4章 1話 You must know yourself

「ジャック」

 ジャックの意識は、誰かが「自分」を優しく呼ぶ声に導かれ、ゆっくりと上がっていく。


 鮮やかな色をなくしていた世界が、明けた。

 刹那、ジャックはハッと強張る。

 眼前に広がる世界は、よく知っていた。いや、知りすぎていると言うべき世界である。


「……実家じゃないか」

 ジャックはポツリと呟き、平然と広がる昔の光景をぐるりと見渡した。


 深い馴染みがそこかしこに染みつき、安堵が空気と綯い交ぜになって温かく漂っている。

 安っぽいカーテンの仕切りもなければ、鼻腔にアルコールなどの薬品の刺激が貫く事もない。

 耳に入るのも、患者達の生活音や医者や看護師達の焦燥ではなかった。

 真ん前からワハハと大勢が同時に笑い出すテレビの音、少し離れた所でカチャカチャと食器を洗う音……ひどく日常的な生活音が。


 ジャックは唖然とした。

 だが、不思議な事に、今の彼の心にはない。混乱や困惑と言った感情はザブンと襲ってくるものだが。自身を囲ってくる真黒に対しては、小さく震える事もなくなったのだ。


 慣れた、と言う事なのだろうか……。

 ジャックは混乱する頭の中で、恐怖を覚えない理性にポツリと投げかけた。


「もう何度、訳の分からない状況に放られていると思っているんだ」

 冷静を保つ理性から、そんな答えが返ってきた気がした。

 そして、見えた気がした。憤然と言葉を紡いでいるのに、その声音はひどく気落ちして弱々しい事が。


 理性と言う今の自分が、どんな風にあるのかを理解すると。ジャックはキュッと唇を真一文字に結んだ。


 いつまでも、呆然としてはいられない。俺は早く、理解しなくちゃいけなんだ。


 真白の世界に佇む自分の背を蹴飛ばす様にして、ジャックは頭を働かせ始める。


 病院から実家に戻った、つまりこの世界もクラウンが引っ張り込んだ世界だろうと思うが。今回の世界は、いつもと少し違うだろう。

 ここは、だ。


 現実か、否かと言う質問からパッと逃れたジャックは、いつの間にか腰掛けていたソファから徐に立ち上がった。


 俺がやるべき事は、この馬鹿げた世界を止め、俺の本来の世界を取り戻す事だ。


「自分は何なのかをちゃんと理解するべきだよ……それが、この世界の止め方さ」

 ジャックの脳裏に、あの時の艶やかな声が蘇る。


 自分は何なのかをちゃんと理解する、そうしたらこの世界は止まる。つまり俺が自分を理解したら、クラウンからようやく解放されるんだ。


 ジャックの胸に広がる闇に、チカッと小さな星が瞬く。しかしその星の瞬きはか細く、今にも消滅しそうだった。


 ジャックは、うーんと深く考え込む。

 自分は何なのかを理解する、か。そんなの、よくよく分かっているつもりなんだが……。


「俺のルーツから深く知っていけ、そう言う事なのか? クラウン」

 クラウンの内で巡る思考になるべく沿う様に、ジャックはボソリと呟いた。


 当然と言うべきか、否か。彼の言葉は、苦しげな独り言となって静かに虚空へ溶け込んでいく。


 ジャックは再び、リビングルームを見渡した。

 生まれ育った家には、幸いにも、自分自身を理解する為のパーツが幾つも存在する。

「ここで答えを見つけてやる」

 馬鹿げた世界を一転させる為の覚悟を結ぶと、ジャックは一歩を踏み出した。


「この世界で最後だ、クラウン」


 ……彼は、気がつかない。

 勇み足で歩き出した彼の背後ある、壁に飾られた十字架が、ゆっくりと逆さになっていく事に。

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