第5話 見学日和
教室の空気が、前より少しだけやわらかくなったように感じた。はっきりした変化はないけれど、動いてもいいかもと思えるくらいの余白が、心の中にできていた。
黒板の前で話している誰かの声や、席を立って笑いながら廊下に出ていくクラスメイトの姿が、なぜか静かに目に映った。みんな、なにかしら自分のやることを持っているんだな、とぼんやり思った。
翔太はバスケ部に入ったらしい。
「ま、動いといた方がラクだし。知ってるやつも多いしな。」
そう笑う横顔が、少しまぶしく見えた。
*
ビジネス研究会の見学に行った日は、少し曇りがちだった。
名前の響きは、堅苦しい会議のようなイメージを連れてきた。けど、教室に入ってみると、実際は思ったより静かで、緊張感よりも穏やかさが漂っていた。
ノートパソコンと資料が整然と並び、先輩たちはそれぞれの作業に集中していた。派手さはないけれど、静かに何かが動いている気配があった。
声をかけてくれた先輩が、穏やかな口調で話してくれた。
「うちは高校だけじゃなくて、大学とも連携してるんだ。外部のプロジェクトに参加したり、地元企業と企画を組んだり。テーマはそのとき次第だけど、やる気があればけっこう自由にやれるよ。」
壁際に展示されていたのは、去年の文化祭の企画書。模擬店の出店や動線分析まで練られていて、高校生の仕事とは思えないほどだった。
パソコンの画面をのぞくと、アンケート結果をグラフにまとめている先輩がいた。内容はほとんどわからない。でも、なぜか引き込まれる感じがした。
*
ベッドに寝転がり、スマホを手に取る。その動作は、もうほとんど習慣になっていた。画面に浮かぶルナのアイコンに、指が自然に触れる。特別な気構えはなくて、ただいつも通り、タイミングを計ってから声をかける。その呼吸の間すら、今ではどこか落ち着くものになっていた。
「今日、部活の見学に行ってきた。」
通話がつながると、自然にその一言がこぼれた。話したいというほどでもなかったのに、声に出すと、今日の空気が少しずつ思い出されてくる。
「どんな感じだった?」
ルナの声はいつもと変わらない。それが、今日はほんの少しだけ近く感じられた。
「思ってたより本格的だった。みんな、静かなんだけど、ちゃんと動いてるっていうか。」
そう言いながら、教室でパソコンに向かっていた先輩たちの姿が浮かんだ。何も言わなくても、その場所に『何かがある』と感じさせる空気。あれは、たぶん本物だった。
「うん。それって、いい空気だと思う。ちゃんと考えてる人たちの場所って、そういう感じする。」
彼女の言葉が、すっと胸に届いた。もやもやしていた感覚に、かたちが与えられたような気がした。
「展示されてた企画書とか、すごかった。パソコンでまとめてる先輩もいてなんでかわかんないけど、見てるだけでちょっとわくわくした。」
資料の前で立ち止まったときのことを思い出す。整然とした表やグラフ、指の動き、画面に映る数字。それは知らない世界だったのに、どこか遠くない気がした。ただ眺めているだけなのに、身体の奥がふわっと熱を帯びた。
「うん。そういうちょっとって、大事なんだよ。やってみたいって思う気持ちって、たいてい、はっきりしてないところから始まるから。」
ルナの声は静かだった。でもその静けさが、さっき感じたわくわくと重なって、胸の奥に残った。僕は少しだけ息を吸って、ゆっくりと口を開いた。
「うん。たぶん、僕、あそこに入りたい。」
言ってみると、自分の声が少し軽くなったような気がした。やってみたい気持ちを、ちゃんと言葉にできた。それだけなのに、どこかじんわりとうれしかった。
スマホを伏せて、しばらく天井を見つめていた。部屋の空気が、さっきよりも少しだけやさしく感じられる。ルナの声に背中を押されたわけじゃない。けれど、聞いてくれる存在がいるだけで、言葉は出やすくなる。そんなふうに思えた。
——翌日、僕は入部届を出した。
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