第一章 4
桝野の住むマンションは藤沢駅から徒歩十五分のところにあった。八階建てのグレーのマンションは築二十年経っているとは思えない外観だった。耐用年数を考えればそう古いほうでもないのかもしれない。エントランスには運よく掃除をしている管理人がいた。滝本が声をかけ、桝野の部屋に用事があると伝えた。管理人はすぐに管理会社に電話を入れた。管理会社はよくある不動産屋の関連会社で、すぐに答えが返ってきた。
「大家さんが近くに住んでるので連絡しているそうです」
不動産屋は合鍵を持っていないという。大家は外出先で夕方には戻ってくるという。待ち合わせ時間を決めてその場を後にした。
「職場は確か駅前だったな」車に乗り込むと滝本はすぐにそう言った。
全てが滝本のペースだった。箕島はただ後ろからついて行くだけだ。
「あの」
「なんだ?」
「滝本係長に聞き込みまでやらせちまうのは申し訳ないっていうか」箕島は口ごもった。滝本はそれにすぐには答えなかった。
「なんだおまえ。気がついてなかったのか?」なんのことだろうか。滝本は箕島に顔を向けることなく続けた。
「昨夜の事件について自首してきた男の名前はまだ発表されてない。あくまで犯人は捕まったので心配することはないというアナウンスをしただけだ。刺されたのは暴力団員。組絡みなのかどうなのか慎重に捜査してるってことになってる。それなのにいきなり南中央署を名乗られたら聞かれたほうは事件と結びつけちまうだろ」
桝野の名前を発表していない? それは間違いなく鈴木が提案したことだろう。何故だ? 理由は──?
「依田が最近藤沢に出入りしてるって話はあちこちで聞いてる。本格的に藤沢に出張ってくる前になんとかしたいと思ってはいたが、そうそううまいこと尻尾を掴めなくてな。まあ、鈴木さんは俺がそう言ってたことを思い出したんだろ」
なるほど。どうやら鈴木は思惑があって箕島のことを滝本に持ちかけたようだ。
桝野は駅前からすぐのところで塾の講師をしていた。警察が来るということを予想していたらしく、受付に話すとすぐに奥の部屋に案内された。そこは会議用なのか事務的な長机がコの字型に並んでいる小さな部屋だった。
「この塾の責任者をしております
部屋に入ってきた四十代と思われる男性が名刺を差し出した。そこにはこの塾の名前と肩書きとして取締役と書かれていた。
滝本は簡単に名乗ったあとすぐに「ここの経営者の方ですか?」
「ああ。取締役って書いてありますけど実際の経営者は兄がやってます。私は現場の責任者という感じですね。どの塾にどの講師の割り当てるとかスケジュール管理が主な仕事です。講師と授業の進め方の打ち合わせなどしたりもします」
「どの塾?」
「ええ、藤沢の他に大船や鎌倉、茅ヶ崎なんかにも教室がありますから」
大船。桝野は大船にも行っていたのだろうか。
「桝野さんのことですよね?」東堂はすぐにそう言った。「桝野さんからは以前から辞めたいと相談がありました。けどずっと長く一緒にやってきていましたし、評判もよかったですからこちらが引き留めていたんです。それが昨晩急に電話で明日からもう行けないって。そんな大切なことを電話で言うタイプでもなかったので、何か厄介ごとに巻き込まれたのではないかと思って心配してました。まさかとは思いますが」
「大丈夫です。彼は元気ですよ」滝本はそう答えた。
「長くってどれくらいからここで?」箕島は堪らなくなって口を開いた。
「実は三年前にこちらに拠点を移したんです。それまでは京都に本社がありました。この塾はもともと京都で始めたんです。それから東京に進出して。で、結局こちらに落ち着きました。桝野さんとは京都時代の草創期から働いてもらってます」
その話を詳しくと滝本が伝えると、東堂は椅子にかけるよう勧めた。座ることすら忘れていた。箕島は自分がいつもより焦ってるのかもしれないと自覚した。
「桝野さんは大学時代にバイトで講師をしてもらったのが最初です。それから就職で一旦契約は終了しました。それから三、四年してからでしょうか、道でばったり会いまして。どうやら会社を辞めて、お母様の介護をされていると。それで日雇いの仕事をやっていました。お母様の体調が悪いと休まないと行けないとかで決まったバイトは選べないっていうんで、だったらウチに戻って来ればって誘ったんです。その頃はまだ勉強について行けない子どもの個別授業もやってましたから。それに桝野さんが休みの時は私か兄のどちらかが代わりに入れましたし」
母親の介護で会社を辞めていた。箕島はメモの書く手が止まった。桝野は箕島の実家の近所に住んでいた。いつの間に一緒に住んだのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます