7-1 二年生・一月(4)
一月、あたしと麻路が付き合い始めたと学校中に知れ渡って、一週間が経った。
付き合ってるといっても一日の中で、あたしが麻路と確実に落ち合うのは昼休みだけ。お互い通学形態が違うし、放課後は麻路が部活とか習い事、あたしは補習で忙しい。そもそも会う必要性も薄かった。
とはいえ関係性が変わったばかりの、週一補習時代よりはずっと良い。嫌いな勉強に付き合ってもらうより、一緒にご飯を食べる方が嬉しい。毎日、購買ダービーで一着を取ってまで、話題になりそうな惣菜どもを買うモチベーションになる。
まあ、そんな風に楽しんでるのはあたしだけ、という切なさはトイレットペーパーくらいうっすらと、常に脳裏にあった。麻路は相変わらず愛沙先輩のことを想ってるはずで、あたしはふたりの関係に首を突っ込んできた謎のヤツ以上の何かではない。でも、それでいい。あたしはこの一瞬、麻路の隣にいられた記憶を「青春」ってパッケージングして、今後生きていくことになっても全然構わないと思ってる。
「……碧子、どうかした」
ふと、呼びかけられて隣を見ると、麻路の視線とぶつかる。膝元には空っぽのお弁当箱。あれ。あたしなんてまだ最初のパンの半分も食べきってないのに。
「あー、なんか、そんなに好みじゃないっていうか……」
「ふうん」
麻路はぐい、と首を伸ばすと、あたしの持ってるパンにパクついた。小さい口で小さな欠片を囓り取り、もぐもぐと咀嚼して、破滅的な顔を見せる。
「……なにこれ。ぐにゅぐにゅしてる……」
「へこたれチーズ明太フランスパン」
「まずい。これフランスパンじゃないでしょ。三日おいたコッペパンじゃない」
「だから『へこたれ』なんだよ。まあ、でも、これで麻路の食べかけになったから、あたしはいくらでも食べれる」
「……気色悪い」
「えー、麻路の方から食べてきたんじゃん」
「……まあね」
麻路は恥ずかしそうに目を逸らす。その仕草がツボすぎて、あたしは残ったへこたれチーズ明太三日おいたコッペパンを、吸い込むように食べきった。
こんな調子で麻路も積極的に絡んでくれる段階になった。あたしたちの仲は順調に深まってるわけだけど、しっかり見てる? 校舎の中から、中庭のあたしたちを観測するラルヴァ住民さん方。どうか幸せそうなあたしたちのことをその目に焼き付けていってね。
あたしと麻路についてはそんな感じで、ラルヴァも
とはいえ、きっとみんなあれこれ思っているはずで、ラルヴァには有象無象がたくさん投稿されているはずだった。今日だったらきっと、麻路があたしのへこたれフランスパンを奪ったことへのご意見ご感想とか。
ただ、あたしはそれをいちいち確認しにいくことをやめていた。見られること自体は相変わらず面白かったけど、それ以上にあたしは麻路との時間を大切にするべきだと気づいたからだ。あたしの快楽はラルヴァじゃなくて、麻路の眼差しにある。
その日もあたしは補習に向かった。麻路のスペシャル補習はわかりやすくて最高だったけど、いかんせん開講がド不定期且つ頻度が低すぎて全然間に合わず、補習通いは相変わらずだ。まあ、あたしにとってはもはや日常、今の時期オリオン座が見えるくらい普通のことで、もはや部活みたいな感覚になってる。
二年生の補習対象者は三学期の授業が本格化して、ちらほら増えてきていた。みんな顔見知りなので「よっ」と通り一遍、補習メイツたちに挨拶をしていく。どいつもこいつもダルそうな顔をしているけど、内心、あたしに何かしら一家言持ってるんだろうな。どうでもいいけど。
あたしは三年生の補習室へと足を向けた。大学入試の共通テストがちょうど終わったばかり、愛沙先輩も受けてきたはずなのでどんなものか興味があった。やる気がない以外は能力がある人なので、どっか共通テスト枠を取れるくらいの点数は取れてるはず。
なんて人ごとなのにわくわくしながら、あたしはガラッと扉を開けた。
「あいさせんぱーい──って、あれ」
けど、そこはもぬけの殻、誰もいなかった。部屋間違えた? いや、学年が変わったばかりならまだしも、変わる直前だよ? キョロキョロして場所が合ってることを確認、そして、もう一度、中を見る。誰もいない。
「……えーっ!」
すーっ、と背筋が冷たくなった。
嘘だ、なんで、愛沙先輩、もうひとつも補習外せないはずだったのに! 卒業までの最小労力チャートはどうなってんの! 留年しちゃうよ!
探さなきゃ。あたしはダッシュする。でもどこへ? ひとまずフロアの奥、初めて愛沙先輩と麻路の関係を知ったあの密会部屋へ向かう。戸を開こうとしてガン、と引っかかった。鍵がかかってる。くそ、あたしはなんでここにいる気がした? ここはもう、使えなくなったって知ってたはずなのに。パニくってんのか?
落ち着け。深呼吸、深呼吸。口から息を吐き出して……と、その時に気がついた。
──あっ、そうだ、あたしにはこの鼻があるじゃん。
あたしは愛沙先輩の榛色の爽やかな色合いを思い出しながら、鼻から息を吸い込んだ。建物に染みついた色んな匂いが、思い思いの色となってあたしの視界に飛び込んでくる……その中に、あたしは目的の色を見つけ出した。
いや、わかるんかい。
ちょっと自分に引いた。ちょっとしたギャグのつもりだったのに、あたしは人間じゃないのかも知れない。将来警察犬になった方がいい? でも、同僚のドーベルくんにいじめられそう──なんて自分の思わぬ特技にドギマギしつつ、愛沙先輩の匂いを追った。階段を二段飛ばしで降りていくうちに、あたしは愛沙先輩がどこにいるのか察する。保健室だ。よく考えればそれは自然なことだった。あたしの脳みそは鼻にあるのかも知れない。幸い、保健室は同じ棟の一階にあった。
「せんぱーい!」
あたしはいつものノリで立ち入って、それからちょっと決まりが悪くなった。保健室は消毒液の淡い水色の匂いに満ちていて、加湿器がシュンシュンと静かに稼働している。そんな静謐な空間にあたしの声は場違いに響いた。養護の先生がいなくてマジで良かった。
視線を巡らせると、ベッドのひとつで、こんもりとした白い塊がもぞもぞするのが見えた。あたしはそれに駆け寄る。果たして、そこに愛沙先輩が苦渋に満ちた表情で眠っていた。
「せんぱい起きて、補習始まっちゃう」
「んぁああ……マークシートが一マスズレ続けて……」
ああ、悪夢にうなされてる。土日の試験で消耗した体力が戻らなくて、起きることができなかったっぽい。
「せんぱい! はやく! 行こう!」
あたしは大人気マンガの船長みたいに言って、愛沙先輩を立たせた。フラッフラで今にも倒れそうだった。あたしはその頼りない手を引いて補習室へと引き返す。
「アオちゃん、どうしよう、大学受からなかったら……」
階段をとぼとぼ昇りながら愛沙先輩は心細そうに言ってくる。
「自己採点したんですよね?」
「うん……九割取れてた……」
「じゃあ全然々々平気! なんなら来年のあたしに一割分けてください!」
「でも、マークずれてたら……名前書いてなかったら……書類提出できてなかったら……」
そしてどんどん鈍っていく足。うわー、不安性~! 愛沙先輩はストレス耐性が確かになさそうだけど、ここまで目に見えて弱体化するなんて思わなかった。
「もう! ここで補習サボって欠席ついたら留年っすよ! せっかく試験受けたのに元も子もないっすよ! 今までの努力が全部無駄になる! だからはやく階段上って!」
「うっ……そっか。でも、補習面倒くさいよぉ……」
「その感想が今出るのはおかしいよぉ!」
赤ちゃんみたいになってて埒が明かなさそうなので、仕方なくあたしがおんぶして階段を駆け上がることにした。
最初の十三段は案外余裕だったけど、その次からどっと疲れが来た。キツい! 大丈夫か? ふくらはぎが悲鳴をあげる。でも、ここで頑張らなきゃ、この人、留年する! 何故か、先輩の命運があたしの双肩にかかってる! 頑張れあたし! 誰かに見られても、多分誰をおぶってるかわからないから、ラルヴァのことは心配しなくて平気そうだぞ!
「ラストォ!」
あたしは身体中のエネルギーを振り絞り、最後の一段を上りきった。
と、視界に国語教師、丹堂センの背中が見える。ヤバい。今日は丹堂センが三年生担当だから、あの人が部屋に立ち入った瞬間に遅刻が確定、遅刻は出席の半分の価値しかないので、愛沙先輩の最低労力卒業チャートが崩壊する──。
あたしは愛沙先輩を背中から下ろして立たせると、手を取って走りながら叫んだ。
「丹堂センセーッ!」
思ったよりも鬼気迫った声になったので、ぎょっとしたように丹堂センが立ち止まり、振り向く。その脇をあたしは風のように追い越し、愛沙先輩を三年生の補習室に連れ込むと、いつもの席に座らせた。その瞬間、先輩はゼリーみたいにドボっと机に倒れ伏す。
「疲れた……」
先輩、そりゃあたしの台詞、と言う直前に、丹堂センの気配が後ろに立った。
「おっと、これは」
あたしはばっと振り返って両腕をバッと広げる。
「セーフ!」
「ま、まあ、そうだね……」
っぶねー! あたしは安堵して手頃な席に座り込む。こんなパワーを出したのはいつぶりだろう。──先週の体育のマラソンの時ぶりか。
「ちょっとくらいの遅れならオマケするのにな」
丹堂センは人の良さそうな苦笑いを浮かべて教壇に立つ。
「いやいや、丹堂センはそうかも知れないけど、堀川とか郷元ちゃんはわからないじゃん」
「そうかな。西泉の事情は共有されてるし、同じような対応をするんじゃないかな。もう少し、大人を信用してくれても大丈夫だと思うけどね」
「うーん……」
丹堂センは手段はともかく、生徒のことはよく考えてると思う。じゃなきゃ、残業代も出るわけでもないのに補習を一時間延長までして、あたしが徹底的に理解するまでマンツーマンレッスンなんかしないだろう。そんな人にそう諭されてしまうと、そういうもんか、という気がしてくる。
「ねえ、丹堂センはどうしてあたしたちにそんな親切っていうか、肩入れしてくれんの」
ふと気になって訊いてみた。他の補習担当教師は高圧的なのに、丹堂センだけは寛容だ。丹堂センは「そうだね」と考える素振りを見せ、答えてくれる。
「この学校の生徒が好きだからかな。みんな礼儀正しくて、物静かで、ひたむきだ。補習が必要な生徒たちだって決して悪い子じゃない。少し折り合いが悪いだけ。そう思ってるから、ちゃんと手を差し伸べてあげようって気持ちになるんだ」
なるほど、それだけ聞くとめっちゃ良い先生だ。でも、その「礼儀正しさ」「物静かさ」「ひたむきさ」は、ラルヴァの目を気にして、みんな取り繕ってるだけ──丹堂センはその事実を知っても、同じようなスタンスでいられるんだろうか。
考え込むあたしに、丹堂センはふと、気がついたように言う。
「それで兎褄はいつまでここにいるつもり?」
「あ、やべっ」
ガバっと立ち上がる。もう一仕事終わった気になってたけど、始まりに間に合っただけだ。
「ちゃんと補習受けて追試パスすんだよ」と先輩のほっぺたをペペペペと叩き「そんじゃ!」と丹堂センに挨拶して、あたしは多忙なビジネスマンみたいに飛び出していく。
「すいません、トイレ行ってて遅れました!」
二年の補習室にそんな言い訳と一緒になだれ込んだ。ぶわっと補習メイツたちの視線が集まる。教壇からは──英語教師堀川のオッサン・アイ。
「嘘を吐くな。お前、さっき廊下で大声出して騒いでたよな。丸聞こえだったぞ」
部屋に入ろうとする丹堂センを引き留めた時のことか。あたしはすごい嫌な気持ちになる。
「……あ、あれは人助けしてて」
「そんなのが通るかっ。お前な、ナメてるのか知らないが、結果も出せてないのにそんな態度じゃ社会に出てやっていけないからな。罰の意味も込めて、今回は遅刻じゃなくて欠席にする。追試でどうにかしろよ」
は……じゃあ帰って良い? と喉から出かけてなんとか止めた。「うす」と答えて適当な席に着く。腹の中が魔女の大釜みたいにグツグツと煮えたぎっていた。むかつくむかつくむかつく……ほら見ろ、丹堂セン、堀川は斟酌してくれるようなヤツじゃないよ。普通、こんなこと人前で言うか? 信用できない大人がいるから、子供は大人を信じるのが怖くなっちゃうんだよ。
あたしは机の下、バレないようにラルヴァを開き、新しいトピックを構築する。
──英語の堀川、ラルヴァを見てるらしいよ。兎褄と朝烏のイチャイチャ観測してメシ食ってんの、マジでキモすぎない?
息が荒くなってくる。ここでタップすれば、堀川を嫌ってるやつなんて五億人くらいいるから、同調して、呵責なく言葉の鈍器でボコボコにしてくれるだろう。堀川もそれを目にしてストレスを溜める。脱毛因子が増えてハゲが進行する。ざまあみろだ。
でも、それで?
あたしは麻路の横顔を思い出す。あたしと麻路が守ろうとしているものを思い出す。
結局、投稿しかけた愚痴は綺麗さっぱり削除した。ラルヴァを開いたタブも消す。スマホの画面も消す。考えるのもやめる。
「おい、兎褄、このthatはどこにかかる? 答えてみろ」
あたしは指名される。わかんねー。スマホ見てたから。まあ、見てなくてもわからなかったと思うけど。
あたしは黙って、答えられない恥辱に耐えながら、麻路のことを想う。どうせ同じ「わからない」なら、麻路の気持ちをどうやったらあたしに向けられるのかを考えていたかった。そっちの方が何倍も素敵だし、何倍も苦しい。
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