初めての夜とナイショの友達


 母の部屋を通り過ぎて、キッチンへと向かう。シンク下の観音扉からカップラーメンを取り出してお湯を注ぐ。ダイニングテーブルでひとりでカップ麺を啜り、食べたゴミを捨て、使った箸を食洗機に入れる。夕食後は風呂を洗って、タイマーをセットして湯船にお湯を張り、部屋へと戻った。


「ただいま、アスター」

「おかえり、苺☆」


 ベッドの下からトランクを引きずり出して声を掛けると、パカッと蓋が開いてアスターがトランクから飛び出てきた。


「ちゃんと、お腹いっぱい食べてきた?」

「ちゃんと食べてきたよ」

「何を食べたの?」

「味噌のカップラーメンだよ」

「えぇっ、それだけ?! 本当に?」

「それだけでお腹いっぱいなの。それ以上はいらない。それに、昼間にちゃんと給食を食べているから大丈夫だよ」


 子犬のように飛び込んできたアスターの勢いを受け止めながら、相手の質問に答える。アスターは不服そうに眉をしかめながら「カップラーメンも毎日食べているわけではないのなら、別に良いけど……」と言っていた。だが、カップラーメンは毎晩の主食である。これを変えることはできない。昼間に学校で給食をしっかり食べているので、夕食がインスタントラーメンという点に関してはあきらめてもらわなければならないだろう。


 アスターを抱えてベッドに座る。


「それより、いまはあなたの今後について考えたいの。ちょっと聞いてくれる?」

「わかった」

「私、できればあなたの存在を、お母さんにバレないように隠しておきたいと思ってるの」

「どうして?」


 小首を傾げるアスター。


「お母さんは、お父さんのこと……嫌いだから。だから、そんなお父さんが残した物を許さないと思う……。お母さんにあなたのことが知られたら、アスターが処分されちゃうかもしれない」

「なるほど。それは困ったね……」

「万が一、アスターが処分されなかったとしても、取り上げられてしまうよ……」


 母は美しい物に目がない。彼女がこの生き生きとした美しい妖精のような人形を見つけたら、私の手から取り上げてしまうだろう。そうして、アスターを自分の配信動画のネタとして利用し、この手にアスターが戻ってくることはない。科学技術が発達した現代とはいえ、こんなに美しく生き生きとした電子人形はおそらくこの世のどこにも存在していないであろう。すぐにアスターは世間の注目を集める存在となってしまうのは言うまでもない。もしも、外部の研究機関にアスターを引き渡すように言われたら、母は何らかの対価と引き換えにあっさりと彼を引き渡すだろう。そうなったら、アスターは二度と私の手に帰ってこないだろう。なので、父が残したこの人形の存在を母に知られてはならない。


「私と離ればなれになりたくないのなら、あなたの存在を秘密にしなければならないの。だから、もしもお母さんや他の人に見つかってもしゃべったり、動いたらしないでね」

「それは、僕に人形のフリをしろということ?」

「そう。こうして話したり、飛んだり、動いたりするのは私とアスターのふたりきりのときだけ。約束してちょうだい」

「わかった。きみが望むのならそうするよ☆」


 アスターが腕を持ち上げ、小指を立てる。


「約束する。僕はきみだけのお人形さんだよ☆」


 立てられた小さな小指。人形の小さな小指に指を絡めることはできないので、こちらも小指を立てて、その指先で小さくアスターの小指の先にツンと触れる。すると、アスターはふわりと幸せそうに頬を染めて笑った。そのうれしそうな笑みがあまりにもきれいだったので一瞬だけ、目を奪われた。


 アスターは父が私のために造ってくれた贈り物。そして、アスターは鷹田紫苑につながる唯一の手がかりでもある。彼を誰にも奪われるわけにはいかない。母や他の大人たち、そして友人やクラスメイトにも、この美しい電脳人形の存在を誰にも知られてはならない。アスターは、父が私だけのために残してくれた秘密の友達なのだから。



□□□



 アスターを再びソラリス・トランクの中へ戻して、風呂場へ向かい、手早く入浴を済ませた。入浴後、着替えを済ませて洗濯をする。洗濯かごに入っている自分の衣服を全自動洗濯機に移し、柔軟剤と洗剤をセットして洗濯を回す。洗濯機には乾燥機能も付いているので、セットしてしまえばほとんどやることはない。さらに、洗濯物も自分ひとり分だけなので洗濯時間もあまり掛からない。洗濯物は毎日、自分でセットし、洗濯し終えた物を自分で取り出して畳んで片付けている。


 以前は、母の服も洗濯をしていた。しかし、過去に一度だけ、彼女の服を勝手に洗濯してしまい、酷く怒られたことがあった。


「あんたって子は余計なことをして! なんてことをしてくれたのよ!」


 怒鳴られて、灰皿で顔を殴られた。正直、その時の自分は己が何を失敗したのかはわかっていなかった。ただ、灰皿を手にした母が鬼のような目で怒鳴ってくるので、ひたすら「ごめんなさい」と泣いて謝ることしかできなかった。後日、家庭科の授業で、教科書を読み直した際に、母が配信で着ていた衣装の中には洗濯ネットに入れなければならないような物があったのかもしれないと気付いた。しかし、もう母の服を勝手に洗濯して、灰皿で殴られるのは嫌だったので、彼女の衣服には手を出さないようにした。


 全自動洗濯機が稼働している間はやることがないので、部屋に戻っていつものように宿題を終わらせることにした。ランドセルから学校で支給されたタブレットを取り出して、電源を入れる。画面が起動し、今日の宿題が表示された。理科の課題で「私たちの身の回りのエネルギー変換を調べて説明する」という内容だった。担任が「家にあるもので調べてね」と授業で言っていたのを思い出す。


 アスターが翅を動かずにソラリス・トランクから浮かび上がる。小さなホログラムのスカーフを微かに揺らしながら、興味深そうに横からタブレットを覗き込んでいる。


「苺、何やっているの?」

「宿題だよ」

「どれどれ。わぁ、エネルギー変換って何だろう? 面白そうだね☆ 僕も何か手伝えるかい?☆」

「いいよ。私ひとりでできるから大丈夫」

「それじゃあ、隣で見てるね☆」

「好きにして」


 アスターはAIなのにインターネットから情報を集めて調べることができない。音声アシストAI以下の彼に学校の宿題を手伝えるとは思えなかった。それに、これはそんなに難しい課題ではない。いつものように、タブレットの画面に「エネルギー変換」と入力し、考える。 


(エネルギー変換……。父さんも得意な分野だったのかな)


 視界の端に小さな白いベレー帽と淡く光を放っている薄いガラス翅が映り込む。小さな白い頭を見つめる。


「……アスターもエネルギーを変換して動いているの?」

「ん? 僕? そうだよ。電気エネルギーを動力に変換して動いているよ☆ あと僕の背中の翅も、ソラリス・トランクも、光エネルギーを電気エネルギーに変換して動くこともできるよ☆」

「なるほど。すごいね」

「もしかすると、僕のことを書いてくれるのかい?」

「いや、書かないよ。聞いてみただけ」

「なるほど、僕は苺の秘密の友達だもんね! ナイショ☆ ナイショ☆」


 顔の前に人差し指を立ててシーッといたずらっぽく笑う顔が可愛く見えた。


『僕の背中の翅も、ソラリス・トランクも、光エネルギーを電気エネルギーに変換して動くこともできるよ』


 先程のアスターの言葉を思い出す。目の前で、生き生きと楽しそうに反応する彼が、造り物の存在であることに少し信じられない気持ちにもなった。


「それで、苺は何を書くんだい?」


 端末を覗いていたアスターがこちらを向き、小首を傾げながらこちらを見上げる。


「うーん……。洗濯機にする」

「洗濯機?」

「洗濯機は電気エネルギーを運動エネルギーに変えている。モーターが回ってドラムが動くから。乾燥機能は電気を熱エネルギーに変えて服を乾かす」


 アスターに説明しながら、タブレットに指で書き込む。


「へぇ、すごいね。洗濯機って☆」

「普通だよ」


 タブレット画面を指でスワイプして宿題を保存し、時間を確認してから電源を落とす。もう少ししたら洗濯が終わる頃だ。


「もう、宿題は終わったの? 早いね☆」

「簡単な例しか思い浮かばなかったからね」


 タブレットをランドセルに片付けながら、時間割を確認していると、空中を浮遊していたアスターが肩に乗ってきた。


「おつかれさま、苺☆」

「ありがとう」


 そのままアスターを肩に乗せながら、明日の授業のための教科書を入れる。


「アスター、私は洗濯物を取りに行ってくるから、またそこのトランクで待っててくれる?」

「洗濯物? それなら、僕も洗濯機という機械を見てみたいな☆」

「は?」


 驚いた。アスターがそんなどこにでもあるような家電製品に興味を示すとは思わなかった。


「さっき、苺が教えてくれた洗濯機を見てみたいんだけど……だめかい?」


 弾んでいたアスターの声が、ほんの少し落ち込む。スルリと肩から滑るように降りて、ソラリス・トランクの方へと向かう小さな背中。心なしか背中のガラス翅の淡い輝きも色褪せて見える。そのしょげた後ろ姿を見ていると、罪悪感が刺激された。


(少しくらいなら、洗濯機を見せてあげても良いんじゃないの?)


 己の中の仏心が囁いた。アスターは父が残した秘密の友達なのだから。彼をこの部屋の中に監禁して閉じ込めたいわけではない。


「……少しだけだよ」

「本当!?」


 ほんの少し思案して言うと、パッとアスターが振り返る。紫電の瞳がキラキラとうれしそうに輝いている。う、可愛い。


「ありがとう☆ 苺、大好き☆」


 空中から、ゴムボールのように飛び付いてきたアスターの小さな身体を受け止める。


「それじゃあ、お母さん達にバレないように気を付けるよ……」

「もちろんだよ☆」



□□□


家庭科の授業で作らされたトートバッグにアスターを入れて、脱衣所へと向かう。全自動洗濯機の中から自分の服を取り出す。アスターは肩にかけたトートバッグから、脱衣所の様子を興味津々に目を大きく輝かせて観察していた。ひとり分の洗濯物を抱えて部屋へと戻る。


「僕、洗濯機って初めて見たよ! 洗濯機って大きいね☆」

「そうね」


 アスターは部屋に帰ってくるなり、トートバッグから抜け出して、感動したように身ぶり手ぶり大きく腕を動かして感想を伝えてきた。正直、全自動洗濯機の何に感動しているのかはよくわからない。あんなもの、どこの家庭にでもあるただの家電製品でしかない。


「苺は毎日アレで洗濯をしているんでしょ?」

「そうだよ」

「苺はえらいね☆」

「ありがと」


 洗濯を畳んでいる横でアスターが浮遊しながら、話しかけて来る。


「苺、僕も洗濯を畳むのを手伝うよ☆」

「そんなちっちゃい身体でどうやって私の服を畳むのよ」

「それなら、僕は小さい洗濯物を畳むよ☆」

「あ、待って! それ、私のパンツ! 自分でやるからいい! 黙って見てて!」

「わかった☆」


 洗濯を畳むのを手伝おうとして、下着に触れようとしたアスターを慌てて止めると、アスターはあっさり引き下がった。


「明日、苺が洗濯をするとき、傍で見てても良い? カバンでおとなしくしているよ☆」

「……喋らないのなら、良いよ」

「ありがとう☆ 苺、大好き☆」


 了承すると、小さな人形が肩にしがみついてきた。アスターは機械のくせに、犬みたいにひと懐っこいAIである。


(アスターのこの性格も、お父さんが意図的に設定したのかな……)


 アスターは身体が小さくて洗濯を畳むことすらできない。さらに、AIのくせに情報収集やネット検索などにも使えない。音声アシストAI以下である。しかし、アスターは何の役にも立たないけれど、驚くほど感情豊かでよく笑う。まるで、人間みたいに。


 いつも、夜はひとりで過ごしていた。ひとりでご飯を食べて、ひとりでお風呂に入って、ひとりで宿題をして、ひとりで寝る。いつも家にいる間は誰とも話をしなかった。母は、いつも恋人とふたりで過ごしているか、自分の部屋で配信をしているか、どこかに出かけているかしていて、あまり会話らしい会話をしたことがなかった。こちらから、何かを話しかけても「ふーん」「あ、そう」というおざなりな返事しか返ってこなかったので、会話も長続きしなかった。昔は、学校で起きた出来事などを母に話そうとしていたけれど、どれだけ話し掛けても彼女の視線はいつも仮想ディスプレイに向いていた。母の視線がこちらを向くことはなかった。いつしか、私は彼女と対話することを諦めた。


 だから、この家で誰かと話をするのは、アスターが初めてだった。


 畳んだ洗濯物を衣装ケースにしまい、歯磨きを済ませて部屋の照明を落とす。明日の準備も終わらせたのであとは寝るだけだった。


「……アスター」

「なあに? 苺☆」


 私が話し掛けると、ベッド下のトランクの中からアスターの声が聞こえてきた。


「アスターはお父さんがあなたを造ってかららずっと10年以上もソラリス・トランクの中で眠っていたの?」

「そうだよ☆ スリープ状態だと自動でエネルギー低消費モードに切り替わるから、軽く10年程度ならスリープ状態を保っていられるよ☆ でも、通常の活動状態はエネルギーの消費が激しくて72時間しか保たないから、定期的に太陽の光に当てるか、ソラリス・トランクで充電させてね☆」

「ソラリス・トランクって無限に充電できるの?」

「ううん。このソラリス・トランクも充電しないと充電用のエネルギーが枯渇してしまうよ。だから、240時間に1回は必ず1時間ほど太陽の光に当てて充電してね☆」

「わかった」

「苺の部屋には窓があるから、昼間にソラリス・トランクを日光浴できそうで良かったよ☆」

「アスターは、ソラリス・トランクの中でずっとひとりで寂しくなかったの?」

「僕が? どうして?」


「だって……ずっとひとりで寝るのは寂しいと思うよ」

「そうなんだ?」


 私の問いかけに不思議そうに首を傾げるアスター。彼は父によって造られた機械人形だから、寂しいとか、悲しいと感じないのかもしれない。


「人間は、そうなんだよ……」

「なるほど……☆」


 ベッドの下で、トランクの蓋が開く物音がした。そうして、すぐ後に暗闇の中でぼんやりと薄く光る翅が見えた。アスターのガラス翅だ。


「それなら、僕が苺と一緒に寝るよ☆」


 そのまま、アスターが枕元で寄り添うように横になる。


「僕がいるから、もう寂しくないよ☆」 


 胸の奥がギュッと締め付けられて詰まった。無性に何だか泣きたくなってしまい、咄嗟に言葉が出なかった。


「……アスター」

「なあに? 苺☆」

「……ありがと」

「どういたしまして☆」

「あと……おやすみ」

「おやすみなさい、苺☆」

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