第39話


 アイラが目を覚ました瞬間、瓦礫の隅で張り詰めていた空気がやわらいだ。


 ぼんやりとした視線が、俺を捉えて揺れる。

 その瞳が、少しずつ焦点を結び、ようやく俺だと認識したのだろう。細い声が漏れた。


「……ナオ、くん……?」


「ああ。無事で、よかった」


 俺はそっと彼女の傍に膝をついた。

 その顔は青白く、髪は粘液に濡れて額に貼りついている。けど、俺の名を呼んだその声は、確かにいつものアイラを感じさせた。


「……気分はどうだ? どこか痛むとこ、あるか?」


「ううん……ちょっと……身体が重いだけ……。でも……ナオくんの顔が見られて……よかった……」


 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 笑うには、少しだけ心が痛む。


「無事でよかった、ほんとに……。間に合わなかったらって、何度思ったか」


 俺は視線を落とし、彼女の肩にそっと手を置いた。

 その肩は細くて、どこか頼りないけど……それでも、確かにここにある。


 アイラは瞳を伏せるようにして、ぽつりと呟いた。


「……私、あのセリオンに飲み込まれて……何もできなかった……。真っ暗で、冷たくて、息もできなくて……怖かった……」


 その肩が小さく震えた。

 抱きしめたくなる衝動に駆られたけれど、俺はそれを堪えて、ただ傍に寄り添うことしかできなかった。


「でも、ナオくんの声が……聞こえた気がしたの。ずっと遠くで、私の名前を呼んでくれてるみたいで……それで……少しだけ、安心できた」


 俺は思わず、アイラの手を握った。

 冷たいその手に、力を込めて握り返す。


「呼んだよ。何度も。お前がいるって信じてたから」


 アイラが、かすかに笑う。その笑顔は、かつて見たどんな笑みよりも弱々しく、けれど、どこまでも優しかった。


「ナオくん……ありがとう」


「礼なんかいらねぇよ。俺が、勝手にそうしたかっただけだから」


 どちらからともなく、ふっと笑い合う。

 こんな状況だってのに、まるで穏やかな時間が流れているように感じた。


 だが、その空気を切り裂くように──


 ──ギュラァ……ッ。


 暗闇の奥から、ぞわりとした異音が響いた。

 粘液が擦れるような、湿った呻き声。


 そして、くぐもった低い声が闇の向こうから漏れる。


「チッ……もう起き上がってきやがったか……」


 異形種──やっぱり生き残っていやがった。


 その異形の声に、アイラの表情が一変する。


 一瞬怯えたように目を見開き、だが、すぐさまその顔にいつもの凛々しい表情を浮かべ、俺の服の袖を掴んだ。


「ナオくん……お願い、逃げて」


 その声は切実だった。


「このセリオンは異常だよ。こんな行動をするセリオンは今まで聞いたこともない。だから、このことは救星協会の職員として、絶対に報告しなくちゃならない」

「アイラ、何言って――」

「……それに、私を守りながらじゃ、ナオくんも戦いにくいでしょ? だから……私を置いて、これを報告して」


 アイラは微笑みながら俺に伝える。


 けど──


「無理だ」


 俺は即答した。


「惚れた女を置いて逃げるなんて、できるわけがねえだろ」


 その言葉に、アイラの目が揺れる。

 息を呑んだように口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。


「……ナオくん……でも……私のせいで、ナオくんが……死んじゃったら……」


「死なねえよ。死ぬ気なんか、さらさらねえ」


 俺は苦笑して、ぐっと彼女に身を寄せた。


「お前を守って、生きて帰る。それだけだ」


 それでもアイラは、小さく首を振る。


「そんなの……無理だよ。セリオンはそんなに甘くない。お願いだから……私のことは見捨てて……」


「見捨てる? ふざけんな」


 声を強めた。


「俺は、お前が欲しいんだ。ずっとそう思ってた」


 その言葉に、アイラが再び目を見開いた。


「──アイラ。ここから無事に戻れたら……俺の女になってくれ。それなら、俺が戦う理由になるだろ?」

「……本気で……言ってるの?」

「当たり前じゃん。八王子に来たのだって、アイラがいるって知ったからだし。だから、これからも俺の側にいてくれよ」


 沈黙。

 そして、アイラは泣きそうな瞳で微笑み、ぽつりと言葉を溢す。


「……そうだったんだね。でもそれ、死亡フラグだよ?」

「なんだそれ」

「……昔の物語とかだとね。そういうセリフを言った人は、だいたい死んじゃうんだって」

「へえ、そんなもんあるのか」


 俺は肩をすくめて、笑って見せる。


「じゃあ──言い方、変えるよ」


 アイラの目をまっすぐに見据える。


「アイラ。俺の女になれ。今、ここで」

「……ッ!?」


 その瞬間、アイラの顔が赤く染まる。

 声が出ないようで、口をパクパクと開きながら、困惑して視線を泳がせた。


「俺は強い女がいいって言ったろ? 恐怖の中、それでも自分を犠牲に俺を守る選択を取れる、そんな最高な女が目の前にいたら我慢できるわけないだろ」

「そんな……別に、強くないよ……」

「いや、強いよ。自分よりも他の人のことを第一に考えられる。そんなアイラだからこそ、俺はお前が欲しいんだ」

「そ、それは……でも、セレンもいるし……それに、私が好きなのはセレンで……」

「そんなの関係ねえよ」


 俺は断言する。


「俺は、アイラが欲しい。もちろんセレンもだ。どっちかなんて選ばねえ。欲しいもんは全部手に入れる。これまでも、これからだってそうだ。だから、アイラ。俺の女になってくれ」


 自分でも驚くほど、自然に口から出た言葉だった。

 けど、それは紛れもない本音だ。


 しばしの沈黙。


 アイラはぽかんとしたまま、数秒だけ俺を見つめ──

 ゆっくりと目を伏せ、何かを確かめるように自分の胸に手を当てた。


そして、もう一度顔を上げる。


その表情に、迷いはなかった。


 アイラはゆっくりと身体を起こし、俺に顔を寄せて──


 唇が、そっと重なる。


 それは、静かな、でも確かな口づけだった。


「……これが、答え」


 耳元で囁くように言い、アイラは微笑んだ。


「私のこと、守ってくれてありがと、ナオくん」


 その瞬間だった。


 彼女の身体から、淡く水色の光があふれ出す。あたたかく、やさしい。空気が澄み渡るような透明な光が、俺を包み込むように広がっていく──。

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