第六章: 『突然の危機 ―― 生死の境目で』
文枝の息子ジャン=ピエールが来日する日が近づいていた。文枝は普段より活気があり、アパートの掃除を念入りに行ったり、息子の好物だというフランス風の料理のレシピを探したりしていた。千尋もその準備を手伝い、二人は忙しくも楽しい日々を過ごしていた。
ある朝、千尋が学校に行っている間、文枝は原稿を書くために机に向かっていた。彼女は最新のエッセイ集の最終章に取り組んでいた。それは「死への準備」と題された章で、彼女の死生観の集大成とも言えるものだった。
万年筆を走らせながら、文枝はふと胸に鈍い痛みを感じた。最初は軽い圧迫感だったが、徐々に痛みが強くなっていく。彼女は万年筆を置き、深呼吸を試みた。しかし、痛みは収まらず、むしろ激しくなっていった。
「これは……」
文枝は自分の状態を冷静に分析していた。九十歳という年齢を考えれば、これが何であるかは容易に推測できた。彼女はゆっくりと電話に手を伸ばし、救急車を呼んだ。そして、千尋にもメッセージを送った。
「具合が悪くなって病院に行きます。心配しないで。」
救急車が到着し、文枝は病院に搬送された。医師の診断は「狭心症の発作」だった。幸い、大事には至らなかったが、入院して経過観察が必要だという。
千尋は学校が終わり、文枝からのメッセージを見て慌てて病院に駆けつけた。彼女が病室のドアを開けると、文枝はベッドに横たわり、点滴を受けていた。
「文枝さん!」
千尋は駆け寄った。文枝は弱々しく微笑んだ。
「心配させてごめんなさい。大したことないのよ」
しかし、千尋には文枝の状態が決して軽いものではないことが分かった。顔色は悪く、呼吸も浅くなっていた。
「どうして私に電話しなかったんですか? すぐに来たのに」
「授業中だったでしょう? 邪魔をしたくなかったの」
文枝の思いやりに、千尋は涙ぐんだ。
「先生、状態はどうですか?」
千尋は入ってきた医師に訊ねた。
「狭心症の発作です。今回は大事に至りませんでしたが、年齢を考えると注意が必要です。少なくとも一週間は入院して様子を見ましょう」
医師の言葉に、文枝は少し困った表情を浮かべた。
「一週間も……息子が来日するのに」
「息子さんですか? いつ来られるんですか?」
「三日後よ」
文枝は弱々しく言った。千尋は考え込んだ。
「大丈夫です。私がジャン=ピエールさんをお迎えします。文枝さんは体を休めてください」
文枝は驚いた顔をした。
「でも、彼はあなたを知らないわ」
「メールで説明します。写真も添付して。空港まで迎えに行って、ここに案内します」
千尋の決意に、文枝は感謝の表情を浮かべた。
「ありがとう……本当に助かるわ」
その日から、千尋は学校と病院を往復する日々が始まった。文枝は徐々に回復していったが、医師は予定通り一週間の入院を勧めていた。
二日後、千尋はジャン=ピエールにメールを送った。文枝の状況と、自分が空港まで迎えに行くことを説明した。返信はすぐに来た。フランス語と英語が混じった文面だったが、千尋は翻訳アプリを使って理解した。ジャン=ピエールは事情を了解し、千尋の申し出に感謝の意を示していた。
千尋は文枝の病室を訪れ、その旨を伝えた。
「ジャン=ピエールさんからメールが来ました。明日の便で来日されるそうです」
「そう、ありがとう」
文枝の表情は明るくなった。
「彼はどんな人? 写真とか持ってますか?」
千尋は好奇心いっぱいに尋ねた。文枝はベッドサイドのバッグから一枚の写真を取り出した。そこには六十代の男性が、エッフェル塔をバックに微笑んでいた。顔立ちは西洋的だが、目元の雰囲気は文枝に似ていた。
「素敵な方ですね」
「ええ、父親似ね。でも、目は私に似てるでしょう?」
文枝は少し誇らしげに言った。千尋はその写真を見ながら、文枝の若かった頃を想像した。パリで学び、恋をし、子を産んだ若い日本人女性。その後の別離と、長い年月を経ての再会。まるで小説のような人生だった。
「千尋さん、お願いがあるの」
文枝が静かに言った。
「なんですか?」
「ジャン=ピエールが来たら、私の原稿のことを話さないでくれる? 特に『死後の原稿を燃やしてほしい』という部分を」
千尋は驚いた顔をした。
「なぜですか?」
「彼を心配させたくないの。『死』について話すのは、彼には辛いことだから」
千尋は少し考えた後、頷いた。
「分かりました」
「それから、もう一つ」
文枝はさらに言葉を続けた。
「もし私に何かあったら……あなたに私の最後の言葉を預けたいの」
千尋は息を飲んだ。
「何かあったら、って……大丈夫ですよ。文枝さんはすぐ良くなります」
「ええ、でも備えあれば憂いなしよ」
文枝は穏やかに微笑んだ。
「私は長い間、自分の言葉だけが残り、名前は忘れ去られることを願ってきた。でも最近、少し考えが変わってきたの」
「変わったんですか?」
「ええ。あなたと過ごすうちに、『名前』というのは単なる虚栄心の対象ではなく、人と人をつなぐ絆になることもあると気づいたわ」
千尋は驚きながらも、じっと聞いていた。
「私の本当の願いは、名前が残ることでも消えることでもなく、私の言葉が誰かの心に届くことなの。それがあなただったり、ジャン=ピエールだったり、あるいは全く見知らぬ誰かだったりする」
文枝は千尋の手をそっと握った。
「だから、私に何かあったら、あなたとジャン=ピエールに判断を委ねるわ。私の原稿をどうするか、名前をどう扱うかは、あなたたちに任せる」
千尋は涙ぐみながら頷いた。
「でも、何もないですよ。文枝さんはまだまだ元気でいてください」
「もちろん、そのつもりよ」
文枝は笑顔を見せた。しかし、その目には覚悟のようなものが宿っていた。
翌日、千尋は成田空港でジャン=ピエールを出迎えた。彼女は「JEAN-PIERRE DURAND」と書かれた紙を持ち、到着ロビーで待っていた。
出口から現れた男性は、写真で見たのと同じ温厚な表情の紳士だった。彼は千尋を見つけると、微笑みながら近づいてきた。
「あなたが千尋さんですね」
ジャン=ピエールは流暢な英語で話しかけた。
「はい、藤宮千尋です。ようこそ日本へ」
千尋も英語で返した。彼女の英語は完璧ではなかったが、基本的なコミュニケーションは取れるレベルだった。
「母の様子はどうですか?」
「回復に向かっています。今日はとても元気でした」
二人はタクシーに乗り、病院に向かった。車中、ジャン=ピエールは千尋に多くの質問をした。文枝との出会い、同居の経緯、そして文枝の日常生活について。千尋は丁寧に答えながら、ジャン=ピエールの文枝への深い愛情を感じた。
病院に着くと、文枝は既に待ちわびていた。ジャン=ピエールが病室に入るなり、文枝の表情が明るく輝いた。
「ジャン!」
「マーマン(お母さん)」
ジャン=ピエールは文枝のベッドに駆け寄り、彼女を優しく抱きしめた。二人はフランス語で会話を始め、千尋には内容は分からなかったが、その温かな雰囲気は十分に伝わってきた。
千尋は二人の時間を邪魔しないよう、そっと部屋を出ようとした。
「千尋さん、どこへ行くの?」
文枝が呼び止めた。
「二人の時間を大切にしてもらおうと思って」
「いいえ、一緒にいて。あなたももう家族同然よ」
文枝の言葉に、千尋は胸が熱くなった。
「Oui, restez avec nous(ええ、私たちと一緒にいてください)」
ジャン=ピエールも千尋に微笑みかけた。
三人は和やかな時間を過ごした。ジャン=ピエールはパリでの生活や、孫たちの話を文枝に伝え、文枝はそれを嬉しそうに聞いていた。千尋はその会話を見守りながら、文枝の幸せそうな笑顔に心を打たれた。
面会時間が終わり、千尋とジャン=ピエールは病院を後にした。ジャン=ピエールはホテルに宿泊する予定だったが、千尋は文枝のアパートに案内することにした。
「母のアパートを見てみたいです」
ジャン=ピエールのリクエストに、千尋は喜んで応じた。
文枝のアパートに到着すると、ジャン=ピエールは静かに部屋を見回した。質素な家具、所狭しと並ぶ本、シンプルな茶器。そのすべてが文枝の人柄を物語っていた。
「典型的な母らしい部屋ですね」
ジャン=ピエールは微笑んだ。
「物質的なものには全く執着がない。でも、本と茶器だけは特別なようです」
千尋はお茶を入れ、二人は座卓を囲んだ。
「千尋さん、母のことをよく知っているようですね」
「いいえ、まだ三週間ほどの付き合いです。でも、とても多くのことを教えてもらいました」
千尋は文枝との日々を振り返りながら話した。最初の出会い、偶然の同居、そして文枝から学んだ「詠み人知らず」の精神について。
「母はいつもそうでした。『名前より言葉』と」
ジャン=ピエールは思い出すように言った。
「若い頃は理解できませんでした。なぜ母は自分の名声を嫌うのかと。でも、今は少し分かるような気がします」
千尋は興味深く聞いていた。
「文枝さんはいつも『私』という存在を超えることが大切だと言っています」
千尋は自分の理解をジャン=ピエールに伝えた。
「ああ、それは仏教の影響でしょうね。アナットマン、『無我』の思想です」
ジャン=ピエールの言葉に、千尋は目を輝かせた。
「哲学者なんですね」
「ええ、私の専門は比較宗教学です。母の影響が大きいですね」
二人は夜遅くまで語り合った。ジャン=ピエールは若き日の文枝の思い出を語り、千尋は最近の文枝の様子を伝えた。それは、二つの時代の文枝をつなぐ貴重な対話だった。
翌朝、千尋とジャン=ピエールは早くから病院を訪れた。しかし、病室に入ると、文枝の様子がおかしいことに気づいた。顔色が悪く、呼吸が浅くなっていた。
「マーマン!」
ジャン=ピエールが声をかけると、文枝はゆっくりと目を開けた。
「あら、ジャン、千尋さん……おはよう」
文枝の声は弱々しかった。
「具合が悪いんですか?」
千尋が心配そうに尋ねると、文枝は小さく首を振った。
「ちょっと疲れただけよ」
しかし、その言葉とは裏腹に、文枝の状態は明らかに悪化していた。千尋はすぐに看護師を呼び、医師の診察を受けた。
「昨夜から不整脈が出ています。年齢を考えると、心機能の低下が懸念されます」
医師の言葉に、ジャン=ピエールと千尋は顔を見合わせた。
「危険な状態ですか?」
「現時点では安定していますが、注意が必要です。集中治療室に移して、より詳しく検査しましょう」
文枝は集中治療室に移され、ジャン=ピエールと千尋は待合室で待つことになった。時間はゆっくりと過ぎていき、二人は静かに不安を共有していた。
「千尋さん」
ジャン=ピエールが静かに言った。
「母が亡くなったら、どうすればいいのか……」
その言葉に、千尋は息を飲んだ。昨日まで考えたくなかった現実が、今や目の前に迫っていた。
「文枝さんは……最近私に言いました。『もし何かあったら、私の原稿をどうするかはあなたとジャン=ピエールに任せる』と」
千尋は約束を破って、文枝の言葉を伝えた。しかし、今はそれが必要だと感じた。
「原稿ですか?」
「はい。文枝さんはいつも『死んだら原稿を燃やしてほしい』と言っていました。『詠み人知らず』になりたいと」
ジャン=ピエールは静かに頷いた。
「それは母らしいですね」
「でも最近、その考えが少し変わってきたようです。名前が人と人をつなぐ絆になることもあると」
ジャン=ピエールは窓の外を見た。雨が降り始めていた。
「私も長い間、母の選択を理解できませんでした。子どもを置いて、文学の道を選んだことを。でも今は分かります。それが母の使命だったのだと」
千尋は黙って聞いていた。
「もし母に何かあったら……私は母の言葉を残したいと思います。名前がなくてもいい。でも、あの美しい言葉は失われるべきではない」
千尋は静かに頷いた。
「私も同じ気持ちです」
二人は静かに手を握り合った。その瞬間、医師が待合室に入ってきた。その表情に、二人は最悪の事態を覚悟した。
「ご家族の方ですね」
医師は穏やかに言った。
「はい」
ジャン=ピエールと千尋は同時に答えた。
「中澤さんの容態は安定しました。ただ、今後も同様の発作が起こる可能性があります。年齢を考えると、完全回復は難しいかもしれません」
医師の言葉に、二人はほっと胸をなでおろした。最悪の事態ではなかった。
「今日は面会できますか?」
「はい、短時間であれば」
二人は集中治療室に案内された。文枝は酸素マスクを付け、様々な機器に囲まれていた。しかし、二人を見ると、その目は優しく輝いた。
「文枝さん、よかった……」
千尋は涙ぐみながら言った。
「みんなを心配させてごめんなさい」
文枝の声は弱々しかったが、意識ははっきりしていた。
「Maaman, comment ca va?(お母さん、どう?)」
ジャン=ピエールはフランス語で優しく声をかけた。
「Ca va, mon fils. Ne t'inquiete pas.(大丈夫よ、息子。心配しないで)」
文枝もフランス語で答えた。二人の会話は短かったが、そこには深い愛情が込められていた。
医師に促され、面会は十分で終了した。二人は再び待合室に戻った。
「これからどうしますか?」
千尋が尋ねた。
「私は当分の間、日本に滞在するつもりです。母が回復するまで」
ジャン=ピエールは決意を示した。
「私も学校が終わったら、毎日病院に来ます」
二人は文枝のために、できることをすべてしようと心に誓った。
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