第八章: 『永遠の詠み人 ―― 名と無名を超えて』
中澤文枝の葬儀は、彼女の遺志により、きわめて質素に執り行われた。親しい友人や文学関係者だけの小さな集まりだったが、その場には彼女の人生に触れた多くの人々の思いが集まっていた。
千尋とジャン=ピエールは葬儀の準備を共に行い、文枝の最後の旅立ちを見送った。悲しみの中にも、二人の間には固い絆が生まれていた。
葬儀の後、二人は文枝のアパートで彼女の遺品を整理することにした。本棚には数多くの書籍が、机の引き出しには未発表の原稿が入っていた。中でも、文枝が千尋に託したという「死生観の集大成」と題された原稿は、特別な封筒に入れられていた。
「これが母の最後の原稿なのですね」
ジャン=ピエールは封筒を手に取った。
「はい、文枝さんはこれを私に託すと言いました」
千尋はその言葉の重みを感じていた。
「一緒に読みましょう」
ジャン=ピエールは提案した。
二人は座卓を囲み、封筒を開けた。中には数十枚の原稿用紙に、文枝の美しい筆跡で文章が綴られていた。タイトルは『境界の消失――名と無名の狭間で』となっていた。
千尋はその偶然の一致に驚いた。彼女が最近書き始めた小説と同じタイトルだった。
原稿は文枝の死生観を詳細に述べたものだった。四大宗教から得た智慧、臨死体験の詳細、そして何より、「名前」と「言葉」の関係についての深い考察。文枝は「名前は時に檻となるが、愛の絆にもなる」と書いていた。
最後のページには、こう記されていた。
「『私』という存在は、波のようなものかもしれない。一瞬の形を持ち、やがて大きな海に帰っていく。波は消えても、海は永遠に続く。人の名前や評判は波のように消えゆくものだが、その波が他の波に与えた影響、触れ合いの余韻は、海の中に永遠に残る。
私は長い間、名前を捨て、純粋な言葉だけを残したいと願ってきた。しかし、最近になって気づいたことがある。名前もまた、愛の一形態になりうるということを。私を「文枝」と呼ぶ者たちの声の中に、愛があるなら、その名前は檻ではなく、絆となる。
だから今、私は最終的な判断を下さない。この原稿をどうするか、私の名前をどう扱うかは、私が心から信頼する二人――息子のジャン=ピエールと、若き魂の持ち主、千尋さんに委ねる。二人ならきっと、最善の道を見つけてくれるだろう。」
読み終えた二人は、しばらく言葉を失っていた。文枝の最後の思いが、これほど明確に記されているとは思わなかった。
「母は最後まで考え続けたのですね」
ジャン=ピエールは静かに言った。
「はい、そして最終的な答えを出さなかった。私たちに委ねたんです」
千尋は原稿を大切そうに手に取った。
「どうすればいいでしょうか? 出版すべきでしょうか、それとも……」
ジャン=ピエールはしばらく考え込んでいた。
「私は母の言葉を世界と共有したいと思います。しかし、それは母の名前のためではなく、言葉そのものの価値のために」
千尋は頷いた。
「私も同じです。文枝さんの最後の言葉は、多くの人の心に届くべきだと思います」
二人は文枝の遺稿を出版することを決めた。しかし、その際の著者名については、さらなる議論が必要だった。
「『中澤文枝』という名前で出版するべきでしょうか? それとも匿名で?」
千尋は悩みながら尋ねた。
「どちらも母の思いに沿っているとも、反しているとも言えますね」
ジャン=ピエールは窓の外を見つめた。雨上がりの空に、美しい虹がかかっていた。
「ひとつの案があります」
彼は静かに言った。
「母の法名『清風院』を使うのはどうでしょう。それは母のもう一つの名前であり、同時に世間的な「中澤文枝」とは異なる存在でもある」
千尋はその提案に目を輝かせた。
「素晴らしいアイデアだと思います! 文枝さんはいつも手紙や署名で『清風院』と書いていました」
こうして二人は文枝の遺稿を『境界の消失――名と無名の狭間で』というタイトルで、著者名を「清風院」として出版することに決めた。
出版準備を進める中、千尋は文枝との日々を振り返り、自分の小説も書き進めていた。彼女の小説『境界の消失』は、若い女性が年老いた作家との出会いを通じて成長する物語だった。それは文枝との実体験をもとにしつつも、フィクションとして再構築したものだった。
千尋はその小説を完成させ、同じ出版社に持ち込んだ。編集者は彼女の才能を認め、出版を決定した。千尋は著者名について悩んだが、最終的に本名の「藤宮千尋」を使うことにした。しかし、その本の謝辞には「私に『名前』と『言葉』の真の意味を教えてくれた清風院に捧ぐ」と記した。
半年後、二冊の本が同時に出版された。一冊は中澤文枝の遺稿『境界の消失――名と無名の狭間で』(著:清風院)、もう一冊は千尋のデビュー作『境界の消失』(著:藤宮千尋)。
文枝の本には解説としてジャン=ピエールが書いた一文が添えられていた。そこには文枝の生涯と、「清風院」という法名の由来、そして彼女の死生観が簡潔に説明されていた。しかし、それは伝記的な賛美ではなく、一人の人間としての文枝の姿を描いたものだった。
千尋の小説は、若手作家の作品としては異例の反響を呼んだ。批評家たちは「若さゆえの未熟さは残るものの、死生観の深さと言葉の透明感は驚異的」と評した。
一方、文枝の遺稿は静かに、しかし確実に読者の心に浸透していった。多くの読者が「清風院」という名の著者に魅了され、その正体について様々な憶測が飛び交った。その中には「藤宮千尋のペンネームではないか」という説もあったが、千尋はそれを否定も肯定もしなかった。
ジャン=ピエールはパリに戻る前に、千尋と共に文枝の墓参りをした。清風院の墓前で、二人は静かに手を合わせた。
「はい、きっと」
千尋も穏やかに頷いた。
「千尋さん、これからも連絡を取り合いましょう。あなたは私にとって家族のような存在です」
「ありがとうございます。私も同じ気持ちです」
二人は固く握手を交わした。ジャン=ピエールはパリに戻り、千尋は東京で暮らし続けることになるが、文枝という絆で結ばれた二人の関係は、これからも続いていくだろう。
ジャン=ピエールが日本を去った後、千尋は文枝のアパートを引き払うことにした。しかし、彼女は文枝の本や茶器、そして何よりも大切な原稿や日記を自分の家に移した。それらは文枝の魂の一部であり、千尋にとっては何物にも代えがたい宝物だった。
時は流れ、千尋は二作目、三作目と小説を発表していった。彼女の作品は次第に文学界で認められるようになり、若手作家としての地位を確立していった。しかし、千尋の中での価値観は大きく変わっていた。
以前のような「名前を残したい」という強い欲求は薄れ、代わりに「言葉そのものの純粋さ」を追求するようになっていた。それは文枝から受け継いだ最も大切な教えだった。
千尋が二十歳になった春、彼女は決意を固めた。文枝の遺志を実現するため、彼女は文枝の遺骨の一部を四つに分け、世界の四カ所に撒くことにしたのだ。
最初の旅はインドのガンジス川だった。文枝が臨死体験を得た場所。千尋はそこで静かに祈りを捧げ、遺骨をガンジス川に流した。
次はエルサレム。文枝が「三教共存プロジェクト」の名誉顧問を務めた聖地。そこでも千尋は遺骨の一部を撒いた。
三番目はメッカ。文枝はイスラム教徒ではなかったが、イスラム哲学を深く尊敬していた。現地の協力者の助けを借りて、千尋は遺骨をアラビア砂漠に返した。
最後は京都の鴨川。文枝が国際禅センターを創設した地。千尋はそこで最後の遺骨を川に流し、文枝の魂の旅路を完成させた。
四カ所を巡り終えた千尋は、文枝のアパートがあった向島に戻ってきた。彼女は隅田川のほとりに立ち、夕暮れの空を見上げた。
「文枝さん、あなたの願い通り、四カ所に遺骨を撒いてきました。でも、あなたの言葉はこれからも私の中で生き続けます」
千尋は小さく微笑んだ。風が彼女の頬を撫で、桜の花びらが舞い落ちてきた。
「私はこれからも書き続けます。名前のためではなく、言葉そのもののために。でも同時に、あなたが教えてくれたように、名前が時に愛の絆になることも忘れません」
千尋はポケットから小さなノートを取り出した。それは文枝が使っていた革表紙のノートを模したもので、千尋の新しい創作ノートだった。
彼女はペンを取り、最初のページにこう記した。
「言葉は風のように自由に流れ、心から心へと届く。名前は時に檻となり、時に絆となる。私はその両方を受け入れ、名と無名の狭間で言葉を紡いでいく」
そして、その下に署名した。
「藤宮千尋――永遠の道を歩む旅人」
千尋は川面に映る夕日を見つめながら、文枝との出会いを思い返した。あの雨の夜、図書館で交わした言葉が、彼女の人生をこれほどまでに変えるとは。
彼女は深く息を吸い込み、空へと向かって言った。
「文枝さん、あなたの言葉は永遠に生き続けます。名前と共に、名前なしでも」
風がさらに強くなり、桜の花びらが舞い上がった。それはまるで、文枝が応えているかのようだった。
千尋は新しいノートを胸に抱き、家路についた。彼女の歩みは以前より確かで、目の輝きは以前より深くなっていた。そして心の中では、名と無名の狭間で、新たな物語が静かに芽生えていた。
(了)
【老作家短編小説】永遠の詠み人 ――名声と無名の狭間で――(約41,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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