7-2 二年生・一月(4)

 十八時すぎ。地獄の補習から解放されたあたしは麻路を探して駐輪場に走った。放課後のスケジュールは予測がつかないし、昼休みに落ち合うだけで十分だろうということで、強いて会うことはしないようにしているけど、会えるなら会いたかった。

 運と巡り合わせと星の位置と乱数が良ければ、駐輪場に部活帰りの麻路がいる。学校の敷地でスマホの電源を入れると、謎技術で検知されて没収されるので、こうやってハプニングを期待するしかない。携帯電話もない時代の少女漫画みたいだ。

 駐輪場が見えてきた。その姿を見る前からあたしには匂いでわかる。心臓が揺れる。そこには自転車の荷台に座って本を読む麻路がいた。

「麻路ーっ!」

 麻路は相変わらずのつんと澄ました面立ちを上げて、あたしを見た。銀色の輝く髪と、それと同じ色のキラキラした香り。ああ、補習の疲れが癒やされていく。

「碧子。髪ぐちゃぐちゃね」

 麻路は本をカゴの鞄にしまうと荷台から腰を上げ、あたしの髪を整え始める。髪を通して伝わる麻路の指が心地よくって、あたしは目を細めた。

「なーんか今日はいろいろあって」

「いろいろ」

「そ……あいさせんぱいが補習に遅刻しかけたり」

 そう言うと、麻路の切れ長の目が丸く膨らんだ。

「えっ……大丈夫だったの?」

「うん。保健室で寝ぼけてるの見つけて、ギリギリ送り届けたから」

「そう、良かった……ありがとう、碧子」

 心底から安心したように麻路の表情が和らぐ。あたしは感謝されて嬉しい。嬉しいけど、ちょっと複雑な気持ちになる。麻路が喜んでるのは愛沙先輩が助かったからだ。そのことに、ゼロキロカロリーのジュースを飲んだ時みたいな、物足りなさを感じてしまう。

 もちろん、そんな感情はおくびにも出さず、あたしは笑みを浮かべる。

「どういたしまして。ねえ、今日も試していい?」

「いいけど」

 麻路は言いながら自転車にまたがった。あたしは荷台に手をつく。トラウマ克服ニケツチャレンジだ。チャリ事件を話して以来、あたしは自転車の麻路と落ち合うたびに、過去を乗り越える挑戦をしていた。

 荷台はじんわり温かかった。麻路の体温が残ってるんだ。なんか、お尻を触ってるみたいな気分になって恥ずかしくなってきた。胸は良くてお尻は気まずい。何でだよ。ガチっぽいから? そういう感じのあたしだ。

「今日もダメ?」

 声をかけられてハッとする。いかん、うっかり煩悩の狭間に落ちていた。

「も、もうちょっと待って」

 あたしは後輪を跨ごうと脚を上げようとした。すると、手が支えを求めて荷台に体重をかける。自転車がほんのちょっとだけ傾ぐ。そのちょっとの揺らぎが、あたしには怖い。身体が止まってしまう。

「あー、ダメだ。微動だにしないわ」

「……そう」

 麻路は自転車を降りると転がして歩き始めた。あたしもそれに並んで、バス停までの短い帰路を辿っていく。

 なんでもない穏やかな時間──ふと気づいたことがあって、あたしは口を開いた。

「ねえ、もしかしてあたしのこと待っててくれたの?」

 銀色の髪を揺らして、麻路の顔があたしに向く。

「何でそう思ったの?」

「自転車の後ろ、温かかった。ずっと座ってたんでしょ」

「……五分くらいだけ」

 嘘だ。もっと長い時間待ってる。そんな、あたしとの仲に、そこまでこだわる必要なんかないのに。そうやって徹底しまうところが麻路らしいところだ。

「そっか……寒かったでしょ」

「ううん。寒いの得意だから平気」

「でも、風邪引いたら嫌だし困るし……別に無理して待たなくても良いんだよ」

 あたしも嘘を吐いた。本当は無理をしてでも待ってて欲しい。それくらい麻路がいてくれたことは嬉しかった。だけど、やっぱり体調は心配だし強いるわけにもいかない。

 あたしの言葉に、麻路はじっとあたしの顔を見つめ、やがて見透かすように言った。

「やっぱり、嘘ついてる」

「えっ」

 心臓が飛び出るほど驚くあたしに、麻路は続ける。

「あなたは自分を優しくないって言ってたけど、私は優しい人だと思う」

 そ、そっちか──。

 あたしはほっとするやら、歓喜するやら、憮然とするやら、色んな感情に包まれる。悪い評価じゃないのは嬉しいけど、あたしは優しい人なんかじゃない。この状況に愉悦を覚えてるだけの、下心ムンムンのアホ女だ。

 今、本当に、麻路の隣にいるべきなのは──愛沙先輩なのに。

「あはは、そんなことないって。このくらいで優しいってさ、麻路ってもしかして、ダメな人に惹かれちゃうタイプ? 愛沙せんぱいもそうだしさ」

 あたしは明るく冗談めかして言った。麻路に、何言ってるの、と呆れ顔をしてほしくて。

「……わからない」

 だけど、麻路はすんと前に向き直って答えた。

 あっ……今、愛沙先輩のことを考えてる、って直感でわかった。

 冷たい風が通り過ぎて、あたしの火照った感情から熱を奪っていく。あとに残ったのは──麻路に優しくないエゴなあたし。思い切って口を開く。

「麻路は今も、愛沙せんぱいのことが好きなの?」

 言葉にしてから、これって負けヒロインの台詞じゃん、と思った。しかも未練たらたらのタイプ。夜に布団の中、枕を抱いて丸まって涙を流してるやつ。仮にあたしの人生のプロデューサーがいたら「えー、兎褄碧子はそんなことしちゃダメですよ~」とか言いそう。でも、麻路の答え如何によってはしちゃうかも。あらかじめ、すまん。

 そんな風に身構えたあたしに、麻路は短く答える。

「……うん、好き、だと思う」

 急激に世界が遠のいていく。じわ、と心が苦しくなる。

 こんなの、ますますエゴくなくちゃやってられない。あたしはすかさず言った。

「でも、どうするの? せんぱい、女は恋愛対象じゃないし……もう、彼氏いるし」

 麻路の足がぴたりと止まった。あたしも遅れて立ち止まって、振り返る。

 悲しげに俯いて、麻路は言った。

「うん。だから、私は……どうしたらいいか、わからない」

 あのいつもクールな麻路が強い感情を浮かべてる。その姿にあたしまで悲しくなる。

 酷い人だな、愛沙先輩は。やる気がないくせに、全部全部、人の欲しいものを持ってっちゃう。魔性のクリオネ。まあ、そういう体質だからこそ、逆にやる気が出ないのかもだけど。

 あたしは麻路に歩み寄ると、下を向いた顔にかかる銀色の髪をすくいながら言った。

「ごめん、冷たいこと言って。麻路の気持ちはわかるつもりだけど、あたしはずっとそうやって思ってる。いつまでこんなことするんだろう、どうやって折り合いをつけるんだろうって。だから、あたしは全然優しくない。むしろ、麻路と付き合うなんて酷いことしてる」

「……全然酷くない。あなたの言ってることが正しい。私が間違ってる」

「ううん。あたしは正しくも間違ってもない。ただの傍観者だもん。外野からやんややんや言ってるだけ。ラルヴァの連中みたいにね」

「あなたはあんな幽霊たちと違う」

「……そう言ってくれる麻路の方が優しいよ」

「違う、私なんか……こんな、私なんか……」

 ハンドルを握る麻路の手が震え出す。その綺麗な手に血筋が走る。あたしは思わず、その手の甲に自分の手を重ねた。すごく熱かった。その熱っぽさが匂いとなって、あたしに銀色を見せる。Agの沸点……気体になる温度はだいたい二千百六十度。でも、麻路の匂いはきっと、それよりも熱い。火傷しそう。痛くて、苦しくて、愛しい。

 麻路の手はしばらく震えていたけど、やがて、あたしの掌に馴染んでいくように、少しずつ、少しずつ、収まっていく。やがて完全に静止した瞬間、あたしの中で何かが、ふっ、と開けたような感触があった。

 今じゃん。言うの。

 あたし、麻路のことが好き、って。

 熱っぽさが背中を押す。口を開く。

 その時──虹が見えた。

 もちろん、空にじゃない。あたしの視界に、チャリで大コケした日の虹が出ていた。

 怖い。あたし、今、ものすごく怖い。この気持ちを伝えたら最後、麻路の気持ちがあたしから決定的に外れてしまう。変わってしまう。どこかに行ってしまう。そうして、あたしの心はズタズタに切り裂かれ、耐えがたいほどの傷を生んでしまう。あの銀色の輝きが消えて、灰色になってしまう。そんな強烈な不安の兆しが、虹と、灰色の匂いと共にあたしを衝いた。

「……や、やめよっか、この話」

 結局、あたしが口にしたのはそんなことだった。

「今、話すことじゃなかったよね。せんぱいの卒業が確定するまであと二週間くらいだし……それから考えても遅くはないっていうかさ」

「……ごめんなさい」

「いや、悪いのはあたし。変なこと言ってごめん。でも、麻路が心配しないでも、あたしはちゃんと最後まで付き合うから。突然見捨てたりしないから。そこは信じて」

「わかった……信じてるから、碧子」

 気がつけば、間近まで近づいていた麻路の顔が、あたしをしっかりと見据えて言った。キスできちゃいそうな距離だった。でも、まだ──その時じゃない。

「うん、あいつらのこと……守り抜こう」

 あたしはそう言って手を離した。通っていた熱が名残惜しそうにふわりと待って、消えていく。そうして、あたしたちはまた歩き出した。


 その日の晩、やっぱりあたしは猛烈な後悔と哀しみに襲われた。寝床、毛布にくるまって、とにかく悲しくて悲しくて泣く。帰り道、あたしの手の下で、麻路の手の震えが止まった場面が繰り返し繰り返し、瞼に浮かんでくる。どうせあと二週間で終わるものなら、どうなっても良いから言えば良かったんだ。どうして言わなかったんだ。あたしのバカ、弱虫、意気地無し、変態、アホ……。

「えっ、アオ、どうしたの」

 ベチャチャの顔面でトイレに行ったら、戻る途中で藍子に見つかった。

 どうしたのって……あたしは、どうしたんだ? その問いに返すシンプルな答えが見つかった時、あたしは心の底から絶望する。とにかく藍子に抱きついて、そのおっぱいに逃げ込むことしかできなかった。

「お姉ちゃん……あたし、失恋した……」

 藍子はあたしの行動に戸惑いつつも、頭を撫でながら優しく慰めてくれる。

「……そっか。辛いね。悔しいね。でも……全然大丈夫だから。人生まだまだこれからなんだから……アオなら、大丈夫だから……」

 確かに、あたしはまだ十七で、まだまだこの先があってしまう。それに比べたら、麻路と付き合えるこの一ヶ月なんて木っ端みたいなもので──いつか、時間の積み重ねに流されていってしまうんだと思った。あたしの中でも、麻路の中でも。

 藍子のぬるい体温に包まれながら、あたしはもう、麻路にこの気持ちを伝える機会をなくしたんだと、少しずつ理解していった。

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