第1話 受け入れる者でしか、始められないことがある

 冷凍庫のように冷たい空気が流れている。


 なにをする気力もなく、ソファーに脱力したまま秒針の鳴る方へ視線を向ける。


 時刻は午後三時三十三分。デスクの上に置かれたカップは、残った液体が乾燥してカビカビになっていた。


 数時間も同じ姿勢で座っていたのに不思議と体は辛くなく、起きあがろうと足腰に力を入れる気力すら湧いてこない。


 玄関が開き、チェーンロックが閉まる音が聞こえてくる。


 オレは近づいていく男の顔を見ることすらできず、愕然とした不安に襲われる。


「——君はやっぱり……」


 呟いたのは村田孝宏だった。


 背後に回った彼はオレの体を押さえつけ、肩に注射器を差し込む。


「ぐぎっ」


 オレは呻き声を漏らしたが、体に注入される液体を阻止する術はない。


「子供に罪はないが……いや、君はもう大人か。でも生まれる先を選べなかったのは変わらない……」


「なにを、してんだ……」


 ぶつぶつ独りごとを呟く村田に、オレは朦朧とする意識の中で歯を苦縛った。


「まだ喋れるんだね。麻酔薬を飲ませて数時間。投与してから今二十秒が経過した。折角だし君の意識が消えるまで質問に答えてあげるよ。訳もわからず幽閉されるのは嫌だろ?」


 目線の先に座った村田は毛虫を嫌悪するような視線を向けていた。


 なんなんだよ。こっちは泣きたい気分だってのに、オレが一体なにをしたんだ。


「——君はクロオオアリとアカアリの違いってわかるか?」


「なんの、話だ……」


「親友の息子にこんなことをするのは心苦しいが、君が恨むべきは親であり、君にも遺伝したであろう母親クローン特有の細胞小器官。その正体がはっきりとしない限り……いや、どちらにせよ。クローンを作った正体がわからない限り、君に人類の世界を歩ませるわけにはいかない」


「親父の話は……嘘だったのか?」


「僕以外のことは全て本当だよ。ごめんね。本当はこんなことしたくなかったんだ。そもそも君が危険地帯を越えて要塞から都市まで来られるとは思ってもみなかった。要塞から出さえしなければこんなことにはならなかった。——でも、君だってなんとなくわかっているだろ。なにかしらの思惑で作られた遺伝子が広まれば、いずれ人類は滅ぶかもしれない。何十世代先の話かもしれないが、今目の前にリスクがあるのなら排除しておくべきだ。違うか」


 オレはもう、麻酔のせいで村田を睨むことすらできなくなっていた。


 親父はどういう気持ちでオレを育てていたのだろう……。


 あのとき、どんな想いで見送っていた。


 口や瞼、指先まで含んだ全てから力が抜け落ち、その反動でズボンのポケットに入れていた親父からの手紙が滑り落ちる。


 直人に見られないよう、ずっと肌身離さず持ち歩いていた。


 村田はそれを拾い上げると、軽く見て鼻で笑う。


「酷い憶測が混じってる。浩也はお前にきちんと自覚して欲しかったんだな」


 そうだ。ヒントはオレに自身のことを客観視のみこみさせるために作ったんだと思う。


 でも、話してくれてもよかったじゃないか……そしたらきっと……。


「安心しろ。君がここに来たことを無駄にするつもりはない。もしかしたら要塞の重要な手がかりを掴めるかもしれない。浩也を助ける手掛かりになるかもしれない」


 村田はまるで自分に言い聞かせるように焦点の合っていない瞳を動かしながら、ガムテープでオレの両手足を縛ろうとする。


 テテッテ、テラテラ! テレレレレレレ! テテッテ、テレテレ!


 突然、オレの端末スマホからsf風の着信音が鳴った。


「……温泉川か」


 着信相手を確認した村田は、机に端末を戻して着信が切れるのを待った。


 しかし、電源が消えてすぐにまたコールが鳴り出した。


「……まさかな」


 村田の表情が険しくなり、焦った様子でオレの服の至る所を探り始める。


「——糞がぁ!」


 胸ポケットから小さなマイクが見つかると、村田は地団駄を強く踏んで叫んだ。


 更に机を蹴り上げて、コールの止まない着信に出る。


「お前、やっぱり知っていたのか! ……あぁ? ふざけるな、なんでそんなこと……!」


 村田は怒鳴ったあと舌打ちをして、渋々スピーカーモードに切り替える。


『悪いね、村田ちゃん。お邪魔しちゃった』


 端末スマホからケタケタと笑う温泉川の声が聞こえてきた。


「死ねよ、婚期逃した筋肉だるまが」


『残念だけど、結婚の目処は立っているよ。浩也と約束したからね』


「いいように使われてるだけだろ」


『それはともかく、あんたの計画はこれで終わり。警察も呼んだし、君は完全に包囲されているってやつだね』


「ちっ……」


『ねぇ、今どんな気持ち? 見下してた後輩に嵌められて、どんな気持ち?』


「うるせぇよ。一回負かしたくらいで燥ぎやがって、捕まえたければさっさと来いや」


『意外と諦めが早いのね』


 村田は大きな溜息をついてソファーに腰を下ろす。


「少しだけ、ほっとしてるんだよ」


『だったら、素直に家に返してあげればよかったじゃん』


「どの面さげてアイツの元に返せって言うんだ」


『臆病者』


「お前には一生わからないよ」


『それってアンタが昔言ってた〝変わる変わらない〟の話?』


「五月蝿い」


『アンタって頭はいい癖に根っこはガキのままだよね』


「黙ってろ」


『人は変わらない。環境次第で取捨選択が変わっているだけに過ぎず、同じ状況になれば人は全く同じことを繰り返す。そういう持論だったよね。そんなんだから狭っちい思考になるんだよ』


「黙れって言ってるだろ! お前だって、昔のあいつに戻ってきて欲しいって思ってただろ!」


『別に駄目とは言ってないよ。でも、もうやり直せないんだよ。失敗は消えないし、当然過去はやり直せない。今更、お前がその子を消しても、得られるのは快感と復讐だけだ。浩也が恋人のいなかった頃に戻るわけじゃない』


「同じ被害者を出さないためにも……必要なことだ」


『本来ならお前はあのチップについて調べるべきだった。でも、自分の失敗で囚われの身となったことで、今度は浩也が死んでしまったらと怖くなった。違うか?』


「じゃあ、どうしろっていうんだよ。どうすればやり直せるんだよ!」


『無理だろ。だがまぁ、お前の持論でいくなら。昔みたいに身だしなみに気を遣っていればいいんじゃないか? 私からすれば、一番変わっちまったのはお前の方だよ』


「なんだよそれ、適当すぎるだろ……」


 村田は諦めたかのように空笑いし、天井を見上げて脱力した。


『世界も、未来も、思い描いていたものとは違うし、所詮諸行無常だからな。過去に固執しても君が立っている場所にはなにも残らないよ』


 わざわざスピーカーにしたのは、オレにも伝えたいことだったからか……。


 こんな状況なのに、また彼女に惚れてしまいそうになる。


 きっと、外の世界は夢と希望で溢れている。


 欲しいものを好きに手に入れられる。


 常日頃から制限されていた場所とは違う。


 そう夢見ていた世界は、理想から懸離れていて……。


 自分がそこに存在することを許していなかった。


 知れば知るほど遠のく理想。知らなきゃ近づくことさえできない憧れ。


 オレはこんな世界をどうすれば受け入れられるのだろう。

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