第一章 5
「それで母親はいま?」滝本は母親の所在を確認した。
「こちらに拠点を移す話が出た頃に亡くなりました。それで私たちと一緒に来てくれたんです」
「母親の介護ってどこか悪かったんですか?」
箕島の問いに東堂は口ごもった。「それは必要なことでしょうか?」
「ええ」間髪入れずに滝本は答えた。箕島は単純に驚いて尋ねてしまったのだが、滝本はそうではなかったようだ。
「桝野さんの大学時代にどうやらご両親が離婚されたようで、お母様は桝野さんと一緒に暮らすようになったそうです。ただ──いろいろあって精神的に弱っていた上に知り合いもいない土地でしょう? どうやら精神的に病んでしまったらしいんです。それがちょうど就職活動の時期でしたか。それから若年性のアルツハイマーになられたようで、目が離せなくなったと言ってました。最期は心筋梗塞で亡くなったと聞いています」
「桝野さんはこちらではどんな様子でした?」滝本は淡々と続けた。
「桝野さんはもとは横浜出身でしたよね。ちょっと違う雰囲気だけど懐かしいって言ってました。こっちのほうがのんびりしてて性に合ってるとも」
「では急に退職を希望されたと? なにか変わった様子はありませんでしたか?」
そうですねえ。東堂は少し考え込んだ。なにかを思い出そうとしてるようだった。
「そういえば、なにか考え込んでるようでしたね。名前を呼んでもうわの空って感じで、何度か呼ばないと気がつかないこともありました。それから──」
東堂はそこで言葉を切った。そしてまた考え込んだ。今度は言うか言わずか悩んでいるようだった。
「彼女、とまではいいませんが、親しくしてる女性が出来たようです。私が直接見かけたわけじゃありませんが、ウチの講師達が二人で親しげに飲んでる姿を何度か見ています。だから辞める理由はそれかと思ったんですよ。桝野さんは社員ではなくあくまで外注というか歩合扱いだったんです。さすがに介護で頻繁に休まれるのに社員にするわけにはいきませんでしたので。でもそれももう心配ないわけですし、何度か社員にならないかと打診したんですが、その度に断られました。歩合のほうが手取りがいいからって。でも結婚するとなると違うじゃないですか。やっぱりお相手は社員になって欲しいと思うでしょうし。だから社員にならないかって先日声をかけたばかりだったんですが」
「辞める理由は他の塾に引き抜かれてということでしょうか?」
「それはないと思いますが……正直ウチは業界でも最高水準の給与を出してるんです。それはこちらに移ってきてからは難関校に挑戦したい裕福な家庭の子どもさんをターゲットにしているので。正直料金は安くはないです。その代わりきめ細やかな対応で合格率も他とは比べものになりません」
「なるほど。で、その女性なんですが。こちらの塾に関係する方ではない?」
「ええ。見かけたこともない女性だと聞いてます」
「どなたか見かけた方から話が聞ければいいのですが」
滝本がそう告げると、東堂は少し待つように言って出て行った。そして受付で対応してくれた女性を連れて戻ってきた。彼女は何度か二人を見かけたという。
「私も彼氏を一緒だったんであえて声はかけなかったんですけど、かなり親密な感じでした。背の高い綺麗な女性でした」
滝本は頷きながら女性の詳細な外見を尋ねた。
「そうですねえ。年齢は三十五歳くらいでしょうか。巻いたロングヘアで爽やかでお洒落な感じがしました。ダンガリーのシャツに白い細身のパンツ。ああその時は綺麗なブルーのパンプスを履いてました。別な時はブラウンのニットのロングワンピースに白いスニーカーでしたね。私もああいう格好がしたいって言ったら、彼氏にちっちゃいから似合わないだろって言われたのを覚えてます」
「な、なるほど」滝本はそのへんはあまりアテになりそうもないので、箕島がきっちりメモしておく。
「結婚してる、って感じではなかった?」
「え! 不倫ってことですか!」彼女は声をあげた。そしてすぐに口を押さえ首を捻った。
「たぶん。ないんじゃないかな……分からないですけど。不倫だったら藤沢の駅前の居酒屋で飲まないと思います」
滝本は礼を言ってその場はそれで終えることにした。大家との約束の時間が迫っていたというのもあった。詳しいことがわかったら必ず連絡すると伝えるのを忘れなかった。
車に乗り込む際に「困ってる時に声をかけるなんていい人達じゃねえか。桝野も助かっただろうに」滝本はふいにそう言った。その人達に桝野が人を刺したということを箕島は告げられなかった。だがいつかは告げなければならない。
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