麒麟が鹿と結ばれなどしない
「姿勢を正してマコトさん。後に
意識の底まで気絶していた状態から、速やかに覚醒させられていく。聞き馴染んだ淑やかな声に従って
「おはよう寝坊助くん」
挨拶をくれたのは、くすんだ茶の着物を纏い、髪に挿した波型の留め針が印象的な青年だった。着物は一か所にだけ花の輪郭があしらわれていて、よく見ると、極透明なベールが複雑な衣服の様に全身を覆っている。顔立ちは少し中性的で、服装によっては女性と間違えてしまいそう。
彼と一緒に僕を挟む形で、隣にユズハさんが座っていた。僕は高速道路での出来事を思い出すと、現状を確認するべく慌ただしく見回す。足元に座布団が敷かれているのは、歓迎の印だろうか?広い和室、それも、街の一ブロックくらいありそうな畳が敷かれていて、天井は吸い込まれそうな程に高い。空中に花々を模した折り紙が燃え盛って舞い、広過ぎる室内を隅まで余さず照らしている。
ここに居るのはたったの八人。なのに、
「三つ指着けとまでは言わないけれど、正座くらいしてはどう?」
その片、スラックスとワイシャツに沢山の金具を付けた女性が、蔑みに似た同情の目で僕を咎める。礼を尽くそうにも、誰に?尋ねずとも分かることだ。ここがユズハさんのご実家だということは、混乱寸前の頭でも把握できる。部屋の最奥にいらっしゃる彼。あの方こそが魔境の主に違いない。正座をして背筋を伸ばし、丁重に挨拶を掛けようとしたが...言葉が出ない。怖気付いてみっともないと自分を叱るが、違う。話すことを許されなかったのだ。口の中一杯に鉄の味が広がって、堪らず赤いものを垂れ流した。
「凡俗が。薄汚い雑音で会議を貶めるんじゃない」
千切った舌を僕の目の前に放り捨て、もう片の少年が嫌悪を露に嘲り睨む。ユズハさんが護ってくれると思っていたのに...これで死ぬのか?口腔から出血が止まらない。でも不思議だな、痛くない、死ぬのだと実感も湧かない。まるで絵に描かれた悪夢のように、破れば醒める空事に過ぎないのではなかろうか。筆を取って元通りにするか、いっそ全てを塗り潰すか。早くしないと、自画像が死んでしまう。絵具の染みになって、また描き直しだぞ。
「うるさい!知らない奴が、僕に指図するな!」
自分自身が他人行儀で勝手に話しかけてくる、薄気味悪い思考に耐え兼ねた。心の中で叫んだつもりが、舌が動いて放った大声にまた一つ
「
「貴方に言ったのではないですが...」
落ち着きなく足を振る少年は、何故か車椅子に乗っている。いや、印象としてはベビーカーの方が近いか。レースや大量のアクセサリー、パステルカラーのクッションで埋め尽くすよう飾り付けたそれは、只ならぬ雰囲気を醸し出している。彼はもちろん幼児ではなく、中学一年生くらいの見た目だ。半ズボンにストッキング、ブラウスにフリルのサスペンダーというド派手な服装だが、似合って見せる程の秀麗がある。姿は御伽の王子の如く幻惑じみていて、本当にそこにいるのか、自分の目を疑ってしまう。
「会議を妨げてはいけませんよ、クラウド。そしてマコトさん」
やや厳しい声音で少年を叱り、車椅子を降りた彼が目を伏せて謝罪したのを見ると、ユズハさんは僕へ向き直る。彼女の目は思わぬ感情を帯びていた。恐怖。誰もにある感情だが、彼女が抱くならば、何か大事が起こるのかもしれない。どうか杞憂であってくれと願う。
「安全は御約束するものの、私はこの場で、貴方を護ること致しかねる」
「そんな...どういう意味ですか?」
自分を好きなように殺せる者を前にして、庇護が無いならば、命乞いよりも一思いに殺してくれと懇願する方がマシじゃないか。なのに、僕はあくまで安全なのだとユズハさんは言う。信じようが疑おうが変わらない。単純な話だ、僕はユズハさんの恋人として、ご家族に礼儀を示さなければ。
ユズハさんは黙って部屋の最奥を見据えている。僕は座布団から足を除け、死と苦痛に構えて歯を食いしばり、頭を下げた。指を着いて辞儀をするつもりが、緊張の余り全身が倒れ込んで、這い蹲ってしまう。不味いと、起き上がろうとして藻掻くも、巨人の足に踏み躙られているかのようでどうにもならない。親御様の方を碌に見ることもできず、印象は最悪だろうが、止む無く言葉を吐き出す。
「この度はお時間を頂き、心より感謝致します。ご厚意に関わらず不行儀を晒すこと、どうか容赦を下さいませ。私はユズハさんと交際の間に御座います、ニシムラ・マコトと申します。それにつき、誠実な態度をご理解頂きたく参った次第です」
「認識を誤っているようだ」
考え抜いた挨拶を一刀に切り捨てられた。座布団の場は遠く隔てられているが、彼の姿は鮮明に視認することができる。巨大な風格が位置感覚を破壊し、彼方に
「誠実などと傲慢をほざけ。
幾重にも纏った暗清色の装束で
恐怖の余り緩やかに迫る心停止の最期。でも退けない!僕はユズハさんを信じているし、ユズハさんも僕を信じてくれているのだから。情夫なんて、僕たちの関係を侮辱する言葉を、聞き流すものかよ。
「彼女は僕を好きにできました。けれど、強要されたことなんてありません」
「何と。使い物になっておらんのか。玩具の分際で恥を知れ」
反論すると、彼は頭に手を置き露骨な落胆を表した。怒りは冷めたらしく、呆れ果てた目で僕を一瞥し、すぐに離してしまった。次にユズハさんへと険しい目が向けられる。優秀な子供が珍しく犯した失敗を諭すように。
「
「話が進みませんねえ」
あくまで僕を情夫の類と見做す彼に、微かに声を震わせユズハさんが立ち上がった。彼女が明確に怒っているのは初めて見る。それだけ僕は愛されていると、素直に心が温もる。しかし、虫けら相手に機嫌を損なわれることは、やはりなかろう。彼女の父親である彼は、喧嘩が成立する同格の存在であることを意味する。
「幾度と申しましょう。マコトさんは我が夫に迎えます」
「...っ」
驚くことでもないが、ここまで来て実感が湧かずに声が漏れてしまった。才や家柄で、ユズハさんがどれだけ格の違う恋人であろうとも、一歩でも相応しくあれるよう努力してきたつもりだ。付き合い始めてから二年弱、女性にとって短い時間ではないから、結婚のことを考えてはいた。でも彼女の正体の一端を知って、認識が甘かったと思い知った。社会的地位や弱肉強食ではなく、純粋な“チカラ”の階層において違っている。泥中からは見上げることも
「必要なだけ、私たちを試すが宜しい。それを越えられたならば、婚姻を認めて頂きます」
別れるなど有り得ない、家族は自分に従って当然だと言うように堂々と、ユズハさんはユズハさんで一方的な態度だ。静まり返った一同と、反して激しく燃え盛る明かり。危うい方向に流れている気がする。すると、部屋の最奥から少し手前に座る青年が、考え付いたように手を挙げた。黒ずんだ肌色の外套姿で、膿や内出血に病んだ皮膚を想わせる醜怪な衣服。座っている位置からして、長男だろうか?彼の影が明かりの具合を無視して伸び、父の影へと繋がると、彼の姿が父の隣に現れた。そして、何かを耳打ちする仕草。直後に宙の折り紙が燃え尽き明かりが消え、束の間を暗闇が支配した。
「憐れであろうが、覚めた結寿葉を慰んでやろうぞ」
言葉と共に再び明かりが灯される。長男らしき人物は元の位置に戻っており、父は心苦しそうな面持ちでユズハさんへと相対した。この方は憎めないなと思う。僕への散々な侮辱は、娘であるユズハさんを大切にしているからこそ。だから、僕は何かを示さなきゃいけない。その方法が、これより告げられる。
「汝の
「仰せ下さりませ、父上」
「それを殴れ。加減は許さん」
有無を言わさぬ冷徹な命令は、僕の死を絶対的に意味するものだった。本気で言っているのか!?ユズハさんが受ける訳がないだろう。恋人を亡骸も残さず殺してしまうなんてこと。ほら、流石の彼女も怯んで片目を細めている。論外な試練は却下して、困難でも可能な範囲に考え直して頂かないと。
「
「ユズハさん...?」
彼女に腕を引き上げられ、僕はなすがままに立ち上がった。肩に手を置かれると、雁字搦めに締め上げられるように身動きの自由を奪われた。骨身に食い込む縄の幻覚に息もできない。痛くて、苦しいのに...爽快な気分だ。絶叫遊具に乗っているような心地に戸惑う。痛みに親しむ個性なんて僕にないのだが。どうしてしまったんだ?
そりゃあ、こんな事で痛がっては駄目だろう。自分の心配ばかりするなよ。ユズハさんの手、震えているぞ。お前を叩き潰してしまうやもと、彼女だって怖いんだ。恋人として少しは頼もしく、杞憂に済ませて差し上げなよ。
平々凡々な端役に、どんな奇跡を起こせって言うんだ!ユズハさんに殴られたら僕なんて...。
そうだ!お前は凡百の中に埋もれているのが分相応な只人に過ぎない。何ら特別ではなく、才の無いなりに駆け上がろうと言う気概もなく、現状の平穏に座しているだけの常識人だよ。素晴らしい人生観だが、最早これまで通りにはいかない。何の因果か、何者からか、お前は力を施されたんだ。
言っている事が、何も理解できないな。でも、生き永らえる方法があるのなら...平穏が狂ってしまおうと構わない!ユズハさんを泣かせたくないよ。
そうかい。教えてやる前に、一言誓いを捧げておけよ。彼女に貰われて行く身であると弁えてな。
「食い縛って。私と貴方ならば、乗り越えられます」
「お望みの限り、傍に居ります。貴女の物語に、一介の役を賜りて」
「ええ。華ある終幕まで往きましょう」
互いの約束を交わし、ユズハさんは手を振り下ろす。一切の容赦がない彼女の
だが、お前には抵抗する術がある。“
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