枯葩家へよくぞ

 呼吸が心地良い。美味しい空気が肺に沁み渡って、無理なく緩やかに意識が明瞭になっていく。今度は気絶していたのではないと分かるが、上手く説明できない不思議な状態だ。僕はずっと倒れていて、結構な時間が過ぎた感覚がある。ユズハさんに殴られた、次の記憶では、既にここに居た訳だが。彼女と車に乗ってからというもの、どうしようにも理解できない展開が続いて、考えを巡らすのも阿呆らしい。いつまでも着地できないスカイダイビングのようで、身を委ねるしかない。唯一つ、僕とユズハさんの結婚のことだけが気に掛かる。

 森の中にある小洒落たコテージだ。そのデッキに敷かれた何枚かの座布団の上で僕は起き上がる。見覚えがある場所だが、いつ、どこだったろうか?思い出が燻って、理由のない安心感が肩の力を抜かせてくれる。大丈夫、なのだろう。恐ろしいものはここに無い。


「凡人の癖して、昇天した気分はどうよ」


 傍のテーブルに着いている奴がいた。姿も格好も僕と同じで、だがもちろん、僕ではない筈の誰かが。茶に口を付けながら、嗤うような目を僕から外し、対面の席を見遣る。座れと言っているのだろう。筋肉の機能を感じないくらいに軽々と身体が動き、僕は彼の前に座った。


「昇天って何の話だよ。ここは何処か答えてくれるか?」


「大分昔に、こんな風のコテージに泊まっただろう」


 茶碗に茶を注ぎ、こちらへ差し出しながら彼は言う。ああ確かに、思い出した。思春期の初め頃だったか、家族と一緒に山中でバーベキューをしたことがある。その時に泊まったコテージは、静かで平穏そのものだったんだ。老後はこんな家を持って過ごせたらと、将来の理想を思い描いたのだった。でも、今となってはな...。


「答えになってない無駄口は止せ。現在地は?どういった状況なんだ!」


 ユズハさんと結婚する以上、夢は叶わないだろう。だからこんな所、嫌みで用意されたように思う。苛立ちを抑えずに詰問に出るが、彼はへらへらと馬鹿にするばかり。僕と同じ顔で、僕が浮かべたことのない意地悪な表情を作っている。


「ここは現世うつしよじゃあない。なら、夢を見たって罰はないかもな」


「これは全部夢だって言うのか?」


「さっき言った通りのこと」


 彼は少し困ったように眉をひそめる。僕を驚かせたくて言葉を探したのか、間を置いて答えが返る。その内容は悔しいけれど、彼の思惑通りに戦慄してしまうに十分だった。


「お前は昇天したんだよ。天国に来たってこと」


 天国...?原義としての、死後の世界だと?こいつの言葉を信じるなら、そんな、何てことだ。僕はユズハさんの殴打に耐えられなかったのか。期待に応えられず、ついに終わってしまったのか。今頃、彼女は僕の亡骸も抱き締められずに泣き崩れているかもしれない。


「嘘だ...地獄ならまだしも、天国なんて信じないぞ。僕を揶揄からかっているんだろう」


 恥も忘れて縋るように、正しい説明を求める。どうか、僕の勘違いだと教えてくれ。間抜けと罵られようが嘲られようが許してやるから。


「はあ、頭の硬い奴だな。お前さあ、少しは楽観を覚えろよ。茶を飲め」


 溜息と共に、案外と優しい言葉が返される。一先ず落ち着こうと、勧められたのに従い茶を口にした。温もりと香りのおかげで、少しだけ気分が楽になっただろうか。茶碗が空になると、彼は頭を掻きながら話し出す。


「凡人にしても呑み込みが悪い。この調子じゃ事実の半分も伝わらないか」


「僕は死んだんじゃないのか。天国と聞いて、他に捉えようがあると?」


「馬鹿を言え。凡庸な人生を送って来て、罪も徳も大して積んでいないお前如きが、死んで天界に召されるものか。昇天にどれだけの偉業が必要と思うよ」


「神話に興味はないものでね。結論を言えよ」


「お前の魂は不相応にも、天界に迷い込んだんだ。生きながらにしてな」


 そうか。ほら、やっぱり勘違いだった。生きている。僕は必死の試練を乗り越えたということだ。ならば、お義父とお様にユズハさんとの結婚を認めてもらえる。これからやるべきことが尽きないことだろう。天国なんて早く降りて、彼女の元へ帰らなければ。


「今更急いても仕方ないぞ。一千日と一月半も休みやがってな」


「三年も!?早く起こしてくれよ!」


「天界では時間の流れが下界と違う。あっちでは一時間そこらしか経ってないから安心しろ」


 それよりも、と。彼は真剣を示すように笑みを控えて、話を続ける様子だ。僕としても無視はできない。どうやって生者の魂が天上に居られるのか。この場を設けて彼が話したい本題とは。彼は一体何者なのか。大まかに以上の三つが気になるところ。


「ユズハさんが僕を殴って、何が起きたんだ?」


「お前は現実を破ることで防いでみせたよ。だが攻防の衝撃によって、お前の魂だけが天界まで吹き飛ばされたのさ。腕力で昇天させるなんて、ユズハさんはやはりしたたか測り知れないなあ...」


 うっとりと惚れ惚れして頬を赤らめる彼は、もしかすると、僕の一部と言える者なのかもしれない。少し方向性がはしたない気がするが、僕と同じくユズハさんを愛しているから。それに、苛立たしい物言いであっても、本気で傷付けることは言ってこないところは好感が持てるし、信用するのも有りかもしれない。


「僕に言っておきたい事があるなら、聞いてやってもいい」


「お前はこれから力を得ることだろう。だが思い上がるなよ。結局お前は凡人なのだから」


「言われるまでもない、当り前じゃないか」


努々ゆめゆめ忘れないよう」


 ユズハさんと共にいるために、平穏を捨てる覚悟はした。でも、生活がどれだけ変わってしまおうとも、僕は極普通の端役はやくに過ぎない。物語ることも無いような平穏な余生が、僕にとって尊い夢だから。爺さんになって、涼風の吹く日向で安楽椅子を揺らしていられるなら、今ぽっくり逝っても悔いはないと思えるだろう。格好良い特別な生涯なんて御免だ。


「お前は僕の何なんだ?」


 投げかけた最後の問に、彼は沈黙してしまう。勿体振っているのか?いちいちうざったい奴だな。そんなに会話での優位を気取りたいのか、痛々しいことだ。内心で軽く毒を並べながら待っていると、彼は片てのひらを上に向けて首を傾げた。


「知らん」


「ふざけるなよ」


「本当だって。自分は何者か、そんな哲学に答えられないのが恥かい」


 詭弁を言い捨て、彼は茶碗の中に余った茶を零してしまった。話は終わりだとでも言うように。気色悪い疑問が残ったままか。得体の知れない寄生虫におかされている心地だ。それも、身体じゃなく人格に宿っていやがる。我の強い奴だったら、不快で堪らず発狂するだろう。


「僕は、お前の、お前ではない一部で、誰かに埋め込まれた属性だ。分かるのはそれだけ」


「全部に答えてくれると期待した僕が浅はかだったな」


「これ以上は雑談になる。さっさと戻るぞ。ユズハさんを待たせちゃいけない」


 ごもっとも。いくら天界の時間が速いとはいえ、無駄に時間を費やしてユズハさんを待たせるのは、一瞬たりとも許されない。彼はさっきまで僕が寝ていた座布団を手で示す。また寝ろということだろうか。僕は従って横になり、眠りに落ちるなりするのを待つ。しかし間に何も置かれることなく、突然に場所が移ったのだった。


「くそっ、冴えない野郎だ。化粧が乗らん」


「見せ所じゃないか。醜夫しゅうふを姉様の寝間には入れられない」


 石畳に敷かれた茣蓙ござの上、牢獄のように暗く薄ら寒い一室に居る。後ろで誰かが僕の上体を起こしていて、さっき家族会議の場で聞いた声だ。気絶した僕に膝枕をしてくれていた優しい青年。もう一方は、僕の顔を無遠慮に触りながら筆を走らせている少年。彼に舌を抜かれた記憶が閃くように思い出された。寝込みを犯罪者に襲われたような恐慌に陥って、自分の瞳孔が開くのが分かった。しかし身体が弛緩して動かない。


「やっと戻ったか。ずっと天界に居れば良かったのになあ。残念、うつつの地獄がまた始まるぜ」


 怯える僕をなぶるように嗤い、スポンジが頬に押し当てられる。目元に線が引かれ、リップクリームが唇を塗る。彼...見た目の年齢からして、ご一家の末子すえこだろうか?僕に何をしているのだろう。いや、化粧だとは分かるが、訳が分からないことだ。まさか、死化粧じゃないだろうな...?いよいよ僕を殺す気か。末子らしき彼の手が止まった。同時に運動神経が活き返り、身体が本調子で動かせそうだ。


「待って!貴方方に嫌われているのは承知ですが――あれ、服は!?」


 不穏な想像に堪らず命乞いをしようとして、また一つ奇妙な状況に気が付く。挨拶のために着て来た礼服が剥がされ、バスローブのような布に包まれていた。男同士とはいえ、二人は浮世離れした麗人だから、平凡な裸を見られてしまったのは恥ずかしい。これもどんな意図か知れないが、考えても駄目だろう。どうせ明るい方には思考が行かない。


「落ち着け義弟ぎていよ。君を姉様の召し物として、綺麗にしただけだ」


「召し物?それに、義弟って...」


「ふん、そうだよ。ボクは認めていないけどね」


 後ろの青年が僕の頭を撫でながら慰めの言葉をかけると、末子はまるで宝玉の隣に転がる石ころでも見る目で僕を侮蔑しながらも、事情を説明してくれる。


「父様は姉様の婚姻をお認めになられた。よりにもよって、貴様風情凡夫とのな。だが、挙式は見送ると仰せだ。当然のこと。我が家に貴様の味方など、姉様の他に誰も居ないと思え」


 それは良かった。無事に僕たちは結ばれることができたと。結婚式を挙げられずとも僕は気にしないが、ユズハさんはどうだろうか。今は皆、僕を歓迎していないけれど、いつかは祝福してもらえるように努力しよう。無謀だって自覚はあるが、二人でならできるかもしれないと思える。


「まあまあ、俺は助けないでもないよ。表情豊かで可愛気あるじゃないか」


「もうっ。兄さんは誰にでも甘過ぎるんだから。そして貴様、都合の良い所だけ聞いていたな?」


 つい浮かんでしまった笑みを見て怒ったのか、末子が僕に詰め寄って睨み付ける。しかし彼の顔はとても綺麗で可愛らしいから、見惚れることはあっても怖がるのは難しい。兄と呼ぶ後ろの彼とのやり取りも、仲良しなのが感じられて微笑ましい。僕の舌を抜いた凶行については、もう赦してあげていいか。


「ちゃんと聞いていましたよ。現状の説明にはなっていないようでしたが」


「兄さんの手で貴様という肉塊を清浄化し、ボクの化粧で美貌に整えたんだよ」


 末子は僕の手に押し付けるように鏡を渡す。そこに映っているのは知らない自分だった。僕の顔は冴えない一般の成人男性で、不細工でもないが決してイケメンではないだろうと認識している。しかし、鏡が映すのは、滑らかな肌に艶めいた唇、くっきりした目を持ち、印象が強すぎない淡い愛らしさの、中性的な麗人に紛いない顔だ。同性の僕からしてもドキリとしてしまって、そこらの女性よりも秀でているように感じる。いや、これは僕なんだった。もちろんユズハさんの美貌は絶対で、他の麗人に惹かれることは全くない。例え自分自身であっても同じだ。


「姉様が夜伽よとぎに貴様を御召しだ」


「は、はい...?」


 頭の中で辞書をめくる。夜伽は、女性が男性から呼ばれて一緒に寝ることとある。しかし僕は、妻の方から相手に求められているという。この家は完全な男女平等なのだろうか。いや、そんな尊い価値観があるとは思えない。“強い奴が偉い”って、そんな所じゃないかな。


「着替えなさい」


 青年が僕を立ち上がらせると、一着のドレスを差し出した。赤を基調として金色を鏤めた、中華と和風を混ぜたような様式だ。それを広げてみると、僕は顔に熱が上ってしまった。


「これを着ろと!?」


 何と言ったものか。寝間着、と呼ぶには淫靡な、夜の寝床でしか使わない類の衣装なのだ。肌も身体の輪郭も露わになるのに、首や臍の辺り、繊細でもない部分が隠れる。こんな煽情的な服を着たら、ユズハさんに引かれないか?


「ボクと兄さんで整えたその姿なら、見苦しからず着れるだろ」


「勘弁頂けませんかね。ユズハさんが喜ぶとは想像し難い」


「それは母様が、姉様の初夜を想って縫い上げた物。是非とも着て行きなさい」


 そう言ったきり、二人は僕に背を向けてしまった。どうしても着替えなければいけないようだ。見てくれを改善されたとはいえ、僕は男だから、嬌羞きょうしゅう誘う服を着せられるくらいなら裸の方がマシと感じるのだけど。仕方ない、僕はユズハさんよりも弱いのだから、謙譲を覚えなければ。


「姉様の寝間に赴き、貴様がすべき事は二つ。互いの指に輪を嵌め、婚姻を成立させること。後はそのまま、寝台で抑えられ襤褸ぼろに成るまで抱かれろ」


 着替えを済ませると、末子がこれからの流れを説明してくれる。不穏な物言いはもう常なのだと割り切ろう。こちらを振り返りもせずに歩き出す二人に、僕は思い切った挨拶をする。


「お義兄にい様方、お名前は?」


 二人が足を止め、少し驚いた目で僕を振り返った。末子は怒りに満ちた笑顔と共に眼光を研ぎ澄まし、青年は感嘆を隠すことなく大げさに目を丸くしている。


「貴様に、義兄ぎけいと呼ばれる筋合いはないが」


「礼儀を欠いては、我が家の品格に泥を塗る」


 胸に手を当て、お義兄様方は厳かに、己の名を詠み上げる。


「【枯葩こは】が末子、甘露華かんろげのクラウド」


「同じく次男、藝華わざばなのタダシ」


「「枯葩家へよくぞ、“コハ”マコト」」


 名前を呼ばれると、本来あるべき僕の将来が奪われたのだと理解した。換わって与えられるのは荷が重過ぎる使命感。コハと上書きされる前、僕の名字は何だったか、忘れてしまった。紛いなりにも枯葩家の一員となったのだ。安楽椅子を揺らす平穏な余生は、一生叶わない幻と消えてしまったかもしれない。

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