第一章 6

 大家は先にマンションの前で待っていた。

「桝野さんになにかあったんですか?」すぐにそう尋ねてきた。

「いまはまだ詳しいことは言えません」滝本はすげなく答えた。それでも大家は嫌な顔をしなかった。ここから車で五分ほどのところに住んでいるらしい。終わったら鍵を持ってきて欲しいと言われた。

 401号室は角部屋だった。1K7畳の部屋だ。玄関を入るとすぐに扉が二つある。バスとトイレだろう。短い廊下を進むと内扉があって小さなキッチンと部屋がつながっていた。部屋のは窓が二つ。小さなベランダに続くそこそこ大きな窓と部屋の奥にある小さな窓だ。その小窓のそばには机が置かれていた。木製の机ではあったが、そこまで値の張るものでもなさそうだ。その机の上には書類が積み上がっていた。机の脇には本棚、壁伝いには小さなクローゼットとキャビネットが置いてあった。座卓が畳んで立てかけられていて、布団も畳んでその脇に置かれていた。

「ベッドじゃなくて布団派か」滝本がそう呟いた。そして滝本はキャビネットを開けて何やら探し始めた。

 箕島は机のそばに寄る。積み上がっていた書類を手に取った。難しい記号が書かれていた。そういえば桝野は理系だったと思い出す。

 その書類には細かい字で丁寧に書かれていた。授業で使うものだろう。桝野は準備を怠らない奴だった。箕島はそれを手に取りながら、学生時代の桝野とのことをを思い出していた。

 桝野の家と箕島の家の距離は歩いて10分ほどの距離だった。小学校の頃から一緒に遊んでいた。その頃は桝野も活発な子どもだった。中学に入ると箕島は剣道部に入り、朝から晩まで部活に明け暮れた。桝野は運動部には入らなかった。なんの部活だったかも覚えていない。桝野はとにかく頭がよかった。桝野は余裕で箕島はギリギリで同じ高校に進学した。箕島は高校でも剣道に明け暮れた。大学には推薦で進むつもりだった。だが担任から「これ以上点数が下がると推薦枠から外れるぞ」と告げられた。それで箕島は桝野に泣きついた。桝野はその頃から教えるのは上手だった。その頃によく二人で将来の夢について語り合った。箕島は刑事に、桝野は学者になりたいと二人で恥ずかしげもなくよく話していた。箕島は桝野ほど頭がよかったら学者になれるだろうなと思っていた。

 箕島は桝野のおかげで推薦で入学できることとなった。桝野も無事第一志望に入学することとなった。桝野が京都に行く前に二人で最後に会うことにした。くだらないことを遅くまで話し、夢を叶えたら絶対会おうと言って別れた。それから桝野には会っていない。箕島は大学に入ってすぐに実家を出た。それから警察官になりほとんど実家には帰っていない。まさかすぐ近くの桝野の家がそんなことになっているなんて考えもしなかった。


「──おまえさんも感傷に浸ってないで、なにか探せ」

 滝本の声で我に返る。慌てて振り返ると、滝本は箕島に背を向けたままクローゼットの中を漁っていた。

 どこを探せば……箕島は机の引き出しを開けてみた。そこには仕切られたトレーの上にきちんと仕分けられた文房具が入っているだけだった。

「うーん。おい、さっきの話はどう思う?」

「さっき?」

「桝野の彼女の話だ。結婚秒読みだった男が、突然フラれてヤケになってやったって筋書きも考えられるだろ」

 それは……どうなんだろうか。「いや。そんなことでやりますかね。仕事も失ってっていうならわかりますけど、仕事は順調だったわけですし」

「オンナに溺れてたってのもあるぞ」

「まあ、なくはないでしょうけど。だったらそのオンナに包丁向けるほうが早くないですか?」

「おまえさん、意外と物騒なこと言うんだな」滝本は目を丸くした。「だがそれは俺もそう思う」滝本はクローゼットの扉を閉めながら言った。「結婚するとかしねえとか以前にこの部屋にはオンナの痕跡が全くねえ」

 滝本は自分に言い聞かせるように呟くとキッチンへ向かった。

 滝本がキッチンを調べている間、箕島は机の上の書類の山を一枚ずつ確認していた。なにか手掛かりになるような走り書きでもあればと丹念に探す。そこからオンナの情報に繋がるような何かが見つかるかもしれない。だが授業に関係するもの以外は全く見当たらなかった。

 箕島がひと通り調べ尽くして顔を上げると、滝本はすでに風呂とトイレを調べていた。

「なんもねえわ」滝本は何か考え込むように戻ってきた。「それにアレがない」

「アレ?」

「パソコンだ。俺くらいの歳でも持ってるのに、この部屋にはそれが見当たらねえ。おまえさんくらいの年齢なら持ってて当たり前だろ?」

 確かにこの部屋にはテレビもラジオもない。スマホで代用していたとも考えられるが、パソコンの一つもないのは仕事のことを考慮しても不自然だ。誰かが持っていった? なんのために?

「なあ、この部屋を見てどう思う?」滝本が突然箕島に尋ねた。箕島はゆっくりと部屋を見回す。男の一人暮らしにしてはかなり綺麗だ。桝野は部屋を学生時代から綺麗にしていた。だが──

「そもそも昔から部屋は綺麗にしていました。けどなんというか掃除した後って感じがします」

 箕島の答えに満足したように滝本は頷いた。

「俺もそう思った。机の上に積まれた書類とか台所の水切りラックに置かれたコップだけ見れば、犯行は衝動的に行ったと思うかもしれない。だが奴はそれも計算ずくで片付けていったんじゃねえかなって。冷蔵庫には生ものは一切入ってない。生ごみもない。自炊しない男がいくつも使い込んだ鍋を持ってるか? 箸は通常使われてるものはひと組。あとは菜箸を使ってる。客用の箸は別にしている。洗面所には歯ブラシが一つ。シャンプーは男性用。トラベルセットやホテルのアメニティの類は皆無。風呂に使いかけのバスタオルはなし。俺にはこの部屋の後片付けをする奴に気を使ってるとしか思えねえ」

「となると──パソコンは自分で片付けていった?」

「たぶんな。データを消去して売っぱらったか捨てたか」

「じゃあパソコンには何か重要な手掛かりが残ってた?」

「恐らく履歴を調べられないようにだろう。計画的だったとなると、話が一気に変わってくるだろ?」

「たとえば」箕島は思いついたことを口にした。「依田に恨みのあるどこかで借金をしていて、その返済のために頼まれたとか」

「ねえな」滝本はそれをあっさり否定した。「暴力団の組の幹部だぞ? シロウトにやらせるとは思えん」

「でも一人で歩いてたんですよね?」

「それを知ってたら余計にプロに頼むわ。そのほうが確実だ」

 さすが二課の暴力犯係だと箕島は思った。確かにそれだと失敗したほうがややこしい事態になるだろう。

「まあ、仕方ねえ。ここはとりあえず引き上げるか。いい時間だし、飯でも食いに行くか」

 駅前の居酒屋に聞き込みに行くということだろう。

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