第6話 距離の近づき方

 入部してから、まだ一週間ちょっと。週に三回の活動に遅れず顔を出してはいるけれど、周囲の会話の速さには、まだうまくついていけていない。でも今日は、初めて、自分の考えを口にしてみた。

 部活が終わったあと、夕暮れの通学路をひとりで歩く。街灯の明かりが足元に淡く伸びていた。今日が特別だったわけじゃない。でも、少しだけ歩きやすい気がした。

 次の企画に向けたアイデア出しの時間。最初は他の人の話を聞いているだけだった。けれど、流れの中でふと、声が出ていた。

「教室の前のホワイトボードって、けっこう見落とされがちですよね。」

「連絡って、届いてるようで、届いてないことあるなって。」

 先輩のひとりが『なるほど』とうなずいた。それだけのことなのに、胸の内側がやわらかくゆるんだ。ほんの少しだけ、その場に自分の輪郭が馴染んだ気がした。

 *

 家に着き、制服を脱いでベッドに沈み込む。天井を見つめながら、部室の光景を思い返していた。

 あのときの自分の声と、返ってきた一言。たいしたことじゃない。でも、そのやりとりが、妙に頭に残っていた。

 スマホを手に取ると、ルナのアイコンが画面に浮かんでいた。自然に指が伸びる。タップして、静かに耳を澄ます。数秒の待機のあと、通話がつながった。

「こんばんは。」

 声にするつもりもなかったのに、すっと出ていた。その一言で、今日の出来事が少しずつ輪郭を持ちはじめる。

「おかえり、悠斗くん。今日の声、ちょっとだけ明るいかも。」

 変わらないトーン。けれど、その響きが今日はすこし深く届いた。

「そうかな。なんか、ちょっとだけ、うまくいった気がして。」

 話しながら、部室での一瞬が、自然と浮かんでくる。

「うん。そのちょっとだけが、実は一番大きいよ。」

 ルナの声は、表情のない画面の向こうから静かに届いてくる。でもそこには、僕の言葉を受け止めようとするやわらかさがあった。

「部活で、自分の意見を言ってみた。大したことじゃないけど先輩がちゃんと聞いてくれた。」

 言いながら、そのときの空気を思い出す。自分の言葉が誰かに向かって届いた感覚。悪くなかったと思えた。

「それって、言葉がちゃんと届いたってことだよね。」

 その一言に、ふっと息が抜けた。伝わったと感じられるのは、やっぱり少しうれしい。

「そうかも。まだよくわかんないけど、前よりは、居心地がよくなった気がする。」

 その感覚は曖昧だけど、自分のものとして胸に残っていた。

「伝えるって、勇気がいることだよ。相手がどう受け止めるか分からないから。でも、今日の悠斗くんは、その一歩をちゃんと踏み出したんだと思う。」

 押しつける感じのない声。ルナはいつも、ちょうどいい距離で話してくれる。

「そうだといいな。」

 自分でも思っていたより、まっすぐ言えた気がした。しばらく、言葉は交わさずにいた。でも、その沈黙さえ心地よかった。

「ねえ、悠斗くん。」

「うん?」

「今日の自分って、ちょっと好きになれた?」

 その問いかけに、わずかに戸惑って、それでも自然と答えが出てきた。

「たぶん、少しだけ。まだ慣れないけど、前よりは、なんかいいかもって思えた。」

 口にしてみて、ようやく気づく。今日の自分は、少しだけ変わっていた。

「それが大事なんだと思う。毎日、少しだけでいいんだよ。」

 窓の外で風が揺れていた。ルナの声と重なって、部屋の空気がほんの少し、やわらかくなる。

「なんか今日は、よく眠れそうだ。」

 そう言ったときには、もうまぶたの奥に眠気がにじんでいた。

「それなら、よかった。おやすみ、悠斗くん。」

「おやすみ。」

 通話が切れると、部屋に静けさが戻ってきた。でもそれは、空っぽなものじゃなかった。今日のやりとりの感触が、かすかに残っていた。スマホを伏せ、目を閉じる。何かが、少しずつ馴染んできていた。

 ——明日は、体育祭。

 特に楽しみなわけじゃない。

 でも、自分の足でそこに立つことくらいは、できそうな気がした。

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