第37話 沈黙が揺れた夜
南市の夜が、わずかに揺れた。
その震源は、どこかの端末ひとつから始まった配信だった。
画面の中で再生されるのは、ある施設の映像記録。
荒れた処置室。叫び声。医師の報告書。監視官との通話記録。
匿名の投稿とともに、アップロードされたデータが、
一夜にして都市の空気を変えていく。
『これは何?』『本物か?』『南市中央医療センター……?』
最初に反応したのは、地元の小さなジャーナル系アカウントだった。
続いて、長年不正を追ってきた匿名記者が検証を始め、一部の大手報道アカウントが拡散に加わる。
タグには「#白の裂界」「#処置記録」「# YAK-001」。
やがてそれは、南市市民の裏SNSにも広がっていった。
──これ、私の母が入ってた病院かもしれない
──おばあちゃん、あの時なぜ急に退院させられたんだっけ?
誰かの記憶が、誰かの傷と、誰かの証言と重なり始める。
明け方近く、ある市民がその断片を切り抜いて投稿した。
『#拡散希望 #これは見て欲しい #本当のこと』
そのツイートが、24時間後に40万リポストを超えるなど、
誰にも予測できることではなかった。
だが、その夜──街の空気は、確かに変わり始めていた。
その空気を、決定的に変えたのは一つの名前だった。
『これは私が見てきたもの。信じるかどうかは、あなたが決めて』
──@朱霞、3日ぶりの投稿。
かつて、一度消されたはずのそのアカウントが、再び光の中に浮かび上がった。
投稿に添えられたタグは、晃たちが拡散したログのものと一致していた。
「#白の裂界」「# YAK-001」「#選ばれた未来」
その名前を見て、市民たちの記憶が一気に呼び起こされる。
──あの人の言葉をもう一度信じたい
その声が、波のように広がり始めていた。
翌朝、通勤時間帯の南市。
駅前の大型スクリーンが一瞬だけ乱れ、映像が差し込まれる。
音声はなかったが、テロップには「南市中央医療センター」「処置記録」の文字。
──公にはSNSが封鎖されているため、その映像はすぐには拡散しなかった。
だが、数時間後、外部に持ち出されたデータが、別ルートで投稿され始める。
『朝からこれって、マジ?』『ニュースじゃやらないけど、何か起きてる』
学校で、職場で、カフェで──
市民たちは互いに画面を見せ合い、
同じタグでローカル検索を始める。
裏SNSだけでなく、街中のデジタル掲示板、マンションの共有端末にも、
@朱霞の投稿がキャプチャされて、匿名で貼り出されていた。
小さな声が、確実に生活の『中心』に入り込み始めていた。
そして、最初に沈黙を破ったのは、一人の高校生だった。
──「#私は知りたい」
その言葉は、すぐには広がらなかった。
しかし、端末に残されたスクリーンショットは、密かに外部へ持ち出される。
数時間後、南市の外で、
そのタグがツイートされ、拡散され始める。
──「#私も見た」「#私は忘れてない」「#これは終わってない」
それはもう、誰にも止められなかった。それから数時間後。
市内各地の駅前や公園で、同じメッセージを記した紙を掲げる人たちが現れ始めた。
「#私は知りたい」「#白の裂界を明らかに」「#名前を、遺して」
声を上げるわけではない。ただ、立っているだけ。
それでも、その場を通り過ぎる誰かが、目を止める。
スマホを向け、そっと写真を撮る。
──封鎖されたネットワークの中では、何も拡がらない。
だが、その画像は静かに保存され、外へ運ばれていく。
いくつもの写真が、やがてタグと共に投稿され、広がり始める。
それが、次の誰かを動かす。
通り雨のように広がっていく『沈黙の抗議』は、いつのまにか南市のあちこちで、同時多発的に立ち上がっていた。
一部のメディアは「選挙に関する自発的な関心の高まり」と報じ、当局は「過剰反応に惑わされず冷静に」とアナウンスを出す。
だが、誰の目にも、それはただの『関心』ではなかった。これは、『声を失った者たち』が立ち上がるための、最初の足音だった。
翌日午後。
政府広報局と提携するいくつかのニュースサイトが、いっせいに新たな記事を配信した。
──『SNSで拡散中の映像は合成か 関係機関が否定』
──『南市中央医療センターに関する投稿、複数がフェイクと判明』
──『一部のアカウントは海外IPから発信 情報操作の可能性』
タイトルだけを見れば、信じてしまう人もいるだろう。
だが、それがかえって火に油を注いだ。
「じゃあ、あの病院にいた人たちは?」
「家族を亡くした人は?」
「朱霞はどうなる?」
人々は『情報』ではなく、『痛み』を共有していた。
数字では消せない問いが、次々に投稿される。
そして、その日、@朱霞がもう一度だけ投稿した。
『声を消したい人がいるなら、きっとそれは届いている証拠』
その言葉に、多くの人が『自分のこと』としてうなずいた。
やがて、海外のメディアが動き始めた。
最初に報じたのは、近隣国の独立系ニュースメディアの独立系ニュースサイトだった。
『日昇国の選挙直前に拡散された【沈黙の映像】とは』という見出しが、瞬く間に多言語で拡散される。
それに続いて、旧大陸の人権系報道ネットワーク、さらに新大陸のテックメディアが、それぞれの視点から分析記事を発表し始める。
『この映像は偽物ではない可能性が高い』
『民政革新党の広報対応に疑念の声』
国外の注目が集まったことで、国内の火消しはむしろ逆効果となった。
市民たちは、今度こそ『見られている』という感覚を得た。
そして、いくつかのハッシュタグが、国外トレンドにも顔を出すことになる。
#TheWhiteRift
#WeDeserveTheTruth
#YAK001
***
その夜。
政府庁舎の一角、民政革新党の地下ブリーフィングルーム。
姫野は黙ったまま報告書をめくっていた。
「……抑えられたと思ったのに」
報道統制。火消し記事。投稿者の拘束。そして、アルゴリズム操作。
これまで使ってきたすべての手が、今回だけは通じていなかった。
「削除率、速報値で58%。でも再投稿率がそれを上回ってます」
秘書官が言う。
「@朱霞の投稿は今も増え続けており、国外報道を経由しての逆流が発生しています」
姫野は手帳を閉じると、ゆっくりと椅子に身を沈めた。
「一度、沈静化すると思ったのよ。まさか、ここまで食い下がってくるとはね」
数時間後──
「#処分命令反対」「#政府の暴走を止めろ」のタグは国内トレンドの上位を独占し、ついには世界トレンドにも浮上した。
その動きに呼応するかのように、ある国際人権団体が公式声明を発表する。
「政治的意図による個人の生命軽視を看過できない」と強く非難。
さらに、世界連盟の人権高等弁務官事務所が『状況を注視している』との短文を発信。
旧大陸の主要紙が日昇国政府の対応を厳しく批判する社説を一斉に掲載し、外務省は「外交上の懸念が高まっている」として中枢に報告。
内閣官房では未明から緊急協議が続いていた。
テレビ局各社にも市民からの問い合わせが殺到し、従来は政権擁護一辺倒だった与党系キャスターたちも一斉に『報道中立』の姿勢を取り始めた。
その渦中、姫野の端末に一報が届いた。
内線担当者の低い声が、静かに告げる。
「……中枢からです。処理命令──一時停止とのこと」
姫野の手が止まる。
次の瞬間、静まりかえった室内に、硬質な音が響いた。
──端末が、机に叩きつけられた。
整然と並べられていた書類の端が跳ね、ペンが転がり、ガラス片が散る。
姫野は、乱れた前髪を片手で払うと、深く、ゆっくりと息を吸った。
だが、肩の震えは止まらなかった。
「……わかった。中枢の指示なら、従うまでよ」
低く、凍りつくような声だった。
言葉と裏腹に、その眼差しは、獣のように静かに怒っていた。
これは、外圧による判断の修正。
すなわち、政権側の敗北。
そして、それは彼女──政権側広報官である姫野にとっての、明確な敗北だった。
そこへ甲斐から通信が入る。
「処分命令の撤回は仕方がない。
選挙で勝てば、いくらでも後からコントロールできる。
……だが、民政革新党が負けるようなことがあれば」
姫野の背に寒気が走る。
「ぞくり」と音がしたような感覚。
過去に『裏切り者』や『責任を取らされた者たち』が、静かに姿を消していった。
その結末を、姫野は知っている
(こんなもの──民衆の一時の感情に過ぎない。すぐに収束するはずだった)
(私は、何十年も前からこの手を打ち続けてきた。どれも確実だった。それなのに──)
視線を上げることはなかったが、指先はわずかに震えていた。
悔しさも、敗北も、認める気はなかった。
だが、自分の中にそれがあることは、否応なく理解していた。
(あの女──言葉と情だけで世論を動かそうとして、結局、処理されたあの女が)
(あの女の幻想を継いだ子供が、制度に楯突けると思っているのか)
それでも、何かが軋む音が、内側から聞こえていた。
自分の論理が崩される感覚に、姫野は、かすかな眩暈を覚えた。
計算された秩序の上に築いてきたすべてが、今、瓦解の兆しを見せている。
――いや、まだ負けられない。
***
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