第3話

 ――世界にいつの間にか、雪が降らなくなった。

 朝、目が覚めた少年は、玄関から外に出て、小さく息を吐いた。

 明るく輝く、いつもの景色。しかし空から注ぐのは、暖かな陽光だけ。

 彼の求めている銀白色の粉は、全く降る気配を見せない。

 「…また、空を見てるの」

 「…ああ…」

 小太りな猫を抱えて家から出てきた少女が、彼の隣に立って言った。

 「雪が降らなくなってから、もう大分経つね…。なんか変な感じ」

 「幼い頃から、ずっと雪と一緒に育ってきたもんな、俺ら」

 少年の横顔に、何とも言えないやるせなさが垣間見える。

 「…でも、雪が完全になくなったわけじゃないじゃない。ほら」

 そう言って、少女は地面にしゃがみ込むと、手で雪を軽く掬って少年に見せた。

 「確かに、雪がなくなったわけじゃないけど…。でも、この雪は積もりっぱなしになってるだけだろ。いつまでも雪が降らなかったら、いつかなくなっちゃうんじゃないか?」

 「さぁ、それはどうだろうね。確かに私も、昔は雪は溶けて消えちゃうものだと思ってたけど…。現に、私達の前から、雪は消えてないわけだしね」

 「…それもそう…か」

 2人の視界に広がっているのは、淡い光に包まれた雪景色だ。

 空から降ってこそいないものの、地面に積もっている雪は十分な量があり、しっかりと存在感を放っている。

 「…2人とも、また雪を見ていたの」

 「あ、母さん」

 「朝ごはん、冷めちゃうわよ。早く食べたら?」

 「あ…。そ、そうだね。お兄ちゃん、早く行こう」

 「…ああ、分かった」

 少女が少年の手を引き、2人は室内へと入っていった。


 リビングのテーブルの上には、いつもと変わらぬ食べ物が並べられていた。

 バターの塗られたパン。じゃがいものスープ。ちょこんと添えられたサラダと果物。

 「…なんか、この食事内容も、大分飽きてきちゃったな…」

 「こら、そういうことを言わないで。食物は有限なのよ、一食一食大切に頂かないと」

 「って言っても…。もうここ何年同じものを食べ続けてきたのか分からないし」

 少年の不服そうな言葉に、スープをスプーンでかき混ぜていた男性が口を開いた。

 「…気持ちは分かるけどな。お前ももう分かるだろ?ここらは食料が少なくて、あまり品数を増やせないんだ。これ以上は家計的にも無理がある」

 「だったら、買い物に行けばいいだろ。あるいは狩りをするとか」

 「…それは確かに。お肉とかを食べるには狩りもしなきゃいけないけど、そういえば、お父さん達がそういうことやってるの、見たことない…」

 2人の言葉に、男性は少しの間黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開くと、こう言った。

 「…確かに、君達には僕のそういう姿を見せたことはなかったね。でも、狩りや買い物をする必要はないんだよ」

 「どういうこと?」

 「この家には、かなりの量の食料が備蓄されてる。だから、わざわざ狩りに出たりする必要がないんだ」

 「それじゃあ、さっき言ってたことと矛盾してるじゃないか」

 「確かにな。だが、料理をする上で、品数を増やせないのは事実だよ。食材の量は多くても、種類は少ないんだ。…だから、おかわりをしたいなら、ある程度用意することはできるよ」

 そう言って男性は、すでに空になっている少年のスープの皿を指し示した。

 「…別にいいよ。そんなに食料を無駄遣いできないっていうのは分かってるし」

 「そうか、分かってるなら何よりだ」

 心底安心した顔をして、男性が食事を再開する。

「貴方達は、長年家の周りを散歩したりしてきてたでしょ。私は、あまり外に出ないから分からないけど…。何か、外で別の食料を手に入れるための方法を知ってるんじゃないの?」

 女性の言葉に、少女がゆるゆると首を振った。

 「…残念だけど、私達も知らない。散歩してたって言ってもそんな遠くに行ってたわけじゃないし、そもそも遠くになんて…ーー」

 「……」

 …いつの間にか、少女のことを、少年が鋭く睨んでいた。

 「…?どうしたの?」

 「あ…。な、何でもないよ、お母さん」

 少女が自身の失言に気づき、慌ててその場を取り繕おうとする。

 「それにしても、やっぱり知らないのね…。まぁ、当然といえば当然なんだけど」

 「僕が知らないことを彼らが知っていたら驚きだね。子供の探究心は侮れないから、もしかしたら、僕の知らない情報を彼らが持っているかもしれないけど…ね」

 男性が意味ありげに少年の方を見る。

 「…くだらないな。父さん達が見つけてないなら、きっと近くにはないんだろ。俺達が外に行ってたのは、中で遊ぶのに飽きたからだ。別に何かをしてたわけじゃない」

 「まぁ、ずっと室内で遊んでるのもつまらないわよね…。何か新しいおもちゃでも買ってあげられたらいいんだけど」

 「もう子供じゃないんだから、おもちゃなんていらないって」

 「でもお兄ちゃん、いつも暇な時、“何か遊び道具ないかな〜“って言って…」

 「お前はいつも一言多いんだよ!ったく…」

 頬を赤らめて顔を逸らす少年に、女性が微笑みかける。たまに彼が見せる照れ顔は、幼い頃から全く変わっていない。

 「今日もよく晴れてるしね。また、2人で散歩に行ってきたら?私達は、家の中で待ってるから」

 「…うん、そうだね。そうさせてもらうよ」

 頷いた少女が、少年にそっと目配せをした。少年が俯き気味に頷く。

 「ご馳走様。この食器、洗って置いておけばいい?」

 「ええ、ありがとう。そうしてくれると助かるわ」 

 そう言って、女性は少女に優しく微笑みかけた。  

 少女の気遣いを、ありがたく思っているのだろう。

 「お兄ちゃんも手伝ってくれる?」

 「…ああ、分かった」

 少女の言葉に、少年は大して嫌がることなく承諾した。シンクの前に2人が立ち、手際良く食器洗いを始める。

 そんな2人の足元に、1匹の猫が近づいていった。

 2人に擦り寄るようにして、足元から2人の作業を眺めている。

 「…こーら、邪魔しないの」

 女性が優しく猫を抱え上げ、その額にそっと唇を当てた。

 「…本当に、あの2人が大好きなのね」

 「それは、我々も同じだろう?」

 女性の言葉に、男性が微笑みながら返した。

 「…頼もしくなったわね、2人とも」

 「ああ、そうだね。でも、2人は大人になったわけじゃない。僕達にとっては、いつまで経っても、可愛い子供のままだ。…そうだろう?」

 「…ええ、そうね」

 2人の子供を、2人の大人が優しく見つめる。

 その視線は、彼らにいつまでも幸せでいてほしいという、慈愛に満ちたものだった。


 「…ねぇ、お兄ちゃん」

 「…何」

 「…どうしてここのこと、お母さん達に言わないの」

 片付けを終えた2人は、いつものように、2人の“秘密基地“に足を運んでいた。

 「どうしてって…。今更言いづらいだろ。1度隠し通すって決めたんだから、最後までそれで通すさ」

 「でも…。もう私達は子供じゃない。お母さん達だって、私達が毎日ここに通ってること、いい加減気付いてるんじゃ…」

 「確かに、俺達が隠し事をしてるのは気付いてるだろうね。でも、ここの場所までは知らないはずだよ。2人が俺たちについてきてた様子はないし、そもそも話題に上がったことすらないんだから」

 「それは…そうだけど…」

 少年の頑なな態度を、少女は理解することが出来なかった。所詮は、幼い日の約束。禁止されていたことをやったわけではないのだから、素直に話せばいいのに、と。

 しかし、少年の表情は険しかった。

 「ねぇ、お兄ちゃん。…どうしてお兄ちゃんは、そんなにお母さん達に話すことを、避けようとするの」

 「……」

 「私達が、約束したから?ここのことを、絶対に誰にも話さないって」

 「……」

 「確かに、あれは大事な約束だけど…。でも、あの頃は、私達もまだ小さくて、ここのことーー全然理解してなかったんだと思う。でも、お母さん達に隠さなきゃいけない理由なんて…――」

 「…じゃあ、今だったら、ここのこと、理解してるって言えるのか?」

 「え…?」

 少女の問いかけに、少年は酷く冷たい顔で問いを返した。

 「確かに、あの頃はまだ俺達も小さかった。今以上に無知だった。…だけど、今は本当に違うのか?今の俺達は、ここのことを――この世界のことを、本当に理解できてるのか?」

 「そ、それは…」

 「少なくとも、俺は理解できてない。あの頃と、何も変わっちゃいない。…今も、この壁に触れて、それ以上のことは、何もできない」

 少年が、定位置で手を伸ばした。

 トン――という音が、感触となって少年の手に伝わる。

 「この壁の向こうに何があるのか…俺は知らない。いつも、真っ白な景色が、ここにはあるだけだからな」

 「…壁の穴は、結局見つけられなかったの」

 「まだ見つけてない。…多分、穴なんて存在しないんだと思う。かなりこの辺は歩き回ったけど、本当に、ただ透明な壁があるだけだったから」 

 「そう、なんだ…」

 少年の言い分に、少女は何も返すことが出来ない。

 それは、少女が少年以上に無知だったと自覚させられてしまったからこその沈黙だった。

 「…お兄ちゃんは、この壁の存在を疑問に思って…ちゃんと、調べたりしてたんだね」

 「別に大したことはしてないさ。穴があるか探してただけだし…後は、昔お前が読んでた本を漁ってみたりもしたけど、手がかりになりそうなものは見当たらなかった。そもそも、俺達が持ってた本って、絵本とか童話ばかりだしな」

 「架空の話ばかりだから参考にならない、ってこと?」

 「そういうわけじゃないけど…。そもそもあの本には、“いつまでも雪が降り続ける世界“の話なんて、どこにも載っていなかった」

 「え…」

 少女が絶句する。

 「ちょ…ちょっと待って。じゃあお兄ちゃんは、この世界が…その、普通じゃないって言いたいの?」

 「まだ仮説だ、とりあえず落ち着け。…俺は、小さい頃お前が読んでた本を色々読み返してみた。大半は童話だったな、『フランダースの犬』とか『シンデレラ』とか。後は、図鑑もいくつかあった」

 「『星座図鑑』とか…?」

 「そう、そんな感じのやつがいくつか。父さんが、昔よく読んでたやつだ。…ただ、どれも俺達の生活とはかけ離れていた。この世界に王子様の住んでいる城なんて存在しないし、そもそも俺達は本物の犬を見たことがない」

 「た、確かに…。でも、私達の家には、猫がいるよね?」

 「ああ。だから、犬もどこかにいるんじゃないかと思って探してたけど…。今まで会ったことがないんだから、そういうことなんだろ」

 「そんな…」

 少年の言葉は突飛なもののように感じられたが、どれも事実だった。そのことが、少女にとってはより一層奇妙に感じられた。

 「俺は、この世界はーー本の中に存在するような世界とは、別のものなんだって思ってる。理由とか原理とか、そういうのは良く分からないけど…それでも、実際ここはそういう世界なんだから、他に言いようがない」

 「…じゃあ、私達は、一体何なんだろうね」

 「え?」

 「この世界が、本の中の世界とは全然違う、完全な別世界だったとして…。だとしたら私達は、一体どうしてこんな、何にもない所にいるんだろうね」

 「それは…」

 「この世界は…“偽物“、なのかな」

 「!違う、俺が言いたかったのはそういうことじゃっ…!」

 「違くないよ!お兄ちゃんが言ってたことは…結局、そういうことでしょ。この世界は、本の中の世界とは違う。“普通“じゃないんだよ」

 「それは…。でも、だからと言って、この世界が“偽物“だって決めつけるのは早いだろ。そんな根拠、どこにもないんだぜ」

 「お兄ちゃん、自分で何言ってるか分かってる?…この世界が“本物“だっていう根拠も、どこにもないんだよ」

 「…!」

 ーー今度は、少年が絶句する番だった。

 少年の言葉足らずの説明を、少女はあっさりと、自分なりに噛み砕いて解釈していた。

 「この世界はどこかおかしい。それが何なのか、私には分からない。…多分、誰にも分からないんだと思う」

 「……」

 「この世界には、私と、お兄ちゃんと、お母さんとお父さんしか、いないんだと思う。他の人に会ったことがあるわけでもないし、そういう話がお母さん達の口から出たこともないし」

 「…ああ」

 「この世界には、私達の家があって、ずっと溶けることのない雪があって、空からは光が降り注いでいて…。でも、それ以外に何もない。時間が経てば自然と暗くなって、家の灯りが消えて、強制的に私達は眠らなきゃいけなくなる。そして、次の日になれば、また明るい太陽の光が降り注いでいる…。ーーまぁもしかしたらあの光も、そもそも太陽じゃないのかもしれないけどね」

 「……」

 「私達は…何のために、この世界で、生きてるんだろうね」

 「…っ!それは!」

 少年が、勢い良く少女の方へ向き直り、彼女の華奢な肩を掴んだ。

 ーー少女の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。

 「…っ、俺だって、分からないさ。そんなこと…」

 「お兄ちゃん…」

 「でも、俺達は、この世界で生きてる。父さんや母さん…お前と4人で、ずっとずっと、一緒に過ごしてきただろ」

 「……」

 「そうやって、一緒に生きることに…理由が、必要なのか?」

 「……っ…」

 少女が俯く。

 少年は、少女の肩を掴んでいた手をゆっくりと下ろすと、静かに語り始めた。

 「…俺も、お前と同じで、この世界でどうして自分達が生きているのか、そういう疑問に至った。この世界が本物なのか、それとも本の中の世界が本物なのかーーいや、そもそも、世界に“本物“や“偽物“なんて定義が出来るのかって、真剣に考えたよ」

 「……」

 「考えて考えて…でも、結局、何1つ分からなかった。確か家に、“神話“っていう種類の本がいくつかあっただろ?あれに出てくる、神様?っていうのは、この世界の仕組みとか作り方とか、そういうの知ってるっぽかったけど。でも、俺達は神様ではないみたいだしさ」

 「お兄ちゃん…」

 「俺が、母さんや父さんにこの話をしたくなかったのは、ただ単純に…怖かったからだ。あの2人は、このことを知っているんだろうか。もし、知っていたとしたらーー俺達は、自分達の知らない“現実“を受け止めなきゃいけなくなる。逆に知らなくても、それはそれで…こんなこと知っても、何の得にもならないだろ」

 「……」

 「だから俺はーー考えるのを、やめることにしたんだ」

 「……え?」

 少年の視線が、顔を上げた少女の瞳を射抜く。

 「本当は、ちゃんと考えて、向き合わなきゃいけない問題なのかもしれない。自分達の正体も分からないまま生活していくなんて、なんか釈然としないし。…でも、俺はこのままでも、いいと思ってるんだ」

 「このまま…って?」 

 「家に、父さんと母さんと、可愛がってきた愛猫と…お前がいる。俺達にとっては、それが当たり前で、それが幸せの形なんだ。だから…俺達が、大した理由もなく、神様の気まぐれで生み出された存在だったのだとしても、俺はそれを受け入れるよ」

 「お兄ちゃん…」

 「なんだかんだ、理由のつけられないことっていっぱいあると思うんだよな。ほら、俺とお前が兄妹で、ちゃんと家族として想いあってるってことに、いちいち理由なんてつけられないだろ?」

 「…私は別に、お兄ちゃんを想ったりしてないけど」

 「え…」

 途端に顔面蒼白になった少年を見つめ、少女がクスリと笑う。

 「ごめん、今のは流石に冗談」

 「お、おい、びっくりしたじゃんか…。この状況で冗談言うか?普通」

 「ごめんね。お兄ちゃんが柄にもなく真面目な話するから、調子狂っちゃって」

 微笑む少女に対し、少年は照れ臭そうに視線を逸らすと、小さく呟いた。

 「…とにかく、俺が言いたかったのは…俺達はまだまだ無知だけど、そんなに不安がる必要はないんじゃないかっていう…あー、まぁ、そんな感じのことだ」

 「…そっか。私が、ちょっと焦っちゃってただけだったのかな」

 「そんなことないさ。俺の言い方も悪かったしな」

 「ううん、そんなことない。お兄ちゃんは、私が誤解しないように、一生懸命説明してくれた。…ちゃんと、伝わったよ」

 そう言って、少女は少年の手を優しく包み込んだ。

 「ちょっ…!」

 「…やっぱりお兄ちゃんは、いつも私のこと、守ろうとしてくれるんだね」

 「え?」

 「ううん、何でもない。…え?」

 ーー少女の視線の先。

 壁の向こう側の景色が、突如、激しく移り変わった。

 「!?な、何だ!?」

 「わ、分かんない。一体何が…」

 突如、2人の体に、得体の知れない力が加わった。

 まるで、世界が傾くような感覚。地面に積もっていた雪が、フワッと宙に舞う。

 「な、何で急に雪が…」

 「!お兄ちゃん、掴んで!」

 「え――」

 少女が少年に腕を精一杯伸ばしたのと同時に、ガシャン!!という音が辺りに響いた。

 世界が弾ける。空中に、大量の粉雪が舞っている。

 乱舞する光。音。交錯する景色。

 「お兄ちゃん――」

 「―――」

 体勢を崩した2人が、そのまま壁に体を打ち付ける――

 「え――」

 少年が、目を見開く。

 訪れるはずの痛みがない。

 瞳に映っているはずの少女が、真っ白い雪で徐々に掻き消されていく。

 あれ――俺、今、壁の向こうに――

 

 眩い光。直後、爆音と衝撃。


 ――彼らの世界は、その一瞬で、消滅した。

 

 

 


 

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