秘密のトートバッグ
適当な容器にコーンフレークを入れて牛乳を注ぐ。朝はいつもひとりでコーンフレークを食べている。母は朝、部屋から出てこない。多分、寝ているのかもしれない。夜の時間に働いていた経験がある母は、私が物心がついた頃から朝が弱かった。なので、彼女はろくに朝ご飯の支度などもできなかった。そんな中でいつ頃かコーンフレークが家の中に置かれるようになった。コーンフレークは牛乳を注ぐだけで手頃にお腹いっぱい食べることができるので、とても助かっていた。
ランドセルとトートバッグをテーブルの下に置き、器に注いだコーンフレークをかき込む。テーブルの上からアスターはニコニコとこちらが食事する様子を見守っている。朝は母が起きてこないので安心して過ごせる。もしかすると、母の部屋には彼女の恋人もいるかもしれないが、彼らはいつも朝に起きてくることはない。
「アスター、学校に一緒に行くけど、外では絶対に喋ったらだめだよ。人形のフリをしててね。いい?」
「うん、わかった☆」
朝は母たちが起きてこないので、アスターをダイニングテーブルの上に置いてふたりで話しをしていてもバレる心配はない。朝食を食べ終えて、使った食器を自動食洗機に突っ込み、アスターをトートバッグの中に入れる。彼を母のいる家の中にひとりで置いて行く気にはなれなかった。
ソラリス・トランクは日当たりの良い窓辺に置いている。アスター曰く、ソラリス・トランクはオートロック式のトランクなので、暗証番号を入力しなければ開くことはできないらしい。なので、トランクの外に付いていたタグを外して、トランクの中にしまい込み、ロックを掛けた状態にしておいた。タグに付いたヒントさえ知られなければ、誰にもソラリス・トランクを開くことはできないだろう。そもそも母は私には無関心なので、向こうからこちらに干渉してきたり、勝手に部屋に入ってくることはない。しかし、万が一を考えてソラリス・トランクを開かれて、そこからアスターや父の存在に勘付かれる危険性は少しでも減らしておいた方が良い。アスターを奪われたり、バズリ目的のために利用されたりするわけにはいかない。父の行方を見つけるためにも、この秘密は守らなければならないのだ。
靴を履き、玄関の扉を開く。肩に掛けたトートバッグにはエネルギー低消費モードのアスターが人形のように入っている。万が一、アスターが喋ったり、動いたりしないように、家の外では本物の人形のように過ごしてもらうことにしたのだ。アスターは「苺が、そう望むのなら僕はいつでもきみのお人形さんになるよ☆」と笑って快く承諾した。
鍵を閉めて学校へ向かう。街の中は騒がしい。通学路のいたるところに小さなホログラム標識が表示されており、配達のための小型無人航空機が絶えず街の中を飛び回っている。さらに、大通りの車道には気象情報や渋滞状況などが案内されており、音声による交通案内も行われている。
前方をひとりの婦人が歩いていた。彼女は犬の形をしたペットロボをリードに繋いで連れている。
この国では10年以上前から、動物の生体販売が規制されていた。過去に、何度もペットに関する多頭飼育崩壊の現状や動物虐待、飼育放棄などが深刻な社会問題となっており、それらの問題がSNSや、動画サイト、ネットニュースなどで大きく世間を騒がせた。その後、生きた犬や猫、小動物などをペットとして飼育することに資格と飼育許可の申請が必要となり、動物の生体販売の際にも一定の制限が設けられるようになった。その結果、生体のペットは一般には流通しなくなった。その代わり、現在では、多くの人々はAIロボットをペットとして飼うようになった。
目の前のペットロボも見た目は機械だが、仕草は生き生きとしており、まるで生きているように見えた。大きく尻尾を振って、婦人の足元にまとわりつき、時おり「ワン」と電子音っぽい吠え声を上げている。婦人は「よしよし、もうすぐお家に着くからね」と声を掛けながら笑っている。道行く人たちも、婦人と子犬型のロボットを微笑ましそうに見ながら通り過ぎていく。
(あれが、普通のペットロボかぁ……)
ペットロボは可愛いけれど、どこか予定調和的で、人間を喜ばせるためのプログラムされた動きが透けて見える気がした。
肩に掛けたトートバッグの中で、アスターがジッとしているのを意識する。エネルギー低消費モードで沈黙しているアスターは、もちろん動かないし喋らない。ソッとバッグの隙間から中を覗くと、アスターの紫の瞳が一瞬だけこちらを捉えた気がした。アスターの仕草や動作は、婦人のペットロボみたいに「喜ばせるため」の反応ではない。ただ、静かにこちらを見ているだけなのに、胸がざわめいた。
その時、婦人のペットロボが突然、動きを止めた。
「バッテリー残量10%です。充電をお願いします」
子犬の形をした機械から、無機質な音声が流れる。婦人が「あら、もうなの? 昨日充電したばかりなのに」と困ったように子犬のロボットへ笑いかける。ペットロボは律儀にその場に座り込み、充電を待つモードに切り替わったようだ。婦人は道の端に座り込んだ小型のペットロボを胸に抱きかかえて「早くお家に帰りましょうね」とやさしく声を掛けながら歩き出した。
(ペットロボって、そういうのなんだ……)
アスターは、ソラリス・トランクがあれば半径5メートル以内なら自由に動けるし、彼はソラリス・トランクの中で10年以上もスリープ状態で待機していたと言っていた。婦人のペットロボみたいにすぐに電池切れで止まるようなことはない。
(それに、アスターはきみの友達だよって言ってくれた……)
ペットロボは飼い主にそんなことを言うのだろうか? いや、普通のペットロボはそんなことを言わない。何らかの言語を話せたとしても、それは不特定多数の誰かを喜ばせるためにプログラムされた言葉にしか過ぎない。
(でも、アスターは違う)
彼の言葉にはもっと深い何かがあった。アスターの中には、父が私に残した想い温かな何かがあるような気がした。
通学路を歩きながら、トートバッグの中にいるアスターへソッと触れる。バッグの生地越しに昨日、物置で出会ったアスターの感触が感じられて、少しだけ安心した。いつもと同じ通学路が、今日だけは知らない冒険の入り口みたいに感じた。
□□□
学校に到着し、自分の6年2組のクラスへと向かう。教室には既に何人かの生徒が到着しており、各々の席に着席して本を読んでいたり、グループで固まって談笑したり、サイバーウォッチの仮想ディスプレイを立ち上げてネットニュースやSNSを見ている生徒もいる。教科書やタブレットを机の引き出しにしまい、アスターが入っているトートバッグを机の横に下げて、ランドセルを教室の後ろのロッカーにしまう。自分の席に着席して、サイバーウォッチをサイレントモードに切り替え、タブレット端末を起動し、1時間目の国語の教科書を置いておく。
「おはようございますなのです。苺ちゃん」
鈴を転がすような可愛い声で名前を呼ばれた。視線をやるとそこには愛らしい少女が微笑んでいた。
「おはよう、葵ちゃん」
日向葵。同じクラスの同級生だ。
長い睫毛に覆われた大きな瞳。真っ赤なリボンを編み込んだ長い三つ編み。白いフリルのブラウスにチョコレートのようなブラウンカラーのワンピース。腰にはベルトのように大きなリボンが巻かれていて全体的に上品な洋菓子のように愛らしい。腕には赤くて細い革ベルトに巻かれたサイバーウォッチが巻かれている。
向日葵とは小学校3年生の頃に同じクラスになり。そこから偶然3回連続で同じクラスとなり、両手の指では足りないほど、幾度もグループ学習や校外学習を共にし、顔馴染みのような関係へとなった。
見てわかる通り、彼女は非常に愛らしい少女である。物腰がやわらかで丁寧な口調。心やさしく、誰に対しても分け隔てなく接し、成績も優秀で、男子たちからも人気が高い。3年生の頃から保健委員を務めているので、一部の男の子たちからは「6年2組の天使」と呼ばれていることを、当人は知らない。
「苺ちゃん、これ昨日、葵がママと一緒に作ったので食べてほしいのです」
そう言って、差し出されたのはリボンで結ばれた小さなラッピング袋に入ったクッキー。受け取って見ると、チョコチップが散りばめられたハートの形のクッキーが詰められていた。
「わぁ、ありがとう。とってもおいしそう」
「とっても上手く焼けたと思うのです。良かったら、おうちで食べてほしいのです」
ラッピング袋に入ったクッキーを渡すと葵は「またあとでなのです」と笑って自分の席へと移動した。教室の後ろからチクッとした視線を感じる。痛いほどの視線が向けられているのを感じた。振り返る。しかし、誰もこちらを見ていない。葵が笑顔でふたりの女子と話している。男の子たちも男子同士で話している。誰もこちらに注目していない。
「…………」
まぁ、わかる。あのクラスの天使である日向葵の手作りクッキーだ。それを受け取った私を誰かが羨む気持ちは痛いほど理解できる。教室の中で葵からお裾分けをもらう度に誰かしらの視線がこちらにぶっ刺さってくる。いつものことだった。それらをいちいち気にしてはいられない。
(しかし、すまんね。クッキーをもらったのは私なのだ。これはきみらの代わりに私がすべておいしく頂いておくよ)
日向葵はお菓子作りが好きで、料理クラブの部長も務めている。家でも母親と一緒によくお菓子作りをしており、その度にこうしてよくクッキーやカップケーキなどをお裾分けにもらうことがあった。うちの家庭とは大違いである。私は母とお菓子作りをしたこともないし、母の手料理を食べた記憶もなかった。
(夕飯の後のデザートにしよ)
受け取ったクッキーを、机の横に下げたアスターが入っているトートバッグの中へとしまう。給食のデザート以外では甘い物を食べられないので、ありがたく天使の施しを受け取らせてもらっているのだった。
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