2話 His mother says……

 リビングルームを出たジャックは、真っ先にカチャカチャと食器がぶつかり合う甲高い音の元へと向かった。


 ジャックの足が前に進む度に、カチャカチャと弾ける音はドンドンと大きくなっていく。

 故に、ジャックは確信を持ち始めた。この音の出所は、キッチンだと。


 キッチンに誰か居る。恐らくマムだろうが、この際だ。マムじゃなくても、ダッドでも良い。

 取り敢えず、キッチンに居る誰かを見て、聞いてみよう……今の俺は、どんな奴なのかを。


 そうして廊下とキッチンを繋ぐ境目に立つと、カチャカチャと忙しそうに食器を洗う、ふくよかな女性を目にする。身長はジャックの頭二つ分程低いが、ジャックよりも横に広さがあった。


 女性は誰かが来た気配を感じ取ったのだろう。「ジェイソン?」と手を止めて、向けられる視線と自身の視線を交錯させた。


 パチリと視線が重なる。

 ジャックは「相変わらず、目元と口元がそっくりだ」と、彼女の相貌を見据えながらしみじみと思った。

 しかし、彼女からしたら「やっぱり、目元と口元は似ているわね」と、思う事だろう。


 ジャックは「マム」と彼女を親しげに呼び、キッチンの中へと足を踏み入れた。

 ジャックの母・デイジーは「あら、ジャックの方だったのね。ジェイソンの方かと思ったわ」と、軽やかに答えてから、止めていた手を動かし始めた。


「どうしたの? 何か取りにでも来たの? 言っておくけれど、おやつのシフォンケーキはまだ焼けていないわよ」

「違うよ。マム」

 ジャックは小さく首を振り、彼女の横に立つ。


「聞きに来たんだ。今の俺は、どんな奴なのかって」

「えっ?」

 横から投げられた唐突且つ不自然な問いに、デイジーはピタと止まった。そして怪訝でぐにゃりと歪んだ顔を向け、「どういう事?」と自身の困惑をぶつける。


 ジャックは自分に向けられる全てをまっすぐ受け止めながら、「そのままだよ」と毅然と言った。

「俺は、今までどんな奴だった?」

「……なんで、急にそんな事を聞くのよ?」

 デイジーは「本当にどうしちゃったの?」と言わんばかりの眼差しを向ける。

 ジャックはその眼差しに「良いから、早く」と、剣呑な視線を返した。


 デイジーは積み重なる怪訝を解く事を辞め「分かったわ」と頷く……が。

「でも、何を言ったら良いの? 私から取り立てて言える事なんてないわよ。だって、貴方、昨日帰省したばかりだから。今の貴方の暮らしぶりなんて分からないし、対人関係だって分からないわ」

 ……昨日、帰省したばかり。

 勿論、そんな記憶はない。と、ジャックは内心で静かに独りごちてから「退院した、とか言ってた?」と、尋ねた。


 デイジーは「いいえ」と首を振ってから、キュッと険しく眉根を寄せる。

「貴方、どこか悪かったの?」

 声に乗せられる怪訝の色が、ガラッと変わった。

 それは隠されていた事の怒りでもあり、ひどく重々しい不安に駆られている心配でもあった。


 ジャックはばつが悪そうにたじろいでから「違うよ、もしもの話さ」と言い訳を取り繕う。

「本当だよ、マム。単なる仮定の話だから、心配しないで。まぁ兎も角さ、今の俺は休暇中だから実家に居るんだね?」

「えぇ、そうよ」

 デイジーは眉根を寄せ、目を側めたまま答えた。


 ジャックは「そう」と軽く頷いてから「ハンナも一緒に?」と、素早く次に移る。


「違うわよ」


 ……嗚呼、そうか。ここでもハンナは、俺の妻として存在しない女性なんだな。

 ジャックは「クソ」と奥歯をキツく噛みしめる、が。


「ハンナちゃんは、明後日くらいの飛行機で来るんでしょう? ハンナはまだ仕事があるらしいから、俺だけ先に来たんだって言っていたじゃない」

 淡々と告げられた真実に、ジャックはギョッと驚いた。


「ハンナは俺の妻として、この世界に居るのか? !」

「……結婚して二年目位なのに、まるで新婚みたいな言い方をするのね」

 それ程仲が睦まじいって事でしょうけど。と、デイジーは目の前から飛んだ「頓狂」な驚きに、やれやれと大仰に肩を竦めた。


 だが、呆れる母の一方で、ジャックは歓喜と安堵の間をわっぷわっぷと漂っていた。


 嗚呼、良かった! やはりハンナはあんなビッチ女じゃなかった。ハンナはちゃんと、俺の妻として存在する女性なんだ! 良かった、本当に良かった! しかも結婚して二年目位、と来た! 俺が元いた世界と、全く同じだ!

 そう言えば、実家の内装もマムの容姿も俺のよく知る頃と全く同じだな!


 ジャックは大きく快哉を叫び、安堵で胸を大きくなで下ろす。

 だが、胸がホッと下がっていくと共に、じわっと黒い何かが滲み出した。


 ……ちょっと待てよ?

 この世界。俺の記憶にある世界との齟齬が、一番少なくないか?


 今まで飛ばされてきたどの世界よりも、現実味が強い。その真実が、ジャックの頭の中に「まさか」を打ち出した。


 いや。そんなまさか、とは思うが……この世界は、俺の本来の現実世界ってやつなんじゃないか?


 ジャックは自分の中にポツリと生まれた考えに、直ぐさま「いやいや」と、首を横に振った。


 牢獄から、いつの間にか逃れたあの世界だって、結局はクラウンが現れた。つまりクラウンの世界ってやつだったじゃないか。

 平穏だ、元の世界に戻ったと思う時にこそ、クラウンが現れて俺の現実を打ち砕く。


 そうだろう? と、ジャックは導き出された儚い希望をぽいとゴミ箱へと放り投げた。


 そうして「うん、そうだ。そうだ」と淡い希望を鎮めてから、「マム」と怪訝やら呆れやらを浮かべる母と対峙し直す。


「あのさ。今までの俺の口から、クラウンの話は出た事はある?」

「クラウン? あら、また随分とを言いだしたわねぇ」

「何だって? !」

 デイジーの朗らかな答えに、ジャックは愕然とした。


「懐かしい? ! 懐かしいって、どういう事だよ!」

 自分の内からボンッと驚きが弾ける。


 デイジーは急に飛ばされた大声に面食らいながらも「えぇ」と、微笑んで首肯した。

「ほら。貴方、小さい頃、ずっと好きだったじゃない。口を開けば、クラウンが~、クラウンがね~って、クラウンの事ばかりで。あ、そう言えば、描く絵もクラウンばっかりだったわね」

 懐古に耽ながら、うふふと柔らかく口元を緩めるデイジー。


 そんな彼女の一方で、ジャックの顔はみるみる引きつっていく。死を緩やかに迎えていく者よりも急速に青ざめ始め、ぐらぐらと左右に揺らぐ瞳は真黒に染まった。手足に巡る神経が働くのをピタと辞めたせいで、スウッと感覚が薄れていく。


 何もかもが真黒に飲み込まれかけるが。ジャックは、何とかその場に屹立していた。胸にゾクゾクッと広がる、冷酷な炎によって。


 しかしいつまでも身体を冷たく燃やす真実には耐えきれず、遂にジャックはよたり、よたりとたたらを踏み始めた。


 ど、どう言う事だ。小さい頃に、すでに俺はクラウンと出会っていた? しかも、好きだった?


 そんな、馬鹿な……そんな事がある訳がない。

 何故なら、からだ。


 でも、マムの口ぶりからすると、すでに俺は確かにクラウンと出会っている様だ。

 あんなに記憶に刻まれる存在を忘れるなんて事は、絶対にないだろう。スポンジの様に何でも強く吸収してしまう幼少期の脳であれば、殊更だ。


 ジャックは内心にぶわりと並んだ言葉にゴクリと唾を呑む。

 じわじわと食道を這い進む唾は、たらりと垂れ下がった。そしてまるで「蜘蛛の糸」の様に、内側の闇に飲み込まれるジャックに救いを与える。


 ジャックはその手を掴むが、すぐに「わっ!」と手を離した。

 チクチクと棘が並び生えていたばかりか、触れたら皮膚からじわりと侵食する猛毒が孕んでいたのである。


 ……垂れ下がる蜘蛛の糸は、救いではなかったのだ。

 だが、彼は、しっかりと触れてしまった。


 ジャックの内で、凄まじく恐ろしい「真実」がぐわっと襲いかかる。


 ジャックはぶんぶんと頭を振って、襲いかかるものから逃れようとした。


 そんなまさか、だ。嗚呼、まさかだ。そんな事、ある訳がない。

 クラウンの狂気は幼少からすでに始まっていた、なんて……。


 ジャックはギュッと唇を噛みしめ、くらりと抜けかかる自分を律した。

 それでも彼の身体はぐいっと下に引っ張られ、どさりと崩れ落ちてしまう。


「ジャック!」

 デイジーの悲鳴が弾けた。

 ぐらぐらと焦点の合わない世界に、心配そうに窺うデイジーの顔がゆらりゆらりと幾度も映り込む。


「どうしたの、ジャック。大丈夫?」

「だ、大丈夫。大丈夫だよ」

 ジャックは訥々と答えると、ゆっくりと立ち上がった。自分を慮る母の手を借りず、抜けそうになる力をグッと留めて、一人でゆっくりと……。


「ねぇ、ジャック。貴方、本当に大丈夫なの? とても大丈夫そうには見えないわよ」

「大丈夫、大丈夫だよ。ありがとう、マム」

 本当に大丈夫だから。と、ジャックはおろおろと慮るデイジーに取り繕った笑みを見せた。


「溜まっていた疲れが急に来たみたいだ。だから俺、ちょっと休む事にするよ」

「え、えぇ。そう、分かったわ。ゆっくりお休みなさいな」

 あとで、ホットミルクでも運ぶ? と、デイジーはふらふらと廊下の方に向かって行く息子の背に問いかける。


 ジャックは「いや、いらないよ。ありがとう、マム」と、弱々しく答えた。

 自分の進む方向だけをまっすぐ見据え、歩を止めないままに。


 ジャックはギュッと唇を強く噛みしめたまま、一歩を確実に刻んだ。


 そうか。実家に鍵があるんじゃない。

 実家に残ったままの、俺の過去に、鍵があるんだ。

 この狂った世界を止める為に、何としてでもソレを見つけないと……!


 ボッと燃え盛る炎の如く、強い決意が宿った瞳に、あの笑みが浮かんでいた。

 朗らかながらも、冷酷な恐怖が鮮明に存在している、彼の笑みが。

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