第二話【夜道怪】



名を呼ばれたその瞬間、帰り道はもう、ない。

逢魔が時に潜む、人拐いの怪異・夜道の怪。

幽世に滲む涙は、死を越えて現世へ届くのか――




一. 名を呼ばれたら


夕暮れ、春の町。

住宅街の端、アスファルトの歩道を、一人の児童が歩いていた。


ランドセルのストラップを握り直しながら、黙々と家路をたどる。

スマホもゲームもない帰り道。家の明かりも、まだ遠い。


その時、不意に風が止み、空が色を失った。

まるで時間が一拍遅れたように、空気が一層重くなる。


「……え?」


ふと見ると、目の前にぽつんと男が立っていた。

全身、くすんだ布をまとい、顔は深い笠の陰に隠れている。


どこか喉の奥に引っかかるような、古びた匂いがした。


「坊や、ちと尋ねたい。……道に迷ってしもうてな。

 ここは、何という処かの?」


案外とやさしい声に、子供の警戒心がふと緩む。

促されるままに、場所の名前と、自分の名を口にした。


「僕、ケンタって言います……」


その瞬間、笠の下で男の口が、ずるりと裂けて笑った。

目は燻った墨のように、じとりと光る。音もなく袋が広げられる。


「ほっほ……ケンタ、か。今宵、逸品手に入れたり。」


叫ぶ間もなく、子供の魂はすうっと「麻袋」の中へ吸い込まれた。

夜道には、魂の抜け殻だけが取り残される。


──そして、風がまた、何事もなかったように吹いた。




二. その煙の先へ


伏水 三嶺稲荷大社の門前、鳥居前町の外れ。


灯籠に火がともり、香と煙がゆるりと立ちのぼる水茶屋がある。

名を「色狸庵(いろりあん)」


あわいの常連たちが、今日も静かに腰を下ろす。

その縁側に、ひとりの女が洋煙管を手にして座っていた。


小袖の裾を流すように折り、しとやかに湯呑を手に取る。


浦部 玲香。異品改方(くだりものあらためかた)の与力。

通称、「下り物狂い」。


鼻梁にかけた銀縁の丸眼鏡が、灯の明かりをかすかに弾いている。

膝元には帳面と、愛らしい絵が描かれた現世の草双紙——絵本。

文はやさしい言葉で、主人公の童を、言葉巧みに誘う幽霊。誘惑をかわしながら家にたどり着くといった話が描かれている。


「……綴じは糊。刷りは現世的。表紙は紙が何層にも重なって…

 しっかりしとる。……なんか怖いけど心安ぅなる話やな。可愛らし……。」


言葉は白煙とともに、ふわりと空に溶けた。

そこへ、ばさりと音を立てて、のれんが舞い上がる。


「おるか、浦部。……また一つ、面白い話が浮かんだ。」


のれんをくぐって現れたのは、

筆頭与力・神波 内蔵助(こうなみ くらのすけ)通称、「鬼蔵」


荒れた夜道をそのまま引き連れてきたような男。

袴に泥をまとわせ、眼光は鋭く、声は低い。


玲香は洋煙管を横に置き、静かに顔を上げた。

鬼蔵は腰を下ろすこともなく、袖口から一枚の文書を取り出して見せる。


「件の連発銃の一件や。どうやら、“夜道会”の下っ端が関係しとるらしい。」


「へぇ……噂だけは兼ねがね、あの連中かいな」


浦部は草双紙をぱたんと閉じ、湯呑に口をつけながら、声音を落とす。


「名は定かでないが、聖崩れの外道よ。拐かし、闇売買、押し込み…

 こそこそと、安手の悪だくみばかり働いとるらしい。」


鬼蔵は声を潜めるように続けた。


「今日もまた、逢魔が時に、どこぞで下り物を漁っとる気配がある。

 ……浦部、調べてくれ。」


浦部は湯を飲み干し、音も立てずに立ち上がった。

襟を軽く整え、煙管を懐にしまいながら、一礼する。


「承知。……ほな、“その煙”の根、見てきましょか」




三. その名を逸品と呼ぶなかれ


月も星もない、重たき夜。

忘れられた宿場に、霧が這い、しんと音を吸い込んでいた。


その宿の一室。障子の向こう、敷かれた座布の上に、

「麻袋」が横たわっている。


まるで燈が尽きかけた行灯のように、

微かに蠢きながら、すすり泣く声を漏らしていた。


その傍らで、聖崩れの男——

夜道怪(やどうのかい)がキセルを燻らせている。


僧衣は濡れたように重く、足元には擦り切れた錫杖。


「……取引までは、まだ間があるのぉ……

 どれ、鮮度の落ちぬうちに味わうのも一興か……」


呟き、キセルの火を火鉢の縁でカツンと叩き落とす。


そのとき、宿の戸が叩かれ、静かに開いた。


「伏見町奉行所 異品改方 与力、浦部や。

 その方、夜道会の御一味とお見受けする。」


浦部が一歩、踏み込む。

同心たちは続き、間合いを取り、部屋を囲んだ。


「お手前が提げている、その袋――中身を改めさせてもらおうか。

 二心なければ……やぶさかではあるまいな。」


夜道怪が、ゆっくりと立ち上がる。

笑みのない顔。だが口元は、ぬるりと緩んだ。


「この“逸品”は、施行の道中にて拾いしもの。

 ……さて、拙僧の徳、疑われ申すか?」


浦部は目を細め、袋の中から漏れる微かなすすり泣きを聞きとめ、

静かに口を開いた。


「どの口が、今さら徳を語る。

 ……袋に詰めて持ち歩くもんやないやろが!」


部屋の空気が揺らぐ。

夜道怪の袖が広がり、妖気がすうっと立ち昇る。


同心のひとりが足を引いた。

背を向けたい衝動と、任の重さのはざまで、足が震える。


浦部は霊符を握りしめ、声を張った。


「聖崩れの外道が……

 幼子を“逸品”と呼んで嗤うような輩、絶対、野放しにはできん!」


夜道怪が牙のような笑みを見せ、袋を振りかざしたその時——


「浦部、下がれッ!」


天井を突き破るように、鉄塊のうねりが走った。

鬼蔵が飛び入り、金砕棒を渾身の力で振るう。


「ぉらああああッ!」


夜道怪の頭に炸裂する一撃。

火花のように霊気が散り、化けの皮がぺたりと剥がれて、倒れ伏した。


静寂が戻る。

同心のひとりが膝をつき、浦部が肩で息をする。


鬼蔵は金砕棒を地に突き、言った。


「ようやったな。おまえの嗅覚、よう冴えとる。」


浦部は息を整え、目を細めて笑った。


「……お骨折り、痛み入ります、神波様。」


「なんや、くすぐったいこと言いよる。ほれ、はようしょっぴけ。」


一同の目に、安堵が戻る。


浦部は静かに一礼し、「あい。」と応じた。




四. 還る子


翌日、逢魔が時。

神前の白石の上に、救い出された子供がそっと横たえられていた。


肉体と魂の“縁”は、かろうじて残っている。

だが、それが今や、たった一筋の糸にすぎぬことは、

誰の目にも明らかだった。


浦部は跪き、掌を合わせる。

「……この子、無事に帰れたらええけどな……」


鬼蔵が、隣で小さく呟く。

「……魂離れて二十四刻。身体はもう……」


結界の中で、神職の儀が始まる。

子供の姿が、淡く光に包まれ、やがて風のように消えていった。


祈る声だけが、春の霧のなかに残された。

浦部は立ち上がり、空を仰いで言う。


「……仏さん、どうか……」


静かに、風が吹いた。あの子の帰る方角から。



——了



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