8-1 二年生・十一月(1)
麻路と付き合い始め、そして、そのせいで麻路の心が動かないことを知る未来なんて、全く想像もしていなかった去年の十一月頃、それがあたしの一番幸せだった時期になるのかも知れない。
「英語なんて英単語覚えれば普通にわかるでしょ……」
「それが一番大変なのが何故わからん!」
ある日の放課後、あたしは朝烏麻路のクラスで英語を教えてもらっていた。例の週一補習の時間だ。
わざわざ貴重な時間をもらってるくせにこう言うのもなんだけど、朝烏麻路は英語の教え方が異常に下手っぴだ。簡単過ぎてなにがわからないかわからないらしい。そして、端々で飛び出す英単語の発音も、ネイティブなので聞き取りにくい。林檎はアポー、トマトはトメイト、
「もしかして……ネイティブ?」
あまりにできすぎるのでそんなわけないのに訊いたら、朝烏麻路は微妙な顔をして答えた。
「父がオーストラリア勤務で、中学の時に一年間そっちに滞在してた。その時に習得したの」
「はあ? 何それズルい! あたしが中学の時なんか、犬と猿みたいにお姉ちゃんと喧嘩してただけなのに」
これが家の文化資本の差ってやつか! あたしが何も考えずに抗議すると、朝烏麻路はふっと暗い顔になった。
「ズルい? 突然、親の仕事の都合で行きたくもないのに呼び出されて、現地の学校にムリヤリ通わされて、家では父に将来役に立つからって、起きてから寝るまでみっちり英語のレッスンさせられて、そんな生活がお望みなの?」
うげえ。あたしが朝烏麻路のお父さんの顔を存じないせいで、そこに英語教師堀川が代入されて、毎日あいつに朝から晩までずっと講義され続ける光景を想像してしまい、顔面がバッテン印になってしまった。確かにそれはキツい思い出かも知れない。
ただ、朝烏麻路のペラペライングリッシュを聞いてると、やっぱり憧れみたいなのはどうしても湧いてくる。あたしはペンをくるくる回しながら言った。
「でもさ、わからないのがわからないくらい強い英語力身についたんならいいじゃん。普通の人だったら、わざわざ大金払って行くようなもんだし」
「それは結果論でしょ。あの時の私は本当に嫌だった。飛行機から飛び降りてやろうって本気で計画立ててたくらい。結局、手に入れた資料と実際に乗った飛行機の構造が違くて挫折したけど……だから、ズルいことして英語使えるようになった、みたいな風に言わないで」
すご。仮に予定通りだったら、マジでスパイみたいに飛び降りるつもりだったの? 筋金入りの嫌さじゃん。あたしにはそこまで嫌に思う気持ちが想像つかないけど、もしかしたら、あまり家族仲が良くないのかも知れない。よっぽど苦い汁を飲んだ経験みたいだった。
「そっか……ちゃんと努力したんだよね。ごめん、チート使ったみたいに言っちゃって」
なのでそう謝ると、朝烏麻路は視線を斜め下の方に向けた。
「ううん……私も自分の家が恵まれてるっていうのはわかってる。つい、嫌な言い方した」
「でも、そんな嫌だったのに一年頑張ったの凄いよ。あ、もしかして、日本で待ってる人がたから頑張れた! 的な感じ?」
あたしは愛沙先輩を念頭に置きながら軽口のつもりで言う。朝烏麻路は意表を突かれたように肩をピクっとさせると、わざとらしく呆れたような顔をした。
「な、なんでそうなるの」
図星かよ、とあたしの方が呆れてしまった。
そういう感じで、あたしは朝烏麻路に勉強を教えてもらいつつ、それとなく彼女のことを知っていった。
朝烏麻路。ひとりっ子、家は裕福、父が海外に単身赴任中のエリート鍵っ子。性格は内向的で感情が表に出にくく、人付き合いはそんなに得意じゃない。空手は男子にナメられたくなかったから始めた。弓道部に入ったのは新しいことをしたかったから。勉強は幼少期からできて神童と言われる一方、学校は周りと話が合わなくて嫌いだった。こちらも天才キャラで持て余されていた愛沙先輩とだけは話が合った。中学ではふたりだけが顔を出す新聞部に所属していた。趣味は読書、映画鑑賞。
あたしの印象としては、プライドが高くて不器用、義理堅い、心配性で完璧主義、決めたことを徹底的にやりすぎる。繊細な感受性を持っているけどシャイなので隠しがち。警戒心が強く、いつもむっつりしてるので近寄りがたい。でも、一度気を許しさえすれば普通に接してくれる。とことんあたしの性格と真逆だけど、世曜高生しては割といるタイプだと思う。
ところで、その時のあたしは自分と朝烏麻路との関係に夢中で、比良宮健翔のことなんかすっかり頭から抜け落ちていた。
どうしてあたしがあの夏祭りで朝烏麻路と出会い、殺されかけ、そして今に至るのか、この時点で全ての情報が揃っていて簡単に推理できたはずだった。なのに、全く考えることをしなかったのは、あたしが完璧に浮かれポンチだったのと、全く以て名探偵の素質がなかったのと、朝烏麻路の早合点が原因だった。あたしは事情を全く知らず、知らないことも知らないまま、いつの間にかひとりの仲間として組み込まれていた。
そして、あたしにとっての解答編は何の前触れもなく唐突にやってくる。十一月の下旬、気温がガツンと落ち込んだ時期のことだ。
その日の昼休み、あたしはコーラパンとかいうファンキーなものを手に入れた。見た目は普通のパンなのに食べると、口の中にコーラの風味が広がる。これがくそまずい。確かにコーラ味ですげーってなったけど、だからなんだ。普通にコーラ飲むわ。
夏休み明け、購買が改築されてからこういうキワモノパンが増えた。こんなの新奇&珍奇を何より厭う世曜高生が食べるはずがない。一方、あたしは変わり種大好き子ちゃんだから、つい買っちゃう。購買ダービーとか言って血眼で先着を争わなくても欲しいものが買えるようになり、あたしは一線を引いた。それをラルヴァの連中から「兎褄は新しい購買が気に入ってない」「前の方が良かったって言ってた」とか変な考察をされてムカムカした覚えがある。
とまあ、相変わらずラルヴァは視界の端に置きつつ、やりたいように振る舞った結果、猛烈にコーラ臭くなった口を必死でゆすいでいたあたしに、誰かが声をかけてきた。
「兎褄碧子っ」
あたしをフルネームで呼ぶのなんか、この世で朝烏麻路しかいない。あたしは口元をハンカチでふきふき、涙目で彼女の方を見た。
「な、なに……昼休みに、めずらしいね」
「ど、どうしよう、どうしよう、助けて、バレちゃう、知らせなきゃ」
朝烏麻路は切羽詰まった様子でそう言うと、ぎゅっとあたしの左腕を掴んだ。いきなり古傷に触れられて、全身がキュっとなる。なななな、なんだ。
「え、何が一体どうしたの」
「このままじゃ愛沙の秘密がバレちゃう。そんことになったら、愛沙、学校来なくなって……」
事態があんまりにも呑み込めなさなさすぎて、朝倉麻路の弱った声音に萌える心が勝ちそうになる。いかん、性癖に負けるなあたし。
秘密と言ってるからには愛沙先輩の家庭のことだと思う。あたしは周囲を見渡して聞き耳が立ってないことを確認してから、朝烏麻路の手を握り返した。
「バレるってどういうこと? 書類が流出でもした?」
「ちがうっ。昼休み、いつもの部屋──補習室の奥の、私と愛沙が話してた部屋、ふたりはあそこで一緒に過ごしてるの。でも、あの場所は今度から生徒会の倉庫として使うことになるみたいで、今日の昼休みにその下見があるんだって。私、それを知ってたのに、他の用事のせいでふたりに伝え損ねて……」
「……なるほど」
何もわからん。どういうこと? ふたりって? まあ、ひとりは愛沙先輩だと思うけど、もうひとりは誰? その秘密、もしかしてあたし知らなくない?
「な、なら、今から教えにいったら」
詳しく問い質してる余裕はなさそうなので、とりあえずそう言ってみる。朝烏麻路はふるふるふる、と首を横に振った。
「ダメ、さっき役員たちがあの部屋の方に歩いてってるのが見えて、それで下見のこと思い出したの。今から行っても間に合わない。私、どうしたらいいか──」
「ええ……」
あたしが渡り廊下の方を見ると、確かに生徒の一団があった。例の部屋はこの学校の極北みたいな場所にあるとはいっても、渡り廊下の先で階段を上るだけ。どんなに遅く見積もっても二分くらいで辿り着くことになる。
朝烏麻路はそこにいる「ふたり」について、誰にもバレて欲しくないらしい。
どうする。学校の性質上、スマホは使えない。足止めするにしても役員全員を止められる保証はないし、その間にどうにかして「ふたり」へ伝言できたとしても、最上階で逃げ道のないあの場所から、誰とも鉢合わせずに脱出するのは難しい。「たまたま人気のないところに一緒にいたけど自分ら無関係でーす」って顔もできない。
無理だ。ちょっと、遅かったよ、朝烏麻路。もう少し早かったら、なんとかしようがあったかもだけど、もう──。
「どうしよう、兎褄碧子、私のせいで、愛沙が……」
ぐ、と朝烏麻路の指が、あたしの腕に食い込んだ。痛い。痛いよ──あの日、自転車から虹を見て、転んだ傷がじくじくする。灰色の匂い。骨の白。落ちた爪、泣きながら拾ったっけ。
あの時……あたしが一番辛かったのは、激痛でも血の匂いでもおかしな方に曲がった腕でも冷たさでも怖さでもない。
心細さだった。
朝烏麻路は今、よくわからないけどとても怖い目にあっている。ずっと、大事にしてきたものが失われそうになっている。そんな、心細くて、誰かに助けて欲しい時の表情をしている。
そこにあたしがいて、こうやって頼ってくれている。こんな運命ってある? それが実質、好きな人の好きな人のピンチであったとしても──あたしは朝烏麻路を見捨てられない。
絶対に助けなくちゃ。
あたしは脳みそがバターになるくらいぶん回した。解決策は? 非現実的なことでもいい。あー、時間が止まればいいのに。ロケットランチャーがあれば渡り廊下をぶっ壊せるのに。ピンポイントで隕石が落ちればいいのに。いや、隕石が落ちるならどこでも一緒か。とにかく逃げろ! ってなるわ。
逃げろ……あ、そうか!
この場所から一瞬で「ふたり」とやらに「逃げろ」と伝えられれば良いんだ。
その時、相手に「どうして?」などと悠長なことを思わせてはいけない。圧倒的な逃げろ! ヤバいぞ! 危険だ! そんなメッセージを送れる手段が──ある。
あたしはざっと廊下を見渡した。各フロアにひとつは存在するはず。
赤色に目立つそれをすぐに見つけて、あたしはダッシュした。
「碧子っ!」
突然、走り去ったあたしの耳に朝烏麻路の声が聞こえる。あれ? 碧子って呼んでくれた。その興奮であたしはもう最強無敵のスター状態になる。もう躊躇はない。
あたしは壁にあつらえられた火災報知器の前に立った。
中学の時、誰かがふざけて押して大目玉を食らってたっけ。これを押すと消防に連絡がいくとか、防火設備が一斉に起動するとか、虚偽通報になるとかで、絶対に押すなと言われてきた。
ただ、この報知器で鳴らす警報のメッセージは「逃げろ!」だ。
なら押したっていいだろ。あたしは強い願いを込めて「強く押す」ボタンを強く押す。
ぐい、と指先に手応えがあってから、ジリリリイ! とバカデカ音量の警報が鳴り響いた。
『火災が発生しました、火災が発生しました──』
避難訓練で聞いたことのある音声が流れ出し、けたたましい警報の裏で、生徒たちのどよめきが大きな渦となって広がっていく。
「な、なんてことしてるの」
朝烏麻路が血の気の引いた表情で駆け寄ってくる。あたしは慌てて手で制した。
「わー、来るな来るな! せんぱいの方に行って!」
「で、でも!」
「怒られるのだけはあたしだけでいい! うっかり肘が当たっちゃったことにするから! この混乱を使って、あんたはあんたのことをなんとかして!」
朝烏麻路はあたしを睨むように目を細めると、くるりと振り向いて駆け出した。おお、久しぶりに見た、アサシン・アイ。あたしは懐かしい気持ちになる。
向こうの校舎に目を向けると、生徒会役員達は警報が鳴った時の規定に従って、避難のために階段を下っていくのが見えた。よし。これでどさくさに紛れて極北の部屋から脱出するだけでいい。これで愛沙先輩の秘密は守られる。
あたしはホッとしつつ窓の下を見下ろすと、生徒たちが戸惑いながらも校庭を目指す様子が見えた。あたしはちょっと愉快になる。アメコミのヴィランの気持ちがちょっとわかった。
そして、視線を戻すと、先生たちがすごい剣幕でこちらに向かってくるのが見えた。
まあ、そうなるよね。悪役の宿命だ。めちゃくちゃ嫌だけど甘んじて受け入れよう。朝烏麻路、あんたが好きな人を守れたなら、あたしはもうそれでいいや──なんて自己犠牲のヒロインみたいなこと思いながら。
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