありえないよ」わたしは言う。「それはあんまりにも篠沢さんの気持ちを度外視してる。殺したいほどの愛憎の念を向けている人の奥さんとの協力なんて、わたしなら嫌だよ。妬み嫉みが足枷になってその女の不幸を願ってしまうもの」
思わず口を挟んでしまったわたしを咎めるでもなく綾崎は、「そのとおり」とうなずく。「このパターンは、いわば心理的矛盾から否定されるんだ。篠沢佳乃からすれば、秋園美幸が借金により破産しかけているなら手を貸さずにそのまま破産させてから秋園由太歌を殺したほうが意にかなっている。憎き男とその妻を効率的に破滅させられるからだ。したがって共犯の場合も否定され──」
「こういうのは考えられないか」その結論に待ったを掛けるように久礼羽が、言葉を被せた。「篠沢佳乃が、彼女とまったく接点のない金銭目的の物取りと偶然知り合い、利害の一致から共犯関係になった。これなら、顔見知りゆえの油断により不意打ちで刺し殺す難易度も下がるだろうし、その共犯者を頼れば盗聴器の音質の問題もクリアできる」
やはり綾崎は気分を害したふうもなく、むしろ楽しげに目を細めてさえいる。討論──言葉と論理でするパズル遊びが好きなのかもしれない。
何だか子供みたいでかわいいかも。
母性的な目で見られているとも知らずに綾崎は、朗々と反駁する。
「利害の一致ね。たしかにそうとも言えるけど、フェアじゃなくない?」
「フェア?」「じゃない?」
予想外の単語に久礼羽と揃っておうむ返しに尋ねた。どういうこと?
「うん、だって男への強盗殺人は原則、女なら死刑一択だし、男でも死刑か無期拘禁刑なんだよ?」
「あ」というように口を開けた久礼羽は、一足先に理解したようだった。
「一方の単なる物取り、つまりは空き巣は、住居侵入罪を定めた刑法第百三十条前段と窃盗罪の二百三十五条に該当し、そして五十四条一項後段によりケンレンハンとしてその最も重い刑により処断される」
突如として始まった法学講義に目を白黒させていると、綾崎はほほえみ、
「要するに、ただの空き巣なら失敗しても十年以下の拘禁刑又は五十万円以下の罰金ですむってこと。物取り目線で見れば、篠沢佳乃と共犯関係になることでリスクが跳ね上がるんだ。何せ強盗殺人だからね。公益的情状酌量、つまり男割が適用されても執行猶予なしの実刑は免れない」
ようやくわたしにも理解できた。「そっか、物取りからすれば、そこまでしてわたしのうちを狙う理由がない」
綾崎は、正解を答えた生徒に教師がするようににこっとしてうなずいた。「そう、物取りと篠沢佳乃の、いわば交換殺人めいた赤の他人同士の共犯は、第一にリスクの不均衡により否定される。第二には、物取りにとってはいつ裏切るかもかわらない共犯者を利用しなければならない理由がないこと。空き巣なんて難しい仕事じゃないんだから普通に一人でこなせるだろうにリスクを取るのは明らかにおかしい」
「ちょっと思ったんだけど」とわたしは疑問を口に出す。「これといった動機のない通り魔的な犯行だったってことはないの?」
「ないね」綾崎は即答した。「赤の他人による通り魔的強盗殺人にしては、争った形跡がないことが不自然だ。そこに目をつぶったらつぶったで、物取り同様、殺しと盗みの技術の不釣り合いという矛盾が生じる。
ついでに言うと、ただ純粋に人を、あるいは男を殺したかっただけで盗みはおまけだった、という、猟奇的動機による赤の他人の犯行も同じ理由から否定される。
また、顔見知りが通り魔的又は猟奇的動機で殺したというのも違う。殺せれば誰でもいいというのなら、面識も繋がりも何もない人物を、それこそ夜道ででも襲ったほうが捕まるリスクが低い。被害者の関係者が調べられないわけがなく、その過程で自分に疑いを持つ人間が現れるかもしれないのにあえて顔見知りを獲物とする旨みは少ない。
さらに、抵抗されるリスクを考えると、まだ三十代の男性を狙うというのも得心がいかない。老人や子供を狙って確実性を高めようとするのが健全な人情だろう。
そして、通り魔的又は猟奇的動機を持つ無関係の第三者と篠沢との共犯も認めがたい。誰を殺してもよく、選択肢がいくらでもある状況にもかかわらず、共犯者というリスクを抱え込んでまで秋園由太歌を狙うメリットは薄い。共犯者が心変わりして自首でもされたら終わりだし、そんな動機で人を殺すような倫理観の欠如した人間なら、〈共犯者は最終的には殺害して処分しなければならないもの〉という認識でいても不思議じゃない。であれば、二度手間だ。共犯は余程のことがない限りやらないだろう。少なくともぼくなら、そんな面倒なことはしない」
「すると犯人は秋園美幸か」と確信めいた調子で久礼羽が言う。
が、
「うーん、残念」綾崎は愉快そうに笑う。「それじゃ部分点──四分の一しかあげられないよ」
「その言い方だと──」わたしは思ったままに言う。「あと三人、共犯者がいるみたい」
と、まさかの、
「正解」
綾崎はそう告げると、悪戯っぽくほほえみ、ついに解答を口にした。
「犯人は、秋園由太歌、治恵子、美幸、寧音の四人なんだ」
驚愕と困惑。
わたしはもちろん、久礼羽も同じであることは大きく開かれた瞳から明らかだった。
「ど、動機がないよ」まるで名探偵に人差し指を突きつけられた犯人かのようにわたしは、やっとのことで震える声を絞り出した。「百歩譲って美幸さんには動機があるとしても、ほかの三人には、ない。だいたい、その理屈なら由太歌さんは自殺したことになる」
そんなのおかしいよ。
と眉を曇らすわたしにも綾崎は無慈悲だった。
「それも正解」
「待ってくれ」たまらずといった様子で久礼羽が言った。「意味がわからないんだが。なぜそうなる?」
「へへへ」悪戯が成功した子供のように得意そうに笑うと綾崎は、「実はもう一つ、無視しちゃいけない前提があるんだ」
そろそろわからない?
というような挑戦的な視線に女二人がかぶりを振って答えると、
「秋園由太歌は余命幾ばくもない病を患っていたんだ。ちなみに、病巣は司法解剖で調べなかった所にあったはずだよ」
「嘘だよ」そんなの知らない。認めたくない。「由太歌さんはそんなこと言ってなかった」
「だから?」と冷淡に綾崎。「言葉にしなくても事実は事実だよ。
推理としてはまず、単純な消去法で通常の他殺を除外する。つまり、物取り、篠沢佳乃、通り魔的又は猟奇的動機の人物が犯人ではなく、かつ三人の妻と子供たちにアリバイがあり、秋園真琴の他殺も違うとなると、物取りによる他殺に偽装した自殺又は秋園真琴その他第三者による同意殺人と考えるしかなくなる。
同意殺人はわかる?──そうそう、被害者の嘱託か承諾のある殺人のことだね」
綾崎は話を戻す。
「秋園真琴による通常の他殺を除外するロジックは、単独犯にせよ秋園美幸やほかの妻たちとの共犯にせよ、客観的に証明されうる動機がなく──というのも夫婦関係に問題がなく、何の負債も負っていない真琴にしてみれば文字どおり命懸けで手ずから秋園由太歌を殺さなければならないような境遇ではなく、加えて真琴を他殺犯としたら遅刻の言い訳も不自然だから。迷子のおばあさんを助けてました、なんてのは嘘くさすぎて疑ってくれと言わんばかりだし、証言能力のない認知症の人を口実に利用する合理性もない。
また、同意殺人も状況にそぐわない。
秋園由太歌が配信中には普段は何も食べないのに見せつけるようにカヌレを食べたのは、その直後の死を自らの意思によるものだったとすると死亡推定時刻を狭めるためだったと推測され、それはつまり共犯者にアリバイを与えるためということで、更に換言すれば同意殺人ではなく自殺だったと言える。その場に共犯者がいる同意殺人では、いくら死亡推定時刻を狭めてもその人物にアリバイを与えられないからだ。
さらに、秋園真琴は他殺偽装自殺の共犯者としても非合理がすぎる。
つまり、秋園真琴が共犯者だったとすると、自分が疑われるとわかっているのに認知症の老婆を助けてアリバイを投げ捨てていることになる。もしも老婆が心配で見過ごせなかったとしても、認知症と察しているなら警察を呼べばいいだけなのにそうしなかった。現役警察官ならアリバイ証人として最適なのに、だ。これは明らかに非合理だ。したがって、真琴は他殺偽装の共犯者でもありえない。
次に誰が共犯者かだけど、これは自殺の痕跡──つまり背中からまっすぐに深く刺していることから何らかの機械的物理トリックを用いたはずなんだけど、その証拠品が、警察官が到着した時に現場になかったことから、少なくとも第一発見者の治恵子と美幸は共犯だとわかる。証拠を隠滅できたのは彼女たちしかいないからだ。
さらに、寧音も共犯の可能性が高い。なぜって、この犯行計画には子供の面倒を見る役割の人物が必要で、狙い澄ましたように死亡推定時刻に完璧なアリバイがあるから」
以上のロジックで
そう言って綾崎は、ティーカップ──久礼羽が来る前に入れたものだから、ずいぶんとぬるくなっているだろう──に口をつけた。
繊細な手つきでティーカップを置くと、
「さて」と再開する。「次は
わたしは我慢できずに反論を投げる。「だからって自殺なんて」
「そのとおり」綾崎は言う。「だからこそ、秋園由太歌には隠された設定があるはずと考えたんだよ」
「それで病気か」久礼羽が落ち着いた声で言った。
「そう」綾崎はうなずく。「余命が少ないなら、実質的にはごく短い寿命を捧げるだけで大金が手に入る──というか与えられるんだからコスパは悪くない。選択肢としては十分に現実的だと言える。
そこまで推理できたぼくは、どうやって人知れず病気を調べたかを考え、すぐに秋園治恵子の存在に思い及んだ。医師である彼女の協力があれば可能だろう、と、それで彼女の勤務するクリニックを当たった。
ぼくが想像したやり方は、まずクリニックの鍵を拝借して合鍵を作り、後日、深夜などに侵入して検査するというものだ。鍵を持ち出した日ではなく後日に行ったはずだと考えたのは、監視カメラを警戒していただろうから。鍵がなくなったその日の夜間分くらいは、平時にはわざわざ見ようともしない職員でも、保存された映像を確認するかもしれない。仮に映像を削除したとしてもその形跡は残る。しかし日を置いて忘れたころになせば、そのリスクはほとんどゼロだ」
「鍵屋を調べろというのはそういう意味があったのか」久礼羽は腑に入ったというように言った。
「その、どうだったんですか?」わたしは裏取りの結果を尋ねた。
「綾崎君にはすでに伝えてあるが、秋園美幸らしき女性が合鍵を作成していた、と鍵屋は証言してくれたよ」
「ちなみに」と綾崎は補足する。「検査の時期は真琴との入籍日と映像の保存期間から推定した」
「入籍日は教えてなかったと思うけど」とわたしがぼやくように言うと、
「そこは現役三年生が最速で満十八歳になる誕生日が秋園真琴の誕生日すなわち入籍日であると仮定したんだよ。つまり検査の時期は四月二日以後で、事件当日からカメラ映像の保存期間だけ遡った日以前ということ。
上限が入籍日なのは病識と常識がある人間ならばそれを告げずに結婚しないだろうから。つまり、真琴が知らなかったことからその時点ではまだ病識がなかったと理屈がつけられるんだ。
また、仮にその時点ですでに犯行を計画していて病気を隠さなければならなかったとしても、この場合は不確定要素たる新しい妻を迎え入れるリスクから結婚しないはずで、現実として真琴と結婚している以上このパターンは除外でき、したがって上限の時期についての推定は変わらない。
そして保存期間を経てから事を起こしたのは、万が一怪しまれて調べられても問題ないように、だね」と淀みも隙もない返答。
「ううむ」久礼羽は低く唸って腕を組んだ。「犯人と動機についてはわかったが、他殺に偽装するための機械的物理トリックというのはどういうものなんだ?」
あはは、と綾崎はおかしそうに歯を見せた。「機械的物理トリックといっても複雑なものじゃないよ。ミステリ用語ではそう言うってだけで単純なものさ」
綾崎は、本格ミステリ作家に課せられたフェアプレイの呪いだとかよくわからないことを言ってヒント──ゴミ拾いトングを加工した凶器、きれいすぎる灰皿、ドア枠横の剥がれた壁紙──の説明をした。そして、解答解説の前にもう一度自分で考えてみて、と言う。
久礼羽は小首をかしげ、そのまま考えているようで、わたしもそれに倣って頭を働かせる。
けど、やっぱりピンと来ない。わたしに名探偵は務まらないらしかった。
それは久礼羽も同じようで、降参というように小さくかぶりを振った。
綾崎は口を開く。
「まず前提として、警察が駆けつけるまでの短時間に完全な証拠隠滅が治恵子と美幸に可能なものでなければならない。で、ぼくが推理したのは──」
と言って綾崎は、突然席を立って給湯室に消え、と思ったら手に平たい箱を持ってきた。板チョコレートの箱のようだった。
「こんな感じの細長くて四角い可燃物の箱をガムテープとかでドア枠横の壁に、ドア枠の内側に側面の開け口が向くようにしつつ、心臓の高さと肋骨の隙間の角度に合わせて貼りつけ、その開け口に、キッチンペーパーなどの容易に燃やせるものを使って指紋を残さないようにしつつ凶器を差し込んでセットする。想像すればわかると思うけど、包丁とかと違って取っ手がなくて平たいからこれだけで回転せずに安定する。
次に、仕掛けと反対側のドア枠に手を突いて押し込むようにして背中から心臓を突き刺す。通常、心臓を一刺ししたくらいでは即死しないから、凶器が刺さったまま自らリビングの中央まで移動してうつ伏せに倒れ、そのまま死に至るのを待つ。
死亡後しばらくして帰宅した治恵子と美幸は、動揺したり生死確認のためだったりで駆け寄ったことにして秋園由太歌が移動する際に滴り落ちた血痕を血の足跡で上塗りしつつ、壁の箱とテープを剥がして細かく千切り、先ほどのキッチンペーパーと共に灰皿に入れて燃やす。壁紙が剥がれたのはこの時だね。
で、ある程度が燃えたら灰皿の蓋を閉めて鎮火し、水を入れてすすぐようにしてその水ごとトイレに流してしまう。最後に念のために灰皿を洗って座卓に置いたら完了」
こんなとこだね、ね、簡単でしょ? と綾崎は結んだ。かに思われたが、
「──あ、そうそう」と言い足す。「物取りの偽装は、おそらく真琴と寧音と子供たちが家を出た直後に治恵子と美幸が行ったはずだよ。偽装の足跡をつける靴と盗られてなくなったように見せる金品を外でゆっくり処分するにはそれが一番都合がいいから。つまり、偽装後に証拠品を持って外出し、どこか遠くで処分したんだ」
今度こそ終わったようで、綾崎は箱からチョコレートを出すと、パキッと割って口に放り込んだ。「おいひぃよ、食べる?」とわたしたちに箱の口を向ける。
申し訳ないけど、とてもそんな気分じゃない。わたしは左右に首を振った。久礼羽も同じように断っていた。
ぼんやりとみんなの顔を思い浮かべ──ふと湧いた疑問があった。
「ねぇ、綾崎君」わたしは問う。「どうしてわたしだけ仲間外れにされたのかな」
知らないうちに嫌われていたのだろうか。それとも、新参の妻は信用ならなかったのだろうか。
んくっ、とチョコレートを飲み下してから綾崎は言った。
「さぁね、それは判然としないかなぁ。聞いてみないとわからないね」
と、横から久礼羽が答えらしきものを提示した。
「若者を犯罪に巻き込みたくなかったのではないか?
勘にすぎないと言えばそれまでだが、わたしには、君にアリバイがある時に合わせて犯行に及んだように思える。本来の計画では君は容疑圏外に置かれるはずだったんだ。
それが、皮肉なことに善行のせいで殺人の容疑を掛けられてしまった。思い返せば、君のアリバイが覚束ないと最初に聞いた時、隣にいた治恵子と美幸が動揺していたような気もする。きっと、まだ若い君にはきれいなままでいてほしいと思っていたんだろう」
そして久礼羽は、「──というのはどうかな、名探偵?」と綾崎に水を向けた。
綾崎は、「かもね」と軽く肩をすくめた。
わたしの胸の裡にいろんな感情が込み上げてきて、ぐるぐると渦を巻く。息が苦しくてブラウスの前をぎゅっと握ると、遠くでメロディーが聞こえた。
つつっと頬を伝った涙が、顎先から落ちた。
あーあ、また腫れちゃうや。
事件が解決してから数日経ったある日のこと、夜這星高校にわたしを訪ねてくる人がいた。教師にそれを伝えられて、その人が待つという応接室へ行くと、還暦を迎えたばかりといった年格好の押し出しのいい男性がいた。
「はじめまして」
と挨拶したその男性は、あの迷子の老婆の息子だという。
予想はしていたけど、老婆の記憶の中の息子よりもずいぶんと年輪を重ねていた。男性は、老婆の家にわたしの学生証があるのを見つけ、わざわざ届けに来てくれたらしかった。
「ありがとうございます」
と学生証を受け取ると、続けて男性は、
「母がご迷惑をお掛けしてしまい、本当に申し訳なかった」
と頭を下げた。
粗方の事情はニュースで報道されている。それで、男性はわたしが疑われたことに責任を感じているのだろう。
「わたしが勝手にやったことですから、お気になさらないでください」
と恐縮するわたしにかえって恐縮したように身を縮めた男性は、もう一度、先ほどよりも深く頭を下げた。
「いいんですよ」わたしは言う。「わたしにとってはつらいこともありましたけど、でもちゃんと解決しましたから 」
無理に気丈に振る舞っていると思ったのか、男性は気の毒そうに眉を集めた。「心中お察しする」
「大丈夫ですよ」あえてそう口ずさんでみると、浮かんだ顔があった。「実はわたしには頼りになる小悪魔がいるんです」
男性は顔に疑問符を浮かべる。
その様がなぜかおかしく感じてわたしはほほえんだ。
タクシーに乗った男性を校門の所で見送り、やがてタクシーのお尻が見えなくなると、寂しさの風が胸の隙間を通り抜け、ちりんと風鈴めいて心に響いた。
瞳を閉じる、ゆっくりと。
本当は心に残る涙の痕はまだ消えていないけれど、いつかまた新しい歌を愛せる日が来たら、その時はきっと──。
ふと仰ぎ見れば、空の青。眩しくてかざした指先の向こうで、終わりかけの夏がきらめいた。
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