第10話「安倍家の秘術」

1


平安京の夏は、蒸し暑さと共に訪れていた。安倍晴明あべのせいめいの屋敷では、涼を求めて縁側に集まった四人の姿があった。晴明、橘千鶴たちばなちづる藤原舞衣ふじわらまい、そして源博雅みなもとのひろまさは、冷たい甘酒を飲みながら、穏やかな時間を過ごしていた。


「時の門を封印してから、もう二ヶ月になりますね」千鶴は庭の蝉の声を聞きながら言った。


晴明は静かに頷いた。「ああ、平安京も平和を取り戻した」


冥府道めいふどうの残党は?」博雅が尋ねた。


「今のところ、目立った動きはない」晴明は答えた。「物部影丸が時の狭間に閉じ込められたことで、組織は崩壊したようだ」


舞衣は安堵の表情を見せた。「これで本当に終わったのですね」


「そうであることを願う」晴明は言ったが、その表情には僅かな不安が残っていた。


千鶴はそれに気づき、「何か心配なことがあるのですか?」と尋ねた。


晴明は少し躊躇った後、「最近、不思議な夢を見るんだ」と打ち明けた。


「夢?」三人が同時に尋ねた。


「ああ」晴明は庭を見つめながら続けた。「安倍家の古い書庫に、隠された巻物があるという夢だ。その巻物には、時の門に関する秘密が記されているという…」


「それは予知夢かもしれませんね」舞衣が言った。


「私もそう思う」晴明は頷いた。「だから、今日、古い書庫を調べてみようと思っている」


「お手伝いします」千鶴が即座に言った。


「私も」舞衣も続いた。


博雅も立ち上がった。「俺も行くぞ」


晴明は微笑んだ。「ありがとう。では、屋敷の奥にある書庫へ行こう」


四人は屋敷の奥へと向かった。普段はあまり使われない古い書庫は、埃が積もり、薄暗い空間だった。


「ここには、安倍家代々の書物が保管されています」晴明が説明した。「陰陽道の秘術から、歴代の記録まで」


「どこから探せばいいでしょう?」千鶴が尋ねた。


晴明は書庫の奥を指さした。「夢の中では、あの壁の向こうに隠し部屋があった」


四人は書庫の奥へと進み、晴明が示した壁の前に立った。一見すると普通の壁だったが、晴明は慎重に手で触れ、何かを探っているようだった。


「ここに…」晴明がつぶやき、壁の一部を押した。


カチリという小さな音がして、壁が動き始めた。隠し扉が開き、その向こうには小さな部屋が現れた。


「本当にあった…」舞衣は驚きの声を上げた。


「晴明様の予知夢は当たっていましたね」千鶴も感嘆した。


四人は隠し部屋に入った。部屋の中央には、古い机があり、その上に一つの巻物が置かれていた。巻物は不思議な光を放っていた。


「これが…」晴明は巻物に手を伸ばした。


巻物を開くと、古い文字で何かが書かれていた。晴明はそれを慎重に読み始めた。


「何と書いてあるのですか?」博雅が尋ねた。


晴明は眉をひそめた。「これは…安倍家の秘術について書かれている。『時空転移の術』という…」


「時空転移?」千鶴は驚いて晴明を見た。「それは…時間を超える術ですか?」


「ああ」晴明は頷いた。「時の門を使わずに、時間と空間を超える術だ」


「そんな術があるのですか?」舞衣は信じられないという表情で尋ねた。


晴明は巻物をさらに読み進めた。「この術は非常に危険で、使用者の命を危険にさらす可能性があるという。だから、安倍家では秘術として封印されてきたようだ」


「でも、なぜ今、この巻物が…」博雅が疑問を投げかけた。


晴明は真剣な表情で言った。「おそらく、時の門の封印と関係がある。時の門が完全に封印されたことで、この秘術が再び必要になる可能性があると…」


千鶴は静かに尋ねた。「それは…私が未来に戻るための術なのでしょうか?」


晴明は千鶴を見つめ、「可能性はある」と答えた。「だが、非常に危険な術だ」


「どのような危険が?」千鶴が尋ねた。


「術を使う者の魂が引き裂かれる可能性がある」晴明は厳しい表情で言った。「最悪の場合、時の狭間に閉じ込められてしまう」


千鶴は震える手で巻物に触れた。「でも、これが私が未来に戻る唯一の方法かもしれないのですね」


「そうかもしれない」晴明は静かに言った。「だが、急ぐ必要はない。この術をよく研究し、安全に使える方法を見つけ出さなければならない」


「私も協力します」舞衣が言った。「陰陽道の知識を総動員して」


「俺も手伝う」博雅も頷いた。


千鶴は感謝の表情を見せた。「みなさん、ありがとう」


晴明は巻物を慎重に巻き直した。「この秘術の研究には時間がかかるだろう。それに、術を使うかどうかは、最終的には千鶴の選択だ」


千鶴は複雑な表情を浮かべた。未来に戻る可能性が見えてきたことに希望を感じる一方で、この時代で築いた絆を考えると、決断は簡単ではなかった。


「考える時間はたくさんあります」千鶴は微笑んだ。「今は、この術の研究を手伝いたいと思います」


四人は隠し部屋を後にし、巻物を晴明の書斎へと持ち帰った。これから始まる研究は、彼らの絆をさらに深めるものになるだろう。


その夜、千鶴は一人で庭に出て、星空を見上げていた。未来と過去、二つの時代の間で揺れる心を、誰にも見せないようにしていた。


「千鶴」


振り返ると、晴明が立っていた。


「晴明様…」


「悩んでいるのか?」晴明は静かに尋ねた。


千鶴は小さく頷いた。「正直に言うと…はい。未来に戻るべきか、この時代に留まるべきか…」


晴明は千鶴の隣に立ち、共に星空を見上げた。「時間はある。焦る必要はない」


「でも、もし術の研究が進んで、実際に使えるようになったら…」千鶴は言葉を詰まらせた。


晴明は静かに言った。「その時は、あなたの心に従えばいい。どちらを選んでも、私たちはあなたの選択を尊重する」


「晴明様…」千鶴は感動して晴明を見つめた。


二人は静かに星空を見上げ続けた。言葉にはできない感情が、二人の間に流れていた。


2


翌朝、晴明の書斎には四人が集まっていた。机の上には、時空転移の術の巻物が広げられ、周囲には陰陽道の書物が積み上げられていた。


「この術は、通常の陰陽道の範疇を超えている」晴明は説明した。「時間と空間の法則そのものに干渉する術だ」


「どのように術を発動させるのですか?」舞衣が尋ねた。


晴明は巻物の一部を指さした。「ここに書かれているのは、四つの要素が必要だということだ。土、火、水、風…四方の力を集中させる必要がある」


「それは四つの鍵の力と同じですね」千鶴が気づいた。


「ああ」晴明は頷いた。「おそらく、時の門と時空転移の術は、根本的には同じ原理に基づいているのだろう」


「でも、鍵を使わずにどうやって?」博雅が疑問を投げかけた。


晴明は巻物をさらに読み進めた。「術者自身が四方の力を内に秘めなければならない。そのためには、特別な修行が必要だ」


「どんな修行ですか?」千鶴が尋ねた。


「東西南北の聖地で、それぞれの力を取り込む修行をする必要がある」晴明は答えた。「東の風の力は比叡山で、南の火の力は熊野で、西の水の力は厳島で、北の土の力は出羽の山で」


「広範囲にわたる旅になりますね」舞衣が言った。


「ああ」晴明は頷いた。「しかも、各地での修行は厳しいものになるだろう」


千鶴は決意を固めた表情で言った。「私がその修行を受けるべきですね」


「いや」晴明は首を振った。「この術を使うのは私だ」


「晴明様?」千鶴は驚いた。


「千鶴を未来に送り返すのであれば、術を使うのは私の役目だ」晴明は静かに言った。「術の危険性を考えれば、千鶴自身が使うのは危険すぎる」


「でも、晴明様も危険なのでは?」千鶴は心配そうに尋ねた。


「私は陰陽師だ」晴明は微笑んだ。「危険な術に対処するのは、私の仕事だ」


「私も一緒に修行します」舞衣が言った。「西の水の力は、藤原家の血を引く私が担当すべきです」


「俺も行く」博雅も立ち上がった。「南の火の力は、源氏の血を引く俺の役目だ」


晴明は二人を見て、感謝の表情を見せた。「ありがとう。だが、旅は危険だ」


「だからこそ、一人では行かせません」舞衣は強く言った。


千鶴も決意を固めた。「私も行きます。この術は私のためのものです。責任を持って、最後まで見届けたいです」


晴明は三人の決意を見て、頷いた。「わかった。四人で旅をしよう」


「いつ出発しますか?」博雅が尋ねた。


「準備が整い次第」晴明は答えた。「まずは東の比叡山から始めよう」


四人は旅の準備を始めた。必要な装備や食料、そして陰陽道の道具を揃える必要があった。


準備の合間に、千鶴は舞衣と二人きりになる時間があった。


「舞衣殿」千鶴は静かに言った。「私が未来に戻ることになったら…晴明様を頼みます」


舞衣は驚いた表情を見せた後、優しく微笑んだ。「千鶴様…」


「舞衣殿の晴明様への想いは知っています」千鶴は続けた。「私がいなくなったら、どうか晴明様の傍にいてあげてください」


舞衣は千鶴の手を取った。「千鶴様、まだ決まったわけではありません。それに…」


「それに?」


「晴明様の心は、既に千鶴様に向いています」舞衣は少し寂しそうに言った。「私にはわかります」


「そんな…」千鶴は言葉を失った。


「大丈夫です」舞衣は強く微笑んだ。「私は晴明様の弟子として、彼の傍にいられるだけで幸せです。千鶴様が未来に戻るにしても、この時代に留まるにしても、私は千鶴様の友人でいたいです」


千鶴は感動して舞衣を抱きしめた。「ありがとう、舞衣殿。私も、ずっと舞衣殿の友人でいたいです」


二人の友情は、時代を超えても変わらないものだった。


一方、晴明と博雅も、屋敷の別の場所で話をしていた。


「晴明、本当に千鶴を未来に送り返すつもりか?」博雅が真剣な表情で尋ねた。


晴明は静かに答えた。「それは千鶴自身が決めることだ」


「だが、お前の気持ちは?」博雅は追及した。「千鶴への想いは隠せていないぞ」


晴明は少し黙った後、「私の気持ちは関係ない」と言った。「千鶴には未来での人生がある。家族も、友人も、仕事も…それを奪う権利は私にはない」


「だが、千鶴自身が残ることを選んだら?」


「その時は…」晴明は言葉を詰まらせた。


博雅は友人の肩を叩いた。「その時は、正直な気持ちを伝えるべきだ。後悔するぞ」


晴明は小さく頷いた。「考えておく」


四人の旅の準備は整い、出発の日が決まった。平安京を離れ、まずは東の聖地、比叡山を目指す。彼らの新たな冒険が始まろうとしていた。


出発の前夜、千鶴は再び一人で庭に出て、星空を見上げていた。未来と過去、二つの時代の間で揺れる心は、まだ答えを見つけられずにいた。


(私はどちらを選ぶべきなのだろう…)


3


翌朝、四人は平安京を出発した。東の聖地、比叡山を目指して、彼らは馬を進めた。


「比叡山には、どれくらいで着きますか?」千鶴が尋ねた。


「順調なら、日が暮れる前には着けるだろう」晴明が答えた。


道中、四人は様々な話をした。陰陽道の術のこと、平安京での出来事、そして各自の過去についても。


「晴明様は、陰陽師になろうと思ったきっかけは何だったのですか?」千鶴が尋ねた。


晴明は少し考え、「幼い頃から、普通の人には見えないものが見えていた」と答えた。「最初は恐れていたが、父に導かれ、陰陽道を学ぶことでそれを理解し、制御できるようになった」


「舞衣殿は?」千鶴は続けて尋ねた。


舞衣は微笑んだ。「私は幼い頃、病に苦しんでいました。その時、陰陽師の術で救われたのです。それから、自分も誰かを救える人になりたいと思いました」


「博雅殿は?」


博雅は笑った。「俺は晴明に出会って、陰陽道の不思議さに魅了されたんだ。源氏の血を引く者として、何か特別な力があるのではないかと思ったこともある」


千鶴は三人の話を聞いて、感慨深げに頷いた。「みなさん、素晴らしい動機ですね」


「千鶴は?」晴明が尋ねた。「未来では、どんな仕事をしていたんだ?」


千鶴は懐かしそうに答えた。「私は歴史研究者でした。特に平安時代の陰陽道について研究していました。だから、安倍晴明様のことも知っていたんです」


「なんと」晴明は驚いた。「私のことを研究していたのか」


千鶴は頷いた。「はい。晴明様は未来でも、最も有名な陰陽師として知られています」


「それは光栄だな」晴明は少し照れたように言った。


「博雅殿も、源博雅として歴史に名を残しています」千鶴は続けた。「そして、藤原家は平安時代の政治を動かした名家として」


舞衣は嬉しそうに微笑んだ。「私たちの時代が、未来にまで伝わっているのですね」


四人は会話を楽しみながら、比叡山へと近づいていった。


午後になると、比叡山の姿が見えてきた。荘厳な山容は、神聖な場所であることを物語っていた。


「あれが比叡山です」晴明が指さした。


四人は山麓に到着し、馬を降りた。ここからは徒歩で登ることになる。


「比叡山には、延暦寺があります」晴明が説明した。「日本仏教の中心地の一つだ」


「風の力を得るには、どこへ行けばいいのですか?」千鶴が尋ねた。


晴明は巻物を取り出して確認した。「東塔の奥にある風の祠だ。そこで修行を行う必要がある」


四人は山道を登り始めた。道は険しく、時折、強い風が吹き抜けた。


「この風…」舞衣がつぶやいた。「普通の風ではありませんね」


「ああ」晴明は頷いた。「比叡山の風には、霊力が宿っている」


彼らが山を登るにつれ、風はさらに強くなった。時には立ち止まらなければならないほどだった。


「風が私たちを試しているようだ」博雅が言った。


「その通りだ」晴明は答えた。「風の力を得るためには、風に認められなければならない」


四人は懸命に登り続け、ようやく延暦寺の東塔に到着した。そこで彼らは、修行僧に案内を頼んだ。


「風の祠ですか」修行僧は驚いた表情を見せた。「あそこは通常、人が立ち入ることを許されていません」


「重要な修行のためです」晴明は真剣に言った。「どうか、案内してください」


修行僧は晴明の真剣な表情を見て、しばらく考えた後、頷いた。「わかりました。ついてきてください」


修行僧に導かれ、四人は東塔の奥へと進んだ。人気のない山道を進むと、小さな祠が見えてきた。祠の周りには、常に風が渦を巻いていた。


「ここが風の祠です」修行僧が言った。「これより先は、私も行けません。気をつけてください」


修行僧が去った後、四人は祠の前に立った。


「風の力を得るための修行は、私が行います」晴明が言った。


「晴明様…」千鶴は心配そうに見つめた。


「大丈夫だ」晴明は微笑んだ。「これが陰陽師の務めだ」


晴明は祠に向かって歩き始めた。祠に近づくにつれ、風はさらに強くなり、晴明の体を押し返そうとした。


「風の神よ」晴明は声を上げた。「私に風の力を授けたまえ」


風は一瞬止まり、そして突然、晴明を包み込んだ。晴明の体が宙に浮き、風の中で回転し始めた。


「晴明様!」千鶴が叫んだ。


「大丈夫だ、近づくな!」晴明は風の中から声を上げた。


晴明は風の中で、特別な印を結び、呪文を唱え始めた。風は次第に彼の周りで渦を巻き、一つの形を作り始めた。それは風の精霊の姿だった。


「人の子よ」風の精霊が語りかけた。「何故、風の力を求める?」


「時空を超える術のためです」晴明は答えた。「大切な人を、彼女が属する時代に送り返すために」


風の精霊は晴明の心を見透かすように、しばらく黙っていた。「その想いは純粋か?私利私欲はないか?」


「私の心は開かれています」晴明は真摯に答えた。「見たいものを見てください」


風の精霊は晴明の心を探り、そして満足したように頷いた。「良かろう。風の試練を受けよ」


突然、風が激しさを増し、晴明の体を四方八方から攻撃し始めた。鋭い風の刃が、晴明の肌を切り裂いた。


「晴明!」博雅が心配そうに叫んだ。


晴明は痛みに耐えながら、風の中心で動かずにいた。彼の心は静かに、風の本質を理解しようとしていた。


(風は自由だ。形がなく、どこへでも行ける。しかし、その本質は変わらない…)


晴明は風の流れに身を任せ、抵抗するのをやめた。すると不思議なことに、風の刃は彼を傷つけなくなった。風は彼と一体化し始めたのだ。


「風の本質を理解したようだな」風の精霊が言った。「風の力を授けよう」


風の精霊は晴明の胸に手を当て、光が彼の体内に流れ込んだ。晴明は強い力が体内に満ちるのを感じた。


風が静まり、晴明はゆっくりと地面に降り立った。彼の周りには、もう風は吹いていなかった。


「晴明様!」千鶴が駆け寄った。「大丈夫ですか?」


晴明は静かに頷いた。「ああ、風の力を得ることができた」


晴明の手のひらに、小さな風の渦が現れた。それは彼が風の力を得た証だった。


「これで一つ目の力を得ました」舞衣が喜びの表情で言った。


「次は南の熊野だな」博雅が言った。


「ああ」晴明は頷いた。「だが、今日はここで休もう。明日、山を下りて熊野へ向かおう」


四人は延暦寺で一夜を過ごすことにした。晴明は風の力を得て、少し疲れた様子だったが、確かな手応えを感じていた。


その夜、千鶴は晴明に話しかけた。「晴明様、風の力を得て、どのような感覚ですか?」


晴明は静かに答えた。「不思議な感覚だ。体の中に風が宿っているようで、常に動いている感じがする」


「痛かったでしょう?」千鶴は心配そうに尋ねた。


「少しな」晴明は微笑んだ。「だが、それも修行の一部だ」


「私のために、こんな危険な修行をしてくださって…」千鶴は申し訳なさそうに言った。


晴明は千鶴の手を取った。「千鶴、あなたのためだけではない。これは私自身の修行でもある。陰陽師として、新たな境地を開くための」


千鶴は晴明の手の温もりを感じながら、複雑な思いに包まれた。未来に戻るための術が完成に近づくにつれ、彼女の心の迷いは深まるばかりだった。


(私は本当に未来に戻りたいのだろうか…)


4


翌日、四人は比叡山を下り、南の聖地、熊野へと向かった。熊野までは数日の旅になる。


道中、晴明は風の力を制御する練習をしていた。時には小さな風を起こし、時には風の流れを読む練習をした。


「風の力は扱いやすいですか?」舞衣が尋ねた。


晴明は頷いた。「予想以上にね。風は自由な要素だが、その分、意志に従いやすい」


旅の三日目、彼らは熊野の地に足を踏み入れた。熊野は深い森と険しい山々に囲まれた神聖な場所だった。


「熊野には三つの大社があります」晴明が説明した。「熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社だ」


「火の力はどこで得られるのですか?」博雅が尋ねた。


晴明は巻物を確認した。「熊野那智大社の近くにある火の滝だ。そこで修行を行う必要がある」


四人は熊野那智大社を目指した。道中、彼らは熊野の自然の豊かさに感嘆した。深い森、清らかな川、そして荘厳な山々。


「熊野は神々の宿る地と言われています」舞衣が言った。「自然の力が強く感じられますね」


「ああ」晴明も頷いた。「だからこそ、火の力を得るのに相応しい場所なのだろう」


彼らが熊野那智大社に近づくと、遠くに大きな滝が見えてきた。


「あれが那智の滝か」博雅がつぶやいた。


「ああ」晴明は頷いた。「だが、火の滝はさらにその奥にある」


四人は那智大社を参拝した後、案内人を頼んで火の滝への道を教えてもらった。


「火の滝ですか」案内人は驚いた表情を見せた。「あそこは危険な場所です。通常、人が近づくことは許されていません」


「重要な修行のためです」博雅が真剣に言った。「私が火の力を得る必要があるのです」


案内人は博雅の決意を見て、しばらく考えた後、頷いた。「わかりました。道だけお教えします。気をつけてください」


案内人の指示に従い、四人は那智の滝からさらに奥へと進んだ。道はますます険しくなり、時には切り立った崖を登らなければならなかった。


「熱い…」千鶴がつぶやいた。


確かに、進むにつれて気温が上昇していた。やがて、彼らは小さな滝に辿り着いた。普通の滝と違い、この滝は赤く輝いていた。まるで火が流れ落ちているかのようだった。


「これが火の滝か」博雅は感嘆の声を上げた。


「ああ」晴明は頷いた。「博雅、準備はいいか?」


博雅は決意を固めた表情で頷いた。「ああ、行くぞ」


「気をつけて」舞衣が心配そうに言った。


博雅は火の滝に向かって歩き始めた。滝に近づくにつれ、熱さは増していった。普通の人間なら、この熱さに耐えられないだろう。


「火の神よ」博雅は声を上げた。「私に火の力を授けたまえ」


突然、火の滝が激しく燃え上がり、博雅を包み込んだ。博雅の体が赤い光に包まれ、宙に浮かび上がった。


「博雅殿!」千鶴が叫んだ。


「大丈夫だ」晴明は冷静に言った。「これは試練の一部だ」


火の中で、博雅は特別な印を結び、呪文を唱え始めた。火は次第に彼の周りで形を作り始め、それは火の精霊の姿となった。


「源氏の血を引く者よ」火の精霊が語りかけた。「何故、火の力を求める?」


「友のため、そして使命のためです」博雅は答えた。「時空を超える術を完成させるために」


火の精霊は博雅の心を見透かすように、しばらく黙っていた。「その想いは熱いか?迷いはないか?」


「私の心は炎のように熱く燃えています」博雅は力強く答えた。「見たいものを見てください」


火の精霊は博雅の心を探り、そして満足したように頷いた。「良かろう。火の試練を受けよ」


突然、火が激しさを増し、博雅の体を焼き始めた。激しい痛みが全身を襲った。


「うっ…」博雅は歯を食いしばった。


「博雅!」晴明が心配そうに叫んだ。


博雅は痛みに耐えながら、火の中心で動かずにいた。彼の心は静かに、火の本質を理解しようとしていた。


(火は情熱だ。燃え盛り、全てを焼き尽くす。しかし、その本質は生命の源…)


博雅は火の熱さを恐れるのではなく、受け入れ始めた。すると不思議なことに、火は彼を傷つけなくなった。火は彼と一体化し始めたのだ。


「火の本質を理解したようだな」火の精霊が言った。「火の力を授けよう」


火の精霊は博雅の胸に手を当て、赤い光が彼の体内に流れ込んだ。博雅は強い力が体内に満ちるのを感じた。


火が静まり、博雅はゆっくりと地面に降り立った。彼の周りには、もう火は燃えていなかった。


「博雅殿!」舞衣が駆け寄った。「大丈夫ですか?」


博雅は力強く頷いた。「ああ、火の力を得ることができた」


博雅の手のひらに、小さな炎が現れた。それは彼が火の力を得た証だった。


「これで二つ目の力を得ました」千鶴が喜びの表情で言った。


「次は西の厳島だな」晴明が言った。


「ああ」博雅は頷いた。「舞衣の番だ」


四人は熊野で一夜を過ごし、翌日、西の聖地、厳島へと向かった。厳島までは、さらに数日の旅になる。


道中、博雅は火の力を制御する練習をしていた。時には小さな炎を起こし、時には火の温度を調整する練習をした。


「火の力は扱いやすいですか?」千鶴が尋ねた。


博雅は笑った。「簡単ではないな。火は情熱的で、時に制御が難しい。だが、源氏の血のおかげか、少しずつ馴染んできている」


旅の途中、彼らは小さな村で休息を取ることにした。村人たちは都から来た旅人たちを歓迎し、宿と食事を提供してくれた。


その夜、四人は宿の縁側で語り合った。


「二つの力を得て、術の完成に近づいていますね」千鶴が言った。


「ああ」晴明は頷いた。「だが、まだ二つの力が必要だ」


「舞衣殿、厳島での修行は大丈夫ですか?」千鶴が心配そうに尋ねた。


舞衣は微笑んだ。「はい、藤原家は代々、水の力と縁があります。自信はあります」


「そして最後は、出羽の山で私が土の力を得る」晴明が言った。「全ての力が揃えば、時空転移の術が完成する」


「そして、私は…選択をしなければならないのですね」千鶴は静かに言った。


三人は千鶴を見つめた。彼女の選択が、彼らの未来を大きく左右することを、皆が理解していた。


「千鶴」晴明が静かに言った。「どんな選択をしても、それはあなた自身のものだ。私たちは、あなたの幸せを願っている」


「ありがとう、晴明様」千鶴は感謝の表情を見せた。


夜が更けていく中、四人はそれぞれの思いを胸に、静かに星空を見上げていた。彼らの旅は、まだ半ばだった。


(続く)

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