6-2 二年生・十月

 あたしはわざと足音を立てていくと、死角を作っている棚の後ろを覗き込む。

 窓際に並ぶふたりの女が、あたしの方を振り返っていた。見覚えのある立ち姿。朝烏麻路と愛沙先輩。

 愛沙先輩はあたしを見た瞬間、ほっとしたように胸をなで下ろした。

「うわあ、よかったあ、アオちゃんかあ。先生かと思った」

「せんぱい。それに……えっと、何してるんすか、こんなとこで」

 あたしは朝烏麻路の方をおずおず窺いながら言った。あれ? 飢えたチーターみたいに一目散に襲いかかってくると思ったら、無表情であたしを凝視するだけ。睨んでいるようにも、ぽけっとしているようにも見える。どういう感情?

「ふふ、お話。いいでしょ、ここ。静かだし誰も来ないんだ。わたしのお気に入りスポット」

 愛沙先輩は見たことないくらい上機嫌だった。その様子にあたしも緊張が解けて嬉しくなる。

「確かに、来ようとは思わないすね。で……どういう間柄の?」

 ちらちら朝烏麻路に目を向けながら訊いた。

「あ、麻路ちゃんはね、小学校からの友達なんだ」

 その台詞に朝烏麻路の目付きがちょっと変わった。先輩を見て、それから眼光にビビって身を硬くするあたしを見て、口を開く。

「ふたりの方はどういう関係なの」

 ものすごくフラットな調子だった。あれ? いつもの暗殺者オーラはどこにいった? なんだか、今の朝烏麻路はまるでただの美少女みたいだった。いや、実際そうなんだけど。

「わたしとアオちゃんは補習仲間。よく補習前に話してる」

 これも愛沙先輩が答える。先輩目線ではあたしたちは初対面に映ってるから、自然な振る舞いだった。あたしはこくこくと頷いておく。

「それだけ?」

 何故か、朝烏麻路は深く突っ込んでいく。先輩は困ったように、たはは、と笑った。

「えーっと、アオちゃんにはわたしの事情、話してるよ」

 あたしは「事情、知ってます」というように重々しく頷いてみせる。家のこととか、常備薬のこととか、卒業単位のこととか……すると、朝烏麻路は目を見張って、先輩に詰め寄った。

「な、なんで、私以外の誰かにバラすなんて。しかも、よりによって──」

「安心して、アオちゃんは良い子だから。変に言いふらしたりしない。現に今もラルヴァに取り沙汰されずに過ごせてる。そうでしょ?」

「そ、そんな……それじゃあ、私は……」

 朝烏麻路はボソっと呟き、あたしに動揺の滲む眼差しを向ける。なんかすごい含みがある気がして、ビビったあたしは愛沙先輩を挟むように窓辺に寄った。

「で、でも……幼馴染みがこんな穴場で会うなんて、なんかエモですね」

 あたしから話題を逸らすため、場を和ますようにそう言う。実際、世曜高校はそれなりの立地にあるから、まずまずの夜景が広がっていた。窓の真下もいわゆるただの校舎裏、よくわからない小汚い電気設備かなんかの小屋があるだけで、歩いてる生徒なんか絶無だ。こんな良い密会部屋があるなんて知らなかった。

 あたしの言葉に、へへ、と愛沙先輩は笑みを漏らす。

「わたしの数少ない友達だから。でも、わたしが麻路ちゃんみたいな高嶺の花と話してたら、悪い噂が立っちゃうかもでしょ。だから、こっそり」

「へえ、隠れてまで会うなんて、仲良──」

「私はラルヴァで何て言われようと気にしないのに」

 あたしの言葉を遮って、朝烏麻路が超特急で口を挟んだ。あたしはヒエッと身を竦ませる。

「……わたしは、やっぱり無理かな」

 愛沙先輩は小さな声で返す。それだけで朝烏麻路は一撃で黙った。しおらしく目を伏せる。蚊帳の外なあたしは、ふたりの間に何か、引力みたいなものを感じつつあった。

 なんか……今の朝烏麻路、女の子過ぎない?

 可愛くない? 色気づいてない? 切なくなってない?

 あたしは朝烏麻路の台詞を思い出す。「ふたりの方はどういう関係なの」「なんで、私以外の誰かにバラすなんて」「そ、そんな……それじゃあ、私は……」「私はラルヴァでなんて言われようと気にしないのに」……。

 あっ。

 あたしは静かに察した。

 これ、三角関係じゃね?

 明らかに朝烏麻路から愛沙先輩に矢印伸びてるよね。あたしとの関係めっちゃ勘ぐってるし、めっちゃ圧あるし……で、当の朝烏麻路にはあたしから矢印が伸びてて、あたしは愛沙先輩は仲良くやってて──え、そうなのか、マジかよ。

 でも、幸いというか何というか、愛沙先輩から朝烏麻路への評価は「友達」らしかった。それで安堵するなんて、いかにも性格が悪くて嫌な感じだけど……しょうがない。そんなにあたしはできた人間じゃない。

「兎褄碧子」

「はっ!」

 突然、朝烏麻路に呼びかけられて動転したあたしは、愛沙先輩の頭越しに軍人みたいな返事をしてしまう。

 彼女は窓の外をじっと見据えながら言った。

「あなたのこと、愛沙がそこまで信頼して、事情を伝えているなら私も信用する。あの日のこと、絶対に漏らさないって信じてるから──もう、見張るのはやめる。今までごめんなさい」

「……えっ」

 その瞬間、あたしの足下の地面がガラガラと崩れ去っていくような気がした。

 な、なんで? 秘密を見て殺されようとしたら、むしろ信頼を勝ち取って朝烏麻路があたしから離れていく展開になっちゃった。っていうか、どれだけあんたは愛沙先輩のこと信頼してるのよ。先輩の一言で心変わりしちゃうのもなんか悔しいし、でも、片思いしてる幼馴染ってことならしょうがないし、あたしに構ってるせいで勉強とか色んなパフォーマンス落ちてるならむしろ最初からそうしててくれって感じだし、でもでも、ダメだ、どうしても敗北感が湧いて、辛くなってきてしまう。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう、そんなの嫌だ、嫌だ、いや、いや……。

「わ……わかった」

 それでもあたしはうなずいた。うなずくしかない。監視を続けてください、なんて意味わかんないもん。声が震えてるのが自分でもわかった。

 その震えに寄せられたのか、朝烏麻路の顔がこちらを向く。

 それは今まであたしに向けられていたギラギラした睥睨なんかとは違う、彼女のニュートラルな眼差しだった。その美麗さに、心臓が鷲づかみにされたような衝撃が襲う。

 すきだ──結局、あたしの理性は歯止めが効かなくなった。

「で、でも、その代わりに! あたしに数学教えて!」

「……は?」

「あと、英語も国語も他の科目もなんもかも教えて! あんた、めっちゃ頭良いんでしょ! お願いお願い! マジでほんとになんもわかんなくて、でも、留年はどうしてもしたくないの、助けて!」

「何でそういう話になるの……?」

 朝烏麻路は本気で困惑していた。ただ、間に挟まった愛沙先輩が「名案!」という風に両手をぽんっと合わせる。

「いいねえ、ふたりが仲良くなったら、わたし嬉しいよ」

「な、なんでよ。私が成績落ちたの知ってるでしょ。部活も習い事もあるのに、兎褄碧子のせいで……」

「逆逆、人に教えたら理解も深まって効率いいはずだよ。ね、わたしからもお願い」

 うわあああ……なんて強力な援護射撃。あたしは愛沙先輩を抱きしめたくなった、けど、そんなことしたら朝烏麻路に窓から突き落とされそうな気がして、寸前のところで抑える。首絞められるのはあったかくていいけど、墜落死はあんまり嬉しくない。

「お願いします……朝烏麻路様……」

 あたしは愛沙先輩と一緒に羨望の眼差しを送る。朝烏麻路はコイツ頭大丈夫? みたいな顔でたいそう困惑していたけど、やがて不承不承ながらも首を縦に振ってくれた。

「まあ……時間ある時ならいいけど」

「うわー、やったー!」

 まさかのスーパー逆転劇。朝烏麻路と会う口実を取り付けつつ、勉強も教えてもらえる。なんてあたし得、こんなことあっていいの? 嬉しい、嬉しいよーっ! 尻尾があったら千切れるくらい振ってたかも知れん。

「さっそくなんだけど、さっき郷元ちゃんからもらったレジュメが意味わかんなくて、教えて欲しいんだけど……」

 あたしは勢い込んで鞄からレジュメを取り出し、朝烏麻路にドン引かれた。

「あまりにもさっそく……しかも、対数なんか別に難しくもなんともないでしょ」

「いやいやわかんないよー! テストは全部運で乗り越えてきたあたしの頭脳をなめるなよ!」

「そっちの方がすごい気が……まあいいや。逆にどこまでわかってるの? 言ってみなさい」

 そのまま流れで補習パート2が始まった。こんなに頑張ろうと思える勉強の時間はあたしの人生において初めてだった。朝烏麻路の教え方は辛辣だったけど、要点がスパっと頭に入ってきて、本当にそうかどうかはともかく久々に「わかった!」と口にできた気がする。通信添削のCMみたいなことも実際にあるもんだ。最終的に愛沙先輩まで一緒になって拝聴していた。あなた、上級生でしょうに。

 ──ということで、麻路式補習に大層満足したあたしはリピートを熱望、愛沙先輩の口利きもあってそのまま勉強を教えてもらう仲になった。頻度としては週一程度だったけど、監視役と監視され役時代に比べて、人類が宇宙に飛び出したくらい大きな大きな進展だった。

 ただ、この時のあたしたちはお互いに重大な勘違いをしていることに気がついていない。それが発覚するのはまだ先のことだ。

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