第一章 2

 取調室の扉が開いたのにも気がつかず、箕島は肩を叩かれて我に返った。顔を上げるとそこにはベテランの熊楠くまぐすが立っていた。身体も大きく名前のように熊のような男だ。だが怒らせなければ穏和でなんでも教えてくれる先輩だった。

「交代」

「い、いや」

「係長命令だからな」

 箕島はもう一度桝野に目を向けた。桝野は薄く笑いながら、下を向いていた。

 熊楠は容赦なく箕島を追い出した。取調室の前で立ちすくむ。桝野が? そんな馬鹿な。箕島は音を立てて歩き始めた。

 一課の部屋に戻ると、係長の鈴木が涼しい顔で眼鏡を拭いていた。太鼓腹で暑がりなわりにラーメン好きだ。きっと今もラーメンを食べて戻ってきたに違いない。

「係長」箕島は鈴木のもとに真っ直ぐに向かった。

「どういうことですか? 取調べは俺がやれって言われてましたけど」

「ああ、うん。そうだったね」鈴木は何食わぬ顔で答えた。そして念入りに拭いた黒縁の眼鏡をかけた。「でも箕島くんと知り合いでしょ?」

 鈴木にそう聞かれて箕島は一瞬躊躇した。

「え、ええ。まあ。でも俺なんか生まれも育ちも横浜なんですから、そんなこと言ってたら知り合いばっかで取調べなんて一生出来ませんよ!」

「うん、まあねえ」鈴木は愛用のサスペンダーの位置を直しながら答えた。鈴木はたいがいワイシャツにスラックス。そしてサスペンダーは欠かさない。

「でも加藤くんがね『あんな箕島さん見るの初めてだ』って。深い知り合いじゃないかってね。それだと手心を加えちゃうでしょ?」

「手心もなにも。桝野は自分がやったって。むしゃくしゃして殺すつもりで刺したって」

のとむしゃくしゃして包丁を振り回してたらあたってしまったじゃ全然違うのは知ってるでしょう?」

「そりゃ知ってますけど……まさかそう誘導するとでも?」

「しないとは限らないよねえ。しかも相手は暴力団構成員。ヤクの元締めだ。そうそうどうやら命に別状はないらしいよ。まだ意識は取り戻してないみたいだけど」

 箕島は舌打ちをしそうになって、いったん固く唇を結んだ。そしてゆっくりと口を開いた。

「心外です。そんなことはしません」

「犯人はすんなり自供してるんでしょ? だったら問題ないじゃない」

 箕島はしっかり資料を読み込んでおけばよかったと後悔した。そうすればこの違和感についてもっと説明できただろうに。鈴木はどこからか椅子を引っ張ってきた。座れということだろう。箕島は力なく腰をおろした。


「──桝野とはどれくらい会ってない?」

「高校を卒業してからですから、かれこれ十二年になります」

「十二年も会ってなかったら人だって変わるよね」

「でも! 彼は京都の国立大に入ったんです。それなのに」

「どんなに頭がよくてもやる時はやるよね」鈴木が言ってるのは薬物のことだろう。確かに頭の良し悪しで決まるものじゃない。

「まだ桝野がヤクをやっていたとは決まってません」

「じゃあ箕島くんは供述通りってのを信用するわけかい?」

「いや」箕島はそれを聞いて頭をフル回転させる。誰でもよかったのならどうして奴なのか。相手は写真で見る限りどこからどう見ても普通のサラリーマンには見えない。むしろ分かりやすいくらいその筋に見える。誰でもいいって言うなら普通ならもっと弱いものを狙うんじゃないだろうか。あの時間帯の南太田駅ならそれこそ学生や女性だっていただろう。それなのにわざわざ強面に向かっていった? それによく考えたら南太田っていうのも解せない。誰でもいいなら自分の住んでる最寄駅に行けばいいだろう。それに藤沢なら東海道線・湘南新宿ライン・小田急江ノ島線それに江ノ電だって走っている。それなのに何故アクセスの悪い南太田なんだ?

「まあねえ。確かに違和感がないわけじゃないんだよねえ」

 箕島が慌てて顔を上げると、鈴木は資料を手に取り丹念に眺めていた。

「何故、奴を刺したのか。何故南太田だったのか。そういうとこだろ?」

「そうですね。気になります。仮に奴を刺したのが怨恨だったとしても南太田ってのが気になります。桝野は奴が南太田に一人で行くのを知っていたということになります。構成員の情報を桝野が知るのは難しいのではないかと」

 なるほどねえ。鈴木はそう呟くと、資料を穴が開くほど見つめた。

「共犯──あるいはその情報を流した奴がいるってことだな?」鈴木の問いに箕島が頷いた。鈴木はしばらく無言で何かを考えているようだった。箕島は黙って待った。こういう時の鈴木はもの凄く頭を使っている時だ。そして稀にとんでもない指示が出る時がある。たいがいそれは意外な結果に覆る。

「──三日。どんなに待っても三日だ。72時間のうちに何か見つけてこい。はっきり自供してるんだ、その後はすぐに方針が決まっちまうかもしれない。何かがあれば勾留期間を最大限利用すりゃ結果は変わるかもしれない」

 鈴木は何かを思うところがあるようだった。

「はいッ」箕島は思わず立ち上がって頭を下げた。


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