第一章 1

 箕島みのしまは昼間でも薄暗いリノリウムの廊下を、わざと音を鳴らしながら歩いた。ここのところ忙しくて、ろくに睡眠時間も取れていない。それで昼間の休憩時間はその時間に充てていた。それなのに無理やり叩き起こされた。暴力団関係の事件だと聞いていた。だとしたら自分の担当の範疇ではない。そう思っていたのに。機嫌が悪くなるのも当然だった。

 横浜南中央署。横浜市南区を一手に担う。南区は横浜市の中心である中区の南に位置する。横浜で西区に次いで二番目に小さな区であるが、人口密度は一位を誇る。大岡川沿いを中心に早くから拓かれてきた地域だ。昭和三十五年頃から住宅団地ブームが起こり開発が行われ人口が増加した。それに伴って交通手段も発展してきた。歴史ある場所だ。だがそのせいか当時の道路事情が色濃く残り、曲がりくねった細い路地が残るところも少なくない。また高齢化も自治体の大きな課題だ。犯罪率も県内でも少ない地域だった。だが最近では少し事情が違ってきたようだ。

 箕島は刑事第一課強行犯係に所属する。強行犯係は殺人・強盗・傷害など凶悪犯を担当している。最近では年配者を狙った強盗が増加しているのが頭が痛いところだ。交番勤務を経て五年前に昇進試験を経て、憧れの刑事となった。最初に配属されたのがここ南中央署だ。刑事として慣れてきたものの、ベテランの域にはまだまだ達していない。今はまだ何事も経験だと先輩刑事にいいように使われている。だがそれは着実に箕島の糧となっていた。刑事になった時のお祝いで買ったダークネイビーのスーツは、すっかり身体に馴染んでいた。汚れが目立たないようにと薄いグレーのワイシャツを選ぶことを覚えた。明るいマリンブルーと白のレジメンタルタイだけは、そろそろ箕島には似合わなくなっていた。それは目つきも鋭く刑事面した者ではなく、もっと若くて溌剌とした若者に似合うものだ。


 管轄内にある京急線の南太田駅で男が刺された。午後六時。帰宅する人々で改札口は混んでいた。そんな中でふらりとあらわれたものがその男を刺したという。公衆の面前でおこなわれた犯行であったが、周囲はパニックとなり犯人は逃走した。刺したのは男性らしいということしか掴めていなかった。だが逃げきれないと思ったのか、ほどなくして自首してきた。刺された男は中区の若葉町に事務所のある組の構成員だった。組同士の抗争かと思いきや、刺したのは組とは全く関係ないカタギだという。それで急きょ一課の強行班にまわされてきた。

 詳しい事情も分かってないのに、本来ならそのまま二課の暴力犯係が担当すべきだ。だがいま暴力犯係は大きな案件の山場を迎えている。それで殆どの人員がそれに割かれていた。忙しい時は手を貸す。頭では理解していたが、それでも連続強盗犯の案件を終わらせたばかりで溜め息をつかずにはいられなかった。

 箕島は長くなった前髪をかき上げた。いつから散髪に行っていないのか。それももう思い出せなかった。取調室の前で立ち止まって、手に持っていた資料を確認する。どうせ同じ沿線なら日ノ出町か黄金町駅でやってくれよ。箕島は心の中で毒づいた。そして溜め息をつくと、取調室の扉を開けた。

 取調室の事務机の前でその男は静かに座っていた。そして今日の相棒の加藤が机の脇に立っていた。箕島が部屋に入ると加藤は軽く頭を下げた。加藤は刑事になって二年目だ。まだ新人癖が抜けず少々チャラついたところはあったが、それでも仕事は間違いなくこなす将来有望な後輩だった。

 箕島は椅子を引き、男と向かい合わせになるように座った。男は何故かぼんやりと側面の壁を見ていた。書類を見ながら声をかけた。

「えっと、アンタが自首してきたって人?」まずは軽く話しかける。だが男は反応を示さなかった。刺された構成員はヤクの売人の元締めと噂される男だった。もしかしたらこの男もヤクの常習者かもしれない。だとすると証言を引き出すのに少し厄介だと思った。箕島は心の中で舌打ちをする。

 チラリと男を見た。こざっぱりと切り揃えられた髪には、白いものがちらほらと混じっていた。身につけた白いシャツは清潔なものだったが、サイズが合っておらずまるで借り物のようだった。最近痩せたのだろうか。首もとは筋張っており、顔も皺が多く刻まれていた。見かけからはヤクの常習者かどうかは判断しかねた。箕島は書類に目を落とした。

「確認するぞ。藤沢市在住の桝野ますの拓海たくみさん。年齢は三十……歳?」

 箕島と同年齢だった。同年齢のその名前に覚えがあった。自然と声がうわずった。男はそれに反応したように、ゆっくりと箕島に顔を向けた。その顔には確かに面影があった。

「──桝野?」口からついこぼれた。

 男はそれを聞いて、箕島をじっと見つめた。そして何か気がついたように、笑みを見せた。

「もしかして箕島くん? 箕島ゆうくんじゃない?」男は年季の入った銀縁眼鏡を押し上げた。

「あ、ああ」箕島は慌てて相槌を打った。

「何年ぶりだろうね。十年以上になるか」

「そ、そうだな」

「こんなところで再会するなんて思ってもみなかったな」そう言って薄く笑った。箕島のほうが強張った顔を崩せないでいた。

「昨夜、人を刺したって……」

「ああ、南太田の駅でね。誰でもよかったんだ。むしゃくしゃして殺してやろうと思って刺した」なんの躊躇いもなくそう答えた。ただ淡々と。箕島はそんな桝野を凝視するしか出来なかった。青白い顔と痩せた身体は、目を離すとそのまま透けてしまいそうに見えた。隣に立っていた加藤が部屋から出て行ったのにも気がつかなかった。


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