第七章: 『最後の言葉 ―― 老作家からの遺言』

 文枝の容態は一進一退を繰り返した。良くなったと思えば悪くなり、また回復する。医師たちは最善を尽くしていたが、九十歳という年齢を考えると、完全回復は難しいと言われていた。


 千尋は学校と病院を往復する日々を送り、ジャン=ピエールはホテルから毎日病院に通っていた。二人は文枝のそばで交代で付き添い、彼女が目を覚ましている時は会話を楽しんだ。


 入院から二週間が経ったある日、文枝は千尋に言った。


「千尋さん、頼みがあるの」


「なんですか?」


「私の机の引き出しに、黒い革表紙のノートがあるわ。それを持ってきてくれない?」


 千尋は文枝のアパートに戻り、指示されたノートを見つけた。それは古い革表紙のノートで、中には文枝の若い頃からの日記が綴られていた。千尋は中身を読む誘惑に駆られたが、文枝の私的な記録であることを尊重し、そのまま持ち帰った。


 病院で文枝にノートを渡すと、彼女は感謝の微笑みを見せた。


「ありがとう。これは私の精神的な旅の記録なの。若い頃からの宗教的な体験や、死生観の変遷が書かれているわ」


 文枝はノートをめくり、あるページを開いた。


「これを読んでくれないかしら」


 千尋はノートを受け取り、指示されたページを読み始めた。


「『死とは何か? それは終わりではなく、変容である。私たちは形を変えながら、永遠の流れの中に溶け込んでいく。名前も姿も失われても、存在の本質は消えることはない』」


 千尋は文枝の若い頃の筆跡を見つめながら、その言葉の重みを感じていた。


「二十八歳の時に書いたの。インドでの臨死体験の後よ」


 文枝は懐かしむように言った。


「若い頃から、こんな風に考えていたんですね」


「ええ、でもそれは理論上の理解に過ぎなかったわ。本当の意味で理解したのは、年を重ねてからよ」


 文枝はノートの別のページを示した。それは五十代の頃に書かれたものだった。


「これも読んでくれる?」


 千尋は頷き、読み始めた。


「『名声を得れば得るほど、私は自由を失っていく。「中澤文枝」という檻の中に閉じ込められていく感覚。世間は「中澤文枝」という像を作り上げ、私はそれに従うことを期待される。しかし、本当の私は常に変化し、流動し、定義できないものだ。私は「中澤文枝」という名前から逃れ、ただの「言葉」になりたい』」


 千尋は言葉を噛みしめるように読んだ。文枝の「詠み人知らず」への願いは、単なる謙虚さではなく、もっと深い理由から来ていることが分かった。それは自由への渇望だった。


「名声は檻になりうるのね」


 千尋は静かに言った。


「そう。人は名声を得ると、その名前に縛られてしまう。「中澤文枝はこうあるべき」という期待に」


 文枝はさらにページをめくった。


「そして、これが最近書いたもの」


 千尋は最新のページを読んだ。そこには震える字で、こう書かれていた。


「『千尋さんと出会って、私は「名前」についての考えを少し改めている。名前は檻になることもあるが、絆になることもある。ジャン=ピエールを「息子」と呼び、彼が私を「母」と呼ぶとき、そこには単なる記号以上の意味がある。千尋さんが私を「文枝さん」と呼ぶとき、それは心と心の触れ合いを表している。名前は消えるべきか、残すべきか――今の私には、その答えが分からなくなってきた』」


 千尋は読み終えると、文枝の顔を見た。彼女の表情には迷いと安らぎが混在していた。


「私も迷っているのよ。長年、名前は消えるべきだと思ってきたけど、最近は分からなくなってきた」


 千尋は文枝の手を優しく握った。


「文枝さんの名前は、私にとって大切です。でも、それは単なる有名人としての「中澤文枝」ではなくて、私が知っている温かくて賢明な「文枝さん」です」


 文枝は微笑んだ。


「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」


 ジャン=ピエールが部屋に入ってきた。彼は文枝と千尋の会話を少し聞いていたようだった。


「母さん、名前について悩んでいるの?」


 ジャン=ピエールは文枝のベッドに近づいた。


「ええ、少しね」


「僕はずっと思っていたんだ。なぜ母さんはそんなに名声を嫌うのかと」


 ジャン=ピエールは穏やかに言った。


「でも今は分かる気がする。母さんは言葉そのものの純粋さを大切にしたかったんだね」


 文枝は静かに頷いた。


「ただ、一つだけ言わせてほしい」


 ジャン=ピエールは真剣な表情で続けた。


「母さんの言葉が私を支えてくれた。困難な時、悲しい時、迷った時、母さんの本を読んで勇気をもらった。それは「中澤文枝」という名前と共にあったからこそ、私の心に届いたんだ」


 文枝は目に涙を浮かべて聞いていた。


「母さんの名前と言葉、両方が私に力をくれた。だから、名前を消すことだけが正しいとは限らないと思う」


 文枝はジャン=ピエールの手を握った。


「ありがとう、息子よ。あなたの言葉は私の心に響くわ」


 千尋もこの母子の対話に深く感動していた。彼女自身も「名前を残したい」という思いと「言葉の純粋さ」の間で揺れていた。しかし今、その二つは必ずしも対立するものではないことに気づき始めていた。


 その夜、文枝の容態は再び悪化した。医師たちは懸命に治療を続けたが、高齢による心機能の低下は避けられなかった。文枝は次第に意識が朦朧としてきた。


 千尋とジャン=ピエールは交代で文枝に付き添い、彼女の手を握って語りかけた。時々、文枝は目を開けて微笑み、二人の言葉に反応することもあった。


 三日目の夜、文枝は突然はっきりとした意識を取り戻した。まるで最後の力を振り絞るかのように。


「ジャン、千尋さん……」


 弱々しい声だったが、はっきりと二人の名前を呼んだ。


「母さん!」


「文枝さん!」


 二人は文枝のベッドに駆け寄った。


「二人とも、ありがとう……私の最後の日々を、こんなに温かく包んでくれて」


 文枝の言葉に、千尋は涙があふれた。


「最後なんて言わないで。文枝さんはきっと良くなります」


 文枝は優しく微笑んだ。


「千尋さん、私は九十年も生きたのよ。十分すぎるほどよ」


 文枝はジャン=ピエールの方を向いた。


「Cher fils, pardonne-moi de t'avoir laisse.(愛する息子よ、あなたを置いていってごめんなさい)」


「Je t'ai deja pardonne, maman. Je t'aime.(もう許したよ、母さん。愛してる)」


 ジャン=ピエールは涙を堪えながら答えた。


 文枝は再び千尋に向き直った。


「千尋さん、あなたには特別なものを残します」


「特別なもの?」


「私の思想の核心、死生観の集大成を書いた原稿よ。まだ誰にも見せていない」


 千尋は驚いて目を見開いた。


「それを託せるのは、あなただけ。あなたならきっと理解してくれる」


 文枝の声は次第に弱くなっていった。


「それをどうするかは、あなたとジャン=ピエールに任せる。燃やしてもいい、出版してもいい。名前を残しても、消してもいい。すべてはあなたたちの判断に」


 千尋は泣きながら頷いた。


「分かりました、必ず」


 文枝は満足そうに微笑んだ。


「最後に、二人に伝えたいことがあるわ」


 文枝は深呼吸をし、静かに言った。


「名前が残っても消えても、大切なのは心の触れ合い。言葉は魂から魂へと届く。その旅路に名前は必要ないかもしれないけれど、時に名前は愛の証になることもある」


 文枝は千尋とジャン=ピエールの手をそれぞれ握った。


「私はもう恐れていない。死も、忘却も、すべてを受け入れる。ただ、二人に出会えたことに感謝して」


 文枝の言葉は次第に小さくなり、やがて彼女は静かに目を閉じた。その表情は穏やかで、まるで安らかな眠りについたかのようだった。


 心電図のモニターが一直線になり、警報音が鳴り響いた。医師と看護師が駆けつけたが、もう手遅れだった。中澤文枝は、その長く豊かな人生を閉じたのだった。


 千尋とジャン=ピエールは、文枝のベッドの両側で静かに涙を流した。言葉にならない悲しみと、不思議な安堵感が入り混じる中、二人は文枝の最後の言葉を心に刻み込んだ。

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