『葡萄鹿の子と偽物のヴェール』

スナコ

『葡萄鹿の子と偽物のヴェール』

葡萄家族が住んでいる家には仕切りがほとんどない。「開放的で、どこにいても家族の顔が見え、声が聞こえる家」で、たくさんの子供達と仲睦まじく暮らす。それが、葡萄家の絶対的な権力者である母子の実(このみ)の希望であり、夢だったからだ。

彼女の希望にどこまでも忠実に従い家を建てた結果、きちんと壁と扉がある独立した部屋は、トイレや風呂場を除けば両親の部屋と子供達の寝室、それだけとなっている。

だから、葡萄家の子供達が家の中で一人になりたい時は、寝室かトイレか風呂場かしか選択肢がない訳で。

そんな、開放的だからこそ、思春期の子供には息苦しい家の中で。鹿の子は一人、襖の閉め切られた寝室で、物思いに耽っていた。

「・・・」

すっかり日も落ちて、夜の帳に覆われた部屋の中。しかし、背の高い街頭が放つ白い光がうっすらと入り込み、寝室の大きな窓にかけられたカーテンをわずかに照らし出していた。

六月の終わり。蒸した空気が充満するのを嫌がって、半分程開けておいた窓から入り込む夜風が、カーテンの裾を揺らす。

ふわり、ひらり。海の白波が、打ち寄せては返すように。他に何も動く物がない部屋において、楽しげにはためくそれに、自然と鹿の子の目は吸い寄せられた。

真っ白な、レースのカーテン。繊細な編み模様が施された、軽やかで薄い、長い布・・・、

「・・・」

見つめるそれに、鹿の子はある物を連想して。

きょろり。首を回せば、わずかな光を反射して自分の存在を主張する物がある。身支度用にと壁にかけられていた手鏡。それを手にし、鹿の子は窓へと近づいた。

風に遊ばれ、気まぐれな動きでひらめくカーテンの裾をつかまえて。鹿の子はその場にそっと屈み込み、恭しい手つきでそれを持ち上げ、ふわりと頭に乗せてみた。

そのままの格好で鏡を覗き込めば、そこにいたのは、ヴェールをかぶった花嫁。・・・にも見える、自分の姿。

花嫁、お嫁さん。乙女の、憧れ。

好きな人と心が通じ合った先に待つ、幸せな姿。

そっと目を伏せれば、聞こえてくる。過去の自分の、無邪気な声が。

『鹿の子ね、絶対ぜーったい、おにぃちゃんのお嫁さんになるの!』

自信と愛に満ち溢れた、幼い声。・・・そう、あの頃の自分はまだ、幼かった。何も知らず、わからず・・・だからこそ、強かった。どこまでも無限に、強くあれた。

初めての恋は、鹿の子を完全に狂わせた。目覚めたばかりの愛は鹿の子を盲目にし、その心身を万能感で満たした。溢れて止まらない愛のエネルギーは、十一歳の身にはあまりに強大すぎて。・・・勘違い、していた。

愛こそ正義であり、絶対。自分が抱える想いは、倫理も昔からの決まりも叩き伏せ、世界をも変えられると。本気で信じていた。

今は、あの頃とは違う。三年という年月は、思春期の子供にはあまりに長く、重い。

歳を重ねた事で、世界を知り・・・その広さと大きさを知る事で、相対的に自分の存在の小ささと、無力さをも、同時に知る事になって。鹿の子は、悟ってしまったのだ。自分の力では、この世の定めを覆す事はできない・・・真砂と、実の兄である愛する彼と。法的に結婚する事は叶わない、と。

「ッ・・・!」

物心ついた頃には、既に好きだった。淋しがり屋で、甘ったれで、愛情に飢えていて・・・いつも誰かしらに邪険にされては泣かされてばかりの、それでも愛される事を諦めきれずに必死に叫んで手を伸ばす彼が。憐れで、可愛くて、愛おしくて。仕方が、なかった。

彼を、幸せにしたかった。愛を求め続け、深い孤独感のあまり、胸の中に膨大な広い沙漠を抱えるようになってしまった兄を。

ちょっとやそっとの愛では足りない。焼け石に水という言葉があるように、渇望という名の沙漠は、優しい言葉も肌のぬくもりも、与えた先から全てを飲み込んで、深く深くに埋めて(うずめて)隠してしまう。底無し沼のように。あるいは流砂のように。彼の渇望は果てがない。

しかし、自分ならば。湧水のように止めどなく、無限に溢れ続ける愛がある自分ならばきっと、いいや絶対に、彼の心の空白を満たす事ができる。鹿の子は確信していた。

だって、自分には無尽蔵の愛があるのだ。この世の誰よりも、彼を愛してる。彼だけを。自分の全ては彼のためにあるのだと言っても過言ではないくらい、まだ短い人生において、鹿の子の中の兄への愛は圧倒的に大きく比重を占めていた。

この心も体も、人生も。自分が持ち得る全てを使って、彼を満たし、癒してやりたかった。

そう願い続けて、ようやく勇気を出して想いを告げてから。三年、実に三年。毎日のように熱烈な愛の告白を繰り返し、真砂の強固な倫理をうち壊すべく説得を続けた甲斐あって。とうとう鹿の子は、真砂に自分の愛を受け入れさせ、また彼が自分に向けて、兄弟以上の愛を抱いている事実を認めさせる事ができた。

王子様とお姫様、愛し合う二人が結ばれて、ハッピーエンド。お伽噺ならばここで、「そうして二人は幸せに暮らしました、めでたしめでたし」と、定番の一文で締められる所だが・・・生憎、鹿の子と真砂が生きている世界は、現実で。そんな風に綺麗に終われる程、この世は二人に優しくなかった。

法律、倫理、禁忌・・・そんな物の壁が、どんなに分厚く高いものなのか。しつこいくらいの自分の求愛に、明らかに心が傾いていくのがわかるにも関わらず。必死に自分を拒み、胸の中で育ちゆく自分への愛を頑なに認めようとせずに抗っていた兄の言っていた事が、この三年を経てわかるようになってしまった。

兄は、恐れていたのだ。心や体が結ばれた幸せの先に待つ、法的には決して認められないという、この状況を。

他者の承認なんて必要ない。愛とは当人二人の問題であって、二人の間に決して揺るぎない絆があるなら、それでいい。その考えは変わっていない。何故人が愛し合う事に他者の介在が要るのか。自分達に対してはもちろん、世界中の恋人達への、尊厳の侵害だと思う。

愛は自由であるべきだ。自分達みたいに親族同士での場合は、子供の問題がある事は確かだが・・・少なくとも自分は子供は望んでいないし、兄も「それだけはいけない」と強く忌避・・・正確には恐れているようだから、不幸が生まれてしまう心配は、ない。ほしいのは互いだけで、愛し合うだけならば・・・なんの問題もないのに・・・。

籍は入れられない。それ自体は別にいい、最初からわかっていた事だ。法的な繋がりは必要ない、だって自分達は既に「家族」なのだから。生まれた時、いいや、母の腹の中で受精した時点で。血の繋がりという、神にすら断ち切れない絶対の絆で、強く固く結ばれているのだから。戸籍上の繋がりなんぞ、今更だ。

「入籍」はいらない。鹿の子が望んでいるのは「結婚式」だ。恋人達の愛の結実とも言える、華やかで幸せな儀式。

夢だったのだ。彼への恋を、愛を自覚した、まだ一桁だった幼い頃から。

起きながらにはもちろん、眠ってまでも。幾度も幾度も夢に見た、兄である真砂との婚姻。真っ白なドレスを纏った自分の隣で、黒いタキシードに身を包んだ彼と、永遠の愛を誓い合う・・・そうして、死ぬまでずっと、寄り添い合って共に生きる。それが、自分の夢だった。

背も手足も伸び、平坦だった胸も膨らみ、すっかり大人になった体を純白のふんわりしたドレスで包んで。そんな自分と対をなすように、びしっとしたシルエットの真っ黒なタキシードを着た、まるでお伽噺の王子様のようにかっこよく決めた兄の姿を。何度想像しては、あまりのかっこよさに一人身悶えた事か。

そんな兄の手を取り、指輪を嵌めてやった先に見える、幸せに泣き濡れた彼の笑顔・・・。

一生、永遠の愛を捧げる事を、彼自身に誓う。それは、愛に飢え、愛を求め続けてきた彼にとって、この上ない幸福である事は想像に難くなく。

自分の全てでもって、自分こそが彼を幸せにするという、甘美な夢・・・しかし、それは永遠に夢のまま、決して実現する事はないのだと!理解してしまった時の、あの絶望といったら!

世界が崩れ、一瞬にして目に映る全てがモノクロになった。それが、二日前の事・・・あの瞬間から鹿の子はずっと、希望の掻き消えたこの世界を、ただ時間が無為に垂れ流されていくのを見送るように無気力に生きていた。

「大人になりたい」。あんなにも望んでやまなかった願いが、満を持して叶ったというのに、・・・鹿の子は、今の状況を、後悔すらしていた。

知識をつけた事で無知故身につけていられた無鉄砲な強さを失い、こんな残酷な真理を理解できてしまえるのが大人だと言うなら。溢れる愛の力で道理など捩じ伏せてやると、全てを蹴散らし世界に歯向かえるだけの力を失くして、マジョリティ共が勝手に作った決まりに屈して膝を折るしかないなんて・・・そんな自分を認めて受け入れるのが、大人になった証だと言うなら!大人になんかなりたくなかった!

だんっ!瞬間的に噴き上がった激情に畳を殴りつけるも、痛みを感じるのは自分ばかりで。何も変えられない、ただの八つ当たりでしかないと、鹿の子自身が一番わかっていた。

救いを求めて、考える。子供のままでいられたならば、幸せだった?こうなるとわかっていたなら、大人になりたいなんて願わなかった?・・・いいや。大人にならなければ、子供のままでは、望む形で彼を幸せにしてやる事はできなかった・・・それもまた、確かで。

子供のままでも、大人になっても。自分は、心からの幸せに浸る事はできない・・・その事実は鹿の子に、自分の恋は、愛は。間違ったものであり、故に永遠にこの世に祝福される事はないと、突き付けられているかのように感じさせた。

「ふっ・・・!」

ぶわりと湧き上がった悲しみと涙の気配に、目元を歪めて顔を伏せる。手にしていたカーテンを口元に引き寄せ、縋るような気持ちで、鹿の子は一人泣いてしまいたい気持ちを必死にこらえていた。

血の繋がった兄弟。神にさえ引き裂く事のできない、血流という赤く太い絆で結ばれた関係に、ほんの二日前まではあんなにも感謝しこの身に流れる血を愛しく思っていたというのに。今は、その絶対に断ち切れない絆のせいで、こんなにも不幸だ。・・・愛すべき祝福を、不幸だなんて疎んじてしまう自分にも、腹が立って仕方なくて殺してしまいたくなる!

誰よりも傍にいられて、こんなにも幸せなのに。誰よりも近しいせいで、望む光景は実現できない・・・こんなにも苦しく、悲しい恋が、他にあろうか?

ヴェールをかぶった花嫁。鏡に写る自分の姿は、幸せの象徴そのものだというのに・・・こちらを見つめ返す表情は、花嫁にはあまりに似つかわしくない、悲しいもので。

夢見る理想と無情な現実の差に、心が耐えられなくて。鹿の子は手にしていた鏡を叩きつけ、・・・ようとして、一度思い留まり。鏡面を伏せて、力一杯床を滑らせて自分から遠ざける事で、悲しい事実から目を背ける事を選んだ。

「おにぃ、ちゃん・・・」

想い人の名を呼ぶ声は、弱々しく悲痛な響きでもって、部屋に満ちる夜の薄闇に溶けた。

救いを求めるような、声音。実際それは間違っていない。真砂の存在が、兄が返してくれるようになった愛だけが。鹿の子が抱く(いだく)実兄への恋を、道ならぬ愛を。力強く肯定し自信をくれる、絶対的な支えとなっていたからだ。

間違いなんかじゃない。歪んでなんかいない。神に背く想いであろうと、この愛は誰にも否定できはしない尊いものだと。兄は、愛する我が伴侶は、そう言ってくれるのに!

(愛し合ってる、のに・・・どうして、鹿の子達だけ・・・!)

悔しくて、悲しくて、呪わしい。自分達を認めない世界なんか、今すぐ滅びるべきなのに。愛はうつくしく尊ばれるもので、そこに貴賤の区別などつけてはいけないはずなのに。なんで、なんで自分達だけ・・・っ!

止めどなく溢れて溺れそうになるくらいの愛を抱き締め、嵐に見舞われた海のように暴れて止められない哀を押さえ込むようにして。鹿の子はぎゅっとカーテンを掴む手に力を入れて、強く体に引き付けるようにして纏うと、前のめりに蹲った。


一方その頃。愛しい恋人が暗がりで悲しみに溺れているとは知らず、彼女の姿を探して首を巡らせる者が一人。鹿の子の兄であり、晴れてこの度恋人にもなった真砂である。

仕事帰りに立ち寄ったコンビニで、鹿の子が気にしていた新発売のお菓子を手に入れたものだから、渡してやって喜ぶ顔が早く見たいのだけれど・・・姿が見当たらない。中学の制服はいつもの場所にかかっているし、こんな時間に一人で出歩くとも思えないのに。

冒頭でも記したように、葡萄家には間仕切りという物がない。しかも二階がなく、一階のみの横に広い箱状の家は、その構造上ぐるりと首を半分も回せば、誰がどこにいるかすぐに見えるようになっている。

家の中にいるのは確実なのに、その場で一回転してみても姿が見えないとすれば、トイレか洗面所か風呂場。後は両親の寝室か、子供達に与えられた寝室のどれかしかない。

風呂は今母と猪の子が入ったばかりで、トイレからは音は聞こえず、両親の部屋は余程の事がない限り子供達が立ち入るような場所ではない。子供達のプライバシーは管理の名の元に徹底的に無視され、何もかもを白日の下に曝す事を強要しながら、自分達の部屋は鍵をかける徹底振りなのだから、これには正直真砂も呆れている。

となれば、残る可能性はここしかない。真砂は家の一番奥にある、子供達の寝室に続く襖に手をかけ、細く開いた隙間に顔を突き入れて、

「鹿ーの子っ♪」

と。声音と同じく、極々軽い気持ちで彼女を呼んで。しかし、襖の向こうは薄暗く。ずっと蛍光灯の下で明るい光に慣れきっていた目では、薄闇の中で、しかも逆光を背負う形になっている鹿の子の細かい様相を判別する事はできなかった。

けれど、窓の前で動いた、外から入り込む電灯の明かりの中に浮かび上がるように存在する黒い塊。その大きさからその塊が、呼んだ名前の主と判断して。「見ーつけた♪」と真砂は笑い、・・・次第に、寝室に立ち込めていた夜に、目が慣れてきて。

カーテンをかぶり、窓際に座り込んでいる鹿の子の姿が目に入った瞬間、

「ッ、」

・・・思わず息を飲み。それと同時に、時間までもが止まったかのような錯覚を覚え。真砂は、その場で動けなくなってしまった。

天使がいる。本気でそう思った。

夜の薄闇の中にありながら、その姿はうっすら発光しているようにも見えた。・・・もちろん見間違いだ。鹿の子自身が光を放っている訳ではなく、窓から入り込んでいる街灯の光をカーテンが吸って、カーテンの白さを際立たせているのだ。

彼女を照らすのは、人工的な光・・・けれど、光を纏った鹿の子がうつくしい事にはなんの代わりもない。

神々しささえ感じるその姿に、息は止まり、無条件に跪こうと膝が勝手に折れようとした程だ。寸での所でこらえたけれど。

季節は六月。寒さとは遠く、ある言い伝えのあるこの時期に白いカーテンにくるまるようにして、右手には手鏡。更に鹿の子の性格やら思考やら、去年までのこの時期の言動やらも含めて考えれば、導き出される答えはひとつ。ジューンブライド、六月の花嫁ごっこだ。

初めて鹿の子がプロポーズしてくれたのも、六月だった。六月の花嫁は幸せになれる。昔から伝わる言い伝えに、鹿の子が夢を抱いて(いだいて)いるのを、真砂は知っている。

なんて可愛い事をしているのだろう。愛してやまない恋人の、いじらしく最高に可愛い姿を目撃して、心臓がきゅうっと絞められると同時に顔が勝手に笑みを形作る。

愛しい、可愛い。力いっぱい抱き締めてやりたい。足元がふわふわするような、浮かれた心地の自分とは裏腹に。

「、・・・」

ちら、と。鹿の子はこちらを一瞥したかと思うと、くしゃりと悲痛な表情を浮かべて。悲しげに揺れる目を、静かに伏せてしまった。

結婚ごっこ。夢と希望に満ち溢れた、幸せな儀式・・・そんなイメージとはかけ離れた物淋しい空気を漂わせる恋人に、勘のいい真砂は、鹿の子の胸の内をすぐに読み取ってしまって。

するりと部屋に入り込みながら後ろ手に襖を閉めると、まっすぐ鹿の子に向かって歩いていき。床に膝をつくと、鹿の子の前髪を手で掻き分けて、現れた額に唇を押し付けた。

兄の突然の口付けに、びく、と鹿の子の肩が驚きに小さく跳ねる。今は夜で、襖一枚隔てた向こうには、母や弟妹達はもちろん父までいて。こういう事は、恋人としての接触は、家に自分達二人しかいない時だけって。まだ自分が迫る一方だった頃から続く、暗黙の了解だったのに。

・・・けれど。兄がくれたそれは、悲しみに暮れていた鹿の子の心を、優しく慰めて。鹿の子は今の自分が、兄からの確かなる愛の証明を求めていた事に気づかされた。

もっとほしい。キスして、触って、抱き締めて・・・このどうしようもない怒りと、悲しみを。その優しいぬくもりで追い出してほしい。

膝を浮かせ、ぐっと顔を近づける。緩く弧を描く(えがく)薄い唇に、自分のそれを重ねようとして、

「っと、」

止められた。人差し指と中指、二本立てた真砂の指が、鹿の子の唇をそっと押しとどめて。彼女が望む接触を、優しく拒んだ。

「え、」

まさかの制止に、軽い混乱が鹿の子を襲う。おでこにとはいえ、先にキスしてくれたのは、おにぃちゃんなのに。

キス自体が嫌、という訳ではないはずだ。心が結ばれたあの日以来、真砂は恥ずかしがって逃げる事はあっても、最後には必ず自分の愛の証明を受け入れてくれてきた。なのに、どうして?

・・・普通に考えるならば、やはり他の家族もいるから、だろう。最悪目撃されたとしても、ちょっとしたおふざけ、と言い訳できるおでこと違って、唇はさすがに弁解の余地がないからと。

けれど、でも。一瞬、だけだから。

「して、し、て。ちゅう・・・口、に・・・」

真砂の胸に縋るような格好で服を掴み、ぐいぐいと下に向けて引っ張りながら、鹿の子はねだる。

「ほんとには、結婚、できないんだから。どうせ真似しかできないんだよ?だったら、せめて・・・」

せめて、形だけでも。本物に近づけて、花嫁になりきって、幸せな気分を味わいたいと。

「それくらい、許されたって・・・いいじゃん・・・」

入籍はおろか、結婚式すら自分達には許されないのだ。真似事でくらい、夢を見たっていいじゃないか。そんなささやかな幸せすら、許されないと言うの・・・?

いつも明るく笑んで、きらきら輝いている大きな目が、涙で潤んで揺れている。神に愛されて生まれてきたのだと言われるのも納得の、清らかな心根の愛らしい少女の悲しみに濡れた目は、見る者全ての胸を憐れみで握り潰す力を持っていた。

目ではもちろん、顔全体で悲しみを訴えてくる鹿の子の頬をさりさりと撫でながら。つつけば今にも零れそうな、表面張力でぎりぎり目玉に貼りついている水の膜が、雫となってその白い頬を滑り落ちる前にと。真砂は口を開いた。

「こんな真似なんかでやったんじゃもったいない。せっかくの誓いのキスなんだぞ?大事にとっとけ」

心からの愛がこもった、溶けるような眼差しで。優しい笑みを湛えたままそう言うと、もう一度額にキスを落としてきた。

「口には、式を挙げる時に、改めてしてやるから」

ちゅ、ちゅっ。愛しさを抑えきれないと言わんばかりに、額に、頬に、瞼に。キスの雨が降らされる。

可愛い、可愛い、大好き。小声での会話とはいえ、隣室に聞こえてしまう可能性を警戒しているのだろう。音として発せられる事はなくとも、言葉以上に気持ちを直に伝えてくる口付けの連打を、しかし鹿の子は数秒前のように喜びに震える心で受ける事ができずにいた。

『式を挙げる時』。自分に向けられる事は有り得ないと思っていた言葉の出現に、鹿の子の思考は混乱に固められてしまったからだ。

「し、き?・・・結婚式の、事?なんで、鹿の子達じゃできないはずじゃ、」

何を言っているのだ、兄は、自分の恋人は。だって、自分達は兄弟で、兄弟は結婚できないって、法律で決まってて。だから、結婚式だって、できる訳なくて・・・。

ぐるぐる。混乱が渦を巻き、頭の中でウロボロスの蛇のように同じ場所を回る。突破口を開くために何度も考えては、結局有効な解決策や抜け穴は見つけられずに、最後にはいつも法律の壁の前に屈するしかなかった・・・そのはず、なのに。

「そうだな。確かに真砂達は、「結婚」は、できないな?」

わずかに眉を垂れ下げて、残念がるような口振り・・・しかし、妙な含みを感じる物言いに、鹿の子は首を傾げて真砂を見上げた。いやに勿体振った言い方をする・・・混乱一色だった表情の中に、困惑が混じった事を目敏く読み取って。真砂は、ドッキリの種明かしをする時のような、楽しげににやついた笑みを浮かべて、

「でもさぁ鹿の子、知ってるか?式挙げるだけなら、べっつに、籍入れなくっちゃできない訳じゃないんだぜ?」

「え、・・・え?」

鹿の子の、そしてかつての自分が言っていたように、確かに自分達は結婚はできない。血の繋がった兄弟の婚姻は、法律で禁止されている・・・そう、「婚姻は」できない。

けれど、「挙式」は別だ。結婚式とは、「愛し合う二人が神の前で永遠の愛を誓う儀式」である。そこに必要な物は、二人の互いを愛する気持ち、それだけだ。入籍を絶対条件としている訳ではない。

だから式を挙げた所で、罪になるなんて事はおろか、誰にも咎められる心配などない。誰も自分達を知らない場所に行けば、堂々と教会だろうと神社だろうと、愛を誓えるという訳だ。

「で、でも、そんな・・・そんな、の、いいの・・・?」

真砂の言う事は間違ってはいない。けれど、屁理屈と言われてしまえばそれまでである。愛を誓うだけと言っても、最低立会人は必要だろう、万一兄弟である事がばれたら謗りを受けるのでは・・・自分達は見た目でそうとわかられやすいのだし・・・と。永遠に届かず、叶わないとばかり思っていた夢が、突然実現可能な現実味を帯びて目の前に降りてきたものだから。そんな都合のいい話があるのか、本当は自分は眠っていて、願望が強く出た夢を見ているのではないのか・・・などと、信じきれずにあれやこれやと深読みしてしまう。

そんな鹿の子を、面白そうに見下ろしながら。ニッと、真砂はいたずらっぽく、しかし確かな力強さと自信を感じる顔で笑って。

「誰の許可も承認もいらないって言ったのは、お前だろ?・・・挙げようぜ、二人だけの式。綺麗なドレス、着せてやるよ」

もう決めたんだ、とばかりに。真砂は迷いのない目で、はっきりと、きっぱりと、言い切ってみせた。

目と髪の色で兄弟だと疑われるというなら、従兄弟だとでも言えばいい。誤魔化しようなんざいくらでもある。

元々誰にもばれてはいけない秘密の関係なのだから、披露宴なんて最初から考えてはいない。綺麗な結婚衣装に身を包み、二人だけで慎ましく、相手に永遠を誓えるならば。それだけで充分だろう、と。

目をまっすぐに見つめながら、意思を問われて。夢見心地のままに、鹿の子がこくりと頷いたのを見届けると。

「決まりだなっ!」

潜めていた声が、抑えきれずに明るく弾ける。それと同時に、真砂は声音と同じく、顔にも心から嬉しそうな笑みを咲かせると。鹿の子の頬に一際強く唇を押し付けて、彼女に覆い被さるようにしてその体を強く強く掻き抱いた。

「好きだ、鹿の子、好きだ・・・!」

歓喜のあまり、震えが混じる甘い声で、真砂は鹿の子に愛を囁くと、

「世界一綺麗で、幸せな花嫁にしてやるからな・・・!」

「は、・・・はわっ・・・!」

強く強く、ぎゅうっと抱きすくめられて。耳元で囁かれた、限界まで声量を押し殺した・・・しかしその分、深く固い誓いが込められた、長い事秘められていたのがわかる決意の言葉に。心の底を、体の芯を。湧き上がる歓喜が、鹿の子を大きく震わせて。


ぱさ、り


その振動で、鹿の子の頭から、するりと。偽のヴェールが落ちた。

世界に祝福はされずとも、愛する人に幸せを確約された花嫁。この頭を飾るにふさわしいのは、自分のような偽物なんかじゃなく、もっと綺麗な本物だと言うように。自ら身を引くようにして落ちたそれを、拾い上げる必要は、もう。鹿の子には、なかった。

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『葡萄鹿の子と偽物のヴェール』 スナコ @SS12064236

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