撈月海底紀行

浪々日記

撈月海底紀行(ロウゲツ カイテイ キコウ)

「海の底には月が沈んでて、掬い上げると幸せになれるんだってさ!」

 貌の無いクラスメイトにそう言われた僕は、日が暮れると家を出て終電へと飛び乗り、沿線にある海岸へと向かった。

 砂浜から一歩一歩と踏み出し、つま先、脚、腰、胸、肩、頭と海水に身を浸す。忽ち両の肺は水で満たされ、視界はぼやけ、手足は冷え切り、それでも不思議と苦しくは感じずに、ただ僕を引き留めるようにしつこく纏わりつく海藻を掻き分けて進む。驚いて逃げる砂色の魚達にごめんねと微笑みながら、水面から差し込む月光に照らされながら、海流に従って、ゆっくりと。

 岩場を超えるとやがて足場は無くなり、遂に五体が放り出される。僕は月の照らす水面を離れ、更なる深みへと沈んでいった────海底の月を掬うため。


 海藻の森を飛び越え、斜面に沿って下る。

 深い青に染まる海は、僕の見たことのないような景色を映していた。何物にも縛られる事なく悠々と泳ぐ鯨、銀の肌に海を投影して揺らめく魚群、岩陰や沈んだ人工物に生を営む小さな生き物達、薄明りに照らされ降り注ぐマリンスノー。それら全てが時に重なり、時に離れ、僕に関心なく進んでいく。全くの静寂という訳ではないけど、クスクス、ケラケラなんて教室の雑音、或いは今まさに起こっているであろう水上の喧騒と比べれば、此処はよっぽど気が休まる。

 近くをふわふわと漂うクラゲが、そんな僕の安息に同調しているような気がして、ふと口の端に笑みが漏れた。僕も同じように水の安らぎに身をゆだね、漂うままに海を沈んでいく。次第に青色も薄れていって、そこには暗闇が残った。


 一寸先は闇、なんて言葉があるけれど、比喩でもなんでもなくこういう事なんだろうと思う。色を失った世界、闇に紛れた魚や不可視の光さえ嫌う透明な生き物達が通過していくのを、僕はぼんやりと眺めた。

 海の音だけが響き、僕の五感は暗闇と同化していく。眼前にふと映し出されるのは、自分がなぜ見えない筈の暗闇の景色を見ているのだろうなんて疑問────いや、海に沈んでいる時点で僕は十中八九もう死んでいて、こんな水圧に晒されてちゃ本来は目も耳はおろか骨格も内臓ももう駄目になっている筈なんだけど、そんな事を考えた。此処には暗闇しかないのだから、折角死んでいるのだから、少しくらい目を瞑って自分の内面に目を向けてもいい、そんな時間なのかもしれない。

 僕は生まれつき、周りの人とはちょっとズレていた。他人の事は終ぞ理解できなかったし、僕自身の考えも周りには伝わりそうになかったから、そのうち諦めて、目を瞑って生きてきた。形だけの友人達に向けられ続けた奇異の目も、貌の無い彼が僕に向ける蔑みの目も、決して汲み取れなかった訳ではないけれど、やっぱり根本的に理解は出来なかったから、それについて特段何か思う事はなかった。

 思えば今回だってそうだ。そもそも水面に映る月はどう考えても海底にある訳じゃない、僕が幸福に飢えていると見積もってか、明らかな冗談を言っている。いくら彼に悪趣味に煽られたからって、どのみちその貌は僕には分からないんだから、そんな些細な事で本当に海の深みへと沈まなくてもよかったんじゃないか、なんて考え自体はないこともなかった。

 それでもこうして沈んでいるのは────そうだ、理屈を抜きにして、僕は海底の月を掬いたかった。手のひらの中で優しく輝く月は、さぞ美しいのだろうと思ってしまったから。


 深海は日光の届かない真っ暗闇だから目を瞑っていようと関係ないと思っていたけど、地響きが聴こえて目を開いた僕はその景色に驚いた。

 辺りに散らばる光の玉。七色の光が暗闇を彩る幻想的な世界。いつの間にか辿り着いていた水底は、僕の想像よりずっと色彩豊かで賑やかな場所だった。

 僕を取り囲んだ光の玉────貝類に甲殻類、ぬめりを持った魚、色とりどりのクラゲが、物珍しい来客を出迎えるようにゆらゆらと光を放つ。「どこから来たの?」「ここは良い場所だぞ」なんて言われているように感じて、僕は軽く挨拶を返し、ここまでの旅路について彼らに話した。彼らの中には僕のように、浅い所から沈んできたものも居るらしい。僕を労うように、「そんな事もあるよな、ゆっくり休めよ」なんて言う彼らに思わず笑ってしまって、暫く暖かな時間を過ごした。

 さて、彼らの作り出す七色の情景は確かに美しいけれど、それは星空のようなもので、月は何処にも見当たらない。水底に沈む月について僕が彼らに尋ねると、彼らは少し思考を巡らせて、何も思い当たらないと答えた。どうやら彼らは深海の中でも暖かい場所に集まって暮らしており、外の事には詳しくないらしく、申し訳なさそうに揺れている。月を探すのであれば、この海底を探し回らなくてはならない────あぁ、海底に月はそもそもないんだっけ?ともかく、僕が目的を達するには、此処を離れなければならないようだった。

 どの方向へ進むべきか決めあぐねていると、一風変わった透明なクラゲが僕の横を通っていった。光っていないなんて珍しい、よく見てみればそれは先程僕と一緒に沈んできたクラゲと同じように思える。なんとなく彼が深海の道を案内してくれているように感じた僕は、七色の仲間達に別れを告げ、そして透明なクラゲに導かれるまま、再び暗闇の中を歩き出した。


 すっかり重くなった水を掻き分けるようにして、身の竦むような冷たい水底を進む。僅かな深海生物の輝きを頼りに、前を進む透明な指標を見失わないように、一歩一歩と。気付けば僕の五体はすっかり暗闇に飲まれ、散逸してしまっていた。

 一体いつまでこんな時間が続くのだろう、初めから不可能な目標だったのなら或いは永遠にこうして彷徨い歩くのか、そんな恐怖と共に。それでも月を求め続け、肉体のしがらみも時間の限りも無く、僕は海底の起伏を乗り越え────遂に其処へとたどり着く。


 地面に出来た巨大な亀裂、きっとこの世で一番深い場所。その最奥に、僕は在る筈のない月を見つけた。

陽の光もない暗闇の中、光る筈もないのに、それでも美しく輝く小さな星。駆け寄るようにして近付いた僕は、震える両の手で、手の平大のそれを掬い上げる。


 気付けば其処はもう深海ではなく、僕は月の上に立っていた。

 僕だけじゃない、舞い踊るマリンスノーも、揺らめく銀の魚群も、楽しげな七色の光も、深海の旅路の全てが其処にあって、僕に暖かな祝福を注いでいた。

 目の前には先程まで前を進んでいた透明な海月クラゲ────幼い頃絵本で見たようなクラゲ型の宇宙人が立っていて、呆然とする僕に笑いかける。

「長旅の果て、遂に月を掬い上げたね。君の願う幸せはなんだい?」


 そういえばそんな胡散臭い話だったな、なんて昔の事を思い出す。願いなんて忘れてしまった、否、そんなものは初めからない。僕はただ月を掬いたかった、それだけなんだから。

 辺りには広大なレゴリスと、無数のクレーター。すっかり遠くまで来てしまった、遥か彼方の青い惑星に今更帰る訳にもいかない。結局今の僕が生きているのか死んでいるのかも分からないし、意味のある旅路だったのかも分からない────ああ、でも。僕は最後に一つの願いを見つけた。


「もう少し………こうしていたいな」


 僕は横たわって、辿り着いたその景色を眺める。誰も知らない海底の月に、穏やかな時間が過ぎていく────ずっと、永遠に。

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