第5話 「最後に視えるもの」



夜明け前、響は寺の庭で一人座っていた。彼女は一睡もできなかった。


朝日が地平線から顔を覗かせ始め、彼女の前に長い影を落とした。響は不安げに自分の影を見つめた。それは今のところ、普通に彼女の動きに従っていた。


昨夜見たものは夢だったのだろうか。それとも現実だったのか。もはや彼女には区別がつかなかった。


「響さん、ここにいたのですね」


振り返ると、住職が立っていた。彼は響の顔を見て、すぐに察したようだった。


「眠れなかったか」


響は首を振った。「悪夢を...いえ、幻を見ました」


彼女は昨夜のことを説明した。住職は重々しくうなずいた。


「予想通りだ」彼は言った。「昨夜の儀式で彼らは一時的に切り離されたが、完全には断ち切れていない。彼らは扉を探している」


「扉?」


「あなたの心の扉だ。恐怖、疑念、後悔...そういった感情が彼らの入り口になる」


「つまり、私が怖がれば怖がるほど...」


「彼らは強くなる」住職は言葉を完成させた。


響は膝を抱えた。「どうすれば...」


「恐れるな」住職は彼女の肩に手を置いた。「恐怖に打ち勝つ唯一の方法は、それに立ち向かうことだ」


響はゆっくりとうなずいた。


「準備をしなさい」住職は言った。「今日、イノセンス研究所に戻る。門を完全に閉じるために」


* * *


朝食後、四人は出発の準備をした。


住職は古い箱を取り出した。中には様々な道具が入っていた——護符、塩、銀の小刀、そして小さな鏡。


「これらは真の浄化の道具だ」住職は説明した。「特に、この鏡は重要だ。霊鏡といって、彼らの正体を映し出す」


響は鏡を手に取った。それは小さな手鏡で、表面はわずかに曇っていた。


「これで彼らが見えるの?」


「ああ。彼らは人の姿を借りることがある。この鏡を通せば、その正体が見える」


住職は続けた。


「イノセンス研究所の地下室に着いたら、まず門を特定する。そして、この浄化の塩で円を描き、護符を四方に貼る。私が呪文を唱える間、お前たちは円の中にいなさい」


「それで門は閉じるんですか?」詩織が尋ねた。


住職はうなずいた。「閉じるはずだ。しかし...」


彼は言葉を切った。


「しかし?」綾乃が不安げに尋ねた。


「門の向こう側にいる者たちは、必死に抵抗するだろう。彼らは最後の力を振り絞って、お前たちを引きずり込もうとするかもしれない」


三人の女性は顔を見合わせた。


「では、行くとしよう」住職は言った。


* * *


彼らは二台の車に分乗した。響と住職が一台、詩織と綾乃がもう一台に乗った。


高速道路を走る間、響は昨夜の出来事について考えていた。自分の影が独立して動いていたこと。それは幻覚だったのか、それとも...


「何か気になることがあるのか?」住職が尋ねた。


響は正直に答えた。「私自身がどこまで"私"なのか、分からなくなってきています」


住職は理解するようにうなずいた。


「影喰らいは徐々に宿主の心に入り込む。最初は些細な変化から始まる。悪夢、幻覚、そして...人格の変化」


「私は...変わってしまったのですか?」


「まだ完全ではない」住職は言った。「しかし、気をつけなさい。自分の思考や行動に違和感を覚えたら、それは警告サインだ」


響はうなずいた。


「それと...」住職は言いづらそうに続けた。「もし私が...何かおかしな行動をとったら...」


「住職?」


「私を信じるな」住職はきっぱりと言った。「私も人間だ。彼らの影響を受ける可能性がある」


響は黙ってうなずいた。


窓の外を見ると、雲が次第に空を覆い始めていた。天気予報では晴れるはずだったが、急に天候が変わったようだった。


* * *


数時間後、彼らはイノセンス研究所に到着した。


昨日までとは異なり、今日は研究所の周辺に不吉な静けさがあった。鳥の声も虫の音も聞こえない。


「何か違う...」響は言った。


住職も同意した。「彼らは待っている。私たちが来ることを知っていた」


四人は慎重に建物に近づいた。入り口のドアは昨日と同様に開いていたが、中はさらに暗く感じられた。


「懐中電灯を用意して」住職は言った。「いつ停電してもおかしくない」


彼らは建物の中に入った。廊下は昨日と変わらず、埃っぽく、荒れていた。しかし、響には何かが違って見えた。壁のシミがより濃く、より人型に見える。天井からはわずかに黒い液体が滴り、床に落ちるとすぐに蒸発していた。


「階段の方へ進むぞ」住職は言った。


彼らは恐る恐る先に進んだ。詩織は震える手で懐中電灯を持ち、綾乃は姉の腕にしがみついていた。


階段を降りる前、住職は立ち止まった。


「今から言うことをよく聞け」彼は低い声で言った。「下に降りたら、お互いを見失わないようにしろ。手をつないでいるといい。そして、何が起きても、彼らの言葉に耳を貸すな」


「彼らの言葉?」綾乃が不安げに尋ねた。


「彼らは私たちの心の弱さを知っている。恐怖、罪悪感、後悔...そういったものを利用して、私たちを分断しようとするだろう」


四人はうなずいた。


「綾乃さんは真ん中に」響は提案した。「私と詩織さんで彼女を挟みましょう。住職が先頭を」


そのようにして、彼らは階段を降り始めた。


階段は昨日よりも長く感じられた。降りるにつれて、空気が重く、湿り気を帯びていった。壁には黒カビのようなものが生えており、それが動いているように見えた。


突然、電灯が点滅し、消えた。懐中電灯だけが唯一の光源となった。


「予想通りだ」住職は呟いた。


さらに階段を下りると、ついに地下室にたどり着いた。


そこはかつての実験室だったが、今は異様な空間に変わっていた。壁は黒い粘液で覆われ、床には昨日と同じ複雑な図形が描かれていた。しかし、その図形は今や鮮やかに光を放っていた。


そして、部屋の中央には——門があった。


それは物理的なドアではなく、空間がゆがんでいるような場所だった。そこだけ空気が渦を巻き、黒い霧が立ち込めていた。


「あれが門か...」住職は言った。


「ああ...」詩織が震える声で言った。「あれが私が開いてしまった...」


「今すぐ閉じるんだ」住職は言った。「準備を始める」


彼は道具を広げ始めた。塩で大きな円を描き、四隅に護符を配置する。


その間、響は小さな霊鏡を取り出した。彼女は恐る恐る鏡を門に向けた。


鏡に映ったのは門ではなく、無数の顔だった。歪んだ、人間離れした顔。彼らは全て響を見つめており、口を動かしていた。何かを言おうとしているようだった。


響は思わず鏡を下げた。


「見えたの?」詩織が尋ねた。


響はただうなずいた。言葉にできないほどの恐怖だった。


「準備ができた」住職が呼んだ。「円の中に入りなさい」


四人は描かれた円の中に立った。住職は経典を開き、読み始めた。


古い言葉が響き渡る。それは人間の言語とも思えない、奇妙な響きを持っていた。


すると、門が反応した。黒い霧が激しく渦巻き、部屋全体が震動し始めた。


「抵抗している」住職は言った。「続けるぞ」


彼は読経を続けた。その声は次第に大きくなっていった。


「響さん...」


かすかな声が彼女の耳元で囁いた。響は振り返ったが、そこには誰もいなかった。


「響さん...見て...」


声は続いた。それは詩織の声に聞こえた。しかし、詩織は彼女の隣で震えており、口を開いていなかった。


「見るな」住職が警告した。「何の声も聞くな」


響は必死に声を無視しようとした。住職の読経に集中しようとした。


しかし、周囲の壁から黒い液体が滴り始めた。それは床に落ちると、小さな水たまりを形成し、そこから何かが立ち上がり始めた。


それは人の形をしていたが、顔はなく、ただ黒い空洞があるだけだった。


「彼らが来た」住職は読経を中断して言った。「円から出るな!」


黒い人影が彼らの周りを囲み始めた。それらは円に近づいたが、塩の線を越えることはできなかった。


「効いている」住職は言った。「儀式を続ける」


彼は再び読経を始めた。


響はふと、綾乃を見た。彼女は恐怖で固まっていたが、何かがおかしかった。綾乃の影が、彼女の動きとは別に動いているように見えた。


響は霊鏡を取り出し、綾乃に向けた。


鏡に映った綾乃の姿は、恐ろしいものだった。彼女の体は半分だけ黒い影に覆われ、その部分が別の意志を持って動いているように見えた。


「住職...!」響は叫んだ。「綾乃さんが...」


住職は読経を中断し、綾乃を見た。彼も霊鏡を取り出し、綾乃に向けた。


「やはり...」彼は呟いた。「彼らは既に彼女の中に...」


「どういうこと!?」詩織は妹をきつく掴んだ。「綾乃、大丈夫なの!?」


綾乃は混乱した表情で姉を見上げた。「姉さん...何かが...私の中に...」


突然、綾乃の体が激しく震え始めた。そして、彼女の口から黒い液体が流れ出した。


「綾乃!」詩織は悲鳴を上げた。


「円から出るな!」住職は警告した。「彼らの罠だ!」


しかし、詩織は既に妹を抱きしめていた。彼女は綾乃の体が冷たくなるのを感じた。


「出て...」綾乃は苦しそうに言った。「出て行って...姉さん...」


「離れて!」響は詩織に叫んだ。「それは罠よ!」


しかし遅かった。綾乃の体から黒い霧が噴出し、詩織を包み込んだ。霧の中で、詩織の悲鳴が聞こえた。


「詩織さん!」響は彼女に手を伸ばそうとした。


「止まれ!」住職が響の腕を掴んだ。「彼女たちはもう...」


黒い霧が晴れると、そこには詩織と綾乃が立っていた。しかし、彼らの目は真っ黒で、口は耳まで裂けていた。


『遅すぎた...』詩織の姿をした「何か」が言った。それは詩織の声だったが、同時に別の声が重なっていた。


『門は完全に開いた...』綾乃の姿をした「何か」も言った。


二人は円の外に立っていた。彼らの足元から黒い霧が立ち上り、それは人型を形成し始めた。次々と、黒い人影が現れた。


「すまん...」住職は響に言った。「彼らは既に強すぎる...門を閉じることはできない」


「でも、詩織さんと綾乃さんは!?」


「彼らはもうこの世界の者ではない」住職は悲しげに言った。「私たちは逃げるしかない」


「でも...!」


住職は響の手を強く握った。「生きて逃げるんだ。そして、次の満月に備えろ。その時もう一度、門を閉じるチャンスがある」


響は絶望的な気持ちで、詩織と綾乃を見た。彼女たちの姿は次第に変形し、より非人間的になっていった。


住職は懐から何かを取り出した。それは小さな煙玉だった。


「私が合図をしたら、全力で走れ」彼は言った。「振り返るな。決して振り返るな」


響はうなずいた。


住職は煙玉を投げた。それが床に当たると、白い煙が部屋中に広がった。


「今だ!」


響は住職の後を追って円から飛び出した。黒い人影たちが叫び声を上げ、彼らを追いかけてきた。


二人は階段を駆け上った。背後では、無数の足音が追いかけてくる。


「振り返るな!」住職は繰り返した。


階段を上りきると、彼らは廊下に出た。出口はすぐそこだった。


しかし、住職が突然立ち止まった。


「どうしたんですか?」響は焦って尋ねた。


住職は振り返った。その顔は奇妙に歪んでいた。


「住職...?」


「響...」住職は呟いた。「すまない...私も...」


彼の目が真っ黒に変わり始めた。


「いいえ...」響は後退した。


「逃げろ...」住職は最後の力を振り絞って言った。「私はここで彼らを食い止める...あの霊鏡を...」


住職は自分の懐から何かを取り出し、響に投げた。それは小さな箱だった。


「次の満月まで...これを...」


彼の言葉は途切れた。住職の体が痙攣し、膨張し始めた。彼の皮膚が裂け、中から黒い霧が噴出した。


響は恐怖で声を失った。彼女は箱を掴むと、出口へと走った。


後ろからは、もはや人間のものとは思えない悲鳴が聞こえた。


響は必死に走った。建物を出ると、彼女は車に向かって全力で駆け出した。


「出て!出て!」


雨が降り始めていた。彼女はぬかるんだ地面を滑りながら自分の車にたどり着き、慌ててドアを開けた。


エンジンをかけると同時に、彼女はバックミラーを見た。


研究所の入り口に住職が立っていた——いや、かつて住職だったものが。その姿は歪み、もはや人間の形ではなかった。


彼は——いや、それは——響を見ていた。そして、ゆっくりと手を上げた。


響はアクセルを踏み込んだ。車は泥を跳ね上げながら発進した。


彼女は必死に運転しながら、時折バックミラーを見た。しかし、何も追いかけてくる様子はなかった。


雨は激しくなり、ワイパーを最大にしても前がほとんど見えなかった。


響は呼吸を整えようとした。冷静に。冷静に。


しかし、彼女の手は止まらずに震えていた。詩織と綾乃の顔が脳裏に浮かんだ。そして、最後の住職の姿。


「どうすれば...」彼女は呟いた。「どうすれば...」


住職から受け取った箱が、助手席に置かれていた。響は片手でそれを開けた。


中には小さな紙切れと、彼女が以前から持っていた霊鏡とは別の、もう一つの鏡が入っていた。


信号待ちで車が止まった時、響は紙切れを広げた。


『響へ


もし私が変わってしまったなら、この鏡を持ち帰りなさい。これは真の霊鏡、影喰らいを封じる力を持つ。


次の満月までに、操霊師の力を使って封印を完成させなければならない。方法は鏡の裏に記してある。


私は門の仕組みを調べていた。それは操霊師の血によってのみ完全に閉じられる。


気をつけなさい。彼らはあなたの中にも潜んでいる。己の心を強く持て。


合掌』


響は鏡を裏返した。そこには複雑な印が刻まれていた。そして、小さな文字で儀式の手順が書かれていた。


それは危険な儀式だった。自らの命を賭けて門を閉じる方法。


「次の満月...」響は呟いた。「あと二週間...」


* * *


東京に戻る途中、雨は止んだ。しかし、空は暗く鉛色のままだった。


響はやがて寺に到着した。しかし、入ることはできなかった。境内には既に警察が数台停まっており、黄色いテープが張られていた。


彼女は車を停め、遠くから様子を窺った。


何があったのだろう。


彼女が思案していると、近くにいた年配の女性が話しかけてきた。


「大変なことになったね」女性は言った。「突然の火事で、本堂が全焼したらしいよ」


「火事...?」響は震える声で尋ねた。


「ええ、今朝方。幸い人的被害はなかったそうだけど。住職はどこかに旅行に行っているとか...」


響は顔色を失った。彼女が住職と出かけたのは皆知っているはずだ。なのに、なぜ...


そこで彼女は気づいた。これは"彼ら"の仕業だ。跡を消そうとしているのだ。


「ありがとうございます」響は女性に礼を言い、急いで車に戻った。


彼女は車を発進させ、しばらく無目的に走った。どこに行けばいいのだろう。


詩織のアパートは危険すぎる。彼女自身の家も安全とは言えない。"彼ら"は彼女の居場所を知っているだろう。


しかし、誰も知らない場所がある。両親から受け継いだ、山間の古い別荘。彼女は子供の頃、そこで夏を過ごしたが、何年も訪れていなかった。


「そこしかない...」響は決意した。


* * *


山間の別荘は、大部分が木造の古い日本家屋だった。周囲には他の家はなく、近くの村まで車で20分ほどかかる。完全な隔絶。


響は玄関を開け、埃っぽい室内に足を踏み入れた。電気は通っておらず、水道も使えるか分からない。彼女は持参した懐中電灯を頼りに、室内を調べた。


案の定、水道は止まっていた。しかし、裏庭には井戸があったはずだ。


彼女は荷物を下ろすと、まず部屋の掃除を始めた。何かに集中することで、恐怖を押し殺そうとした。


掃除を終え、必要最低限の生活ができるようになったとき、既に夕方になっていた。


響は持ってきた霊鏡を取り出し、裏面の指示を再度確認した。


『満月の夜、北向きに座し、己の血を鏡に滴らせ、呪文を唱えよ...』


シンプルな指示だが、その先に書かれている警告が彼女を不安にさせた。


『然れども心せよ、己の中なる闇と対峙することになるゆえに...』


自分の中の闇。それは"彼ら"が既に彼女の中に入り込んでいることを意味している。


響は思わず鏡を覗き込んだ。自分の顔が映っていた。少し疲れた顔だが、まだ正常だった。


しかし、よく見ると、彼女の目の奥に何か別のものが潜んでいるような気がした。


「気のせい...」彼女は呟いた。「気のせいよ...」


* * *


二週間後、満月の夜がやってきた。


響は準備を整えた。部屋の中央に塩で円を描き、北向きに座った。


霊鏡を正面に置き、銀の小刀で指先を切った。血が鏡の表面に滴り落ちる。


そして、響は呪文を唱え始めた。


「闇より来たりし者よ、光によって封じられよ...」


彼女の声が静寂の中に響く。


「我が血は門となり、汝を元の世界へと還す...」


突然、鏡の表面が波打ち始めた。血が鏡の中に吸い込まれていく。そして、鏡の中に別の景色が見え始めた。


それは研究所の地下室だった。そこには、いくつもの黒い人影が立っていた。彼らの中に、詩織と綾乃、そして住職の姿があった。


彼らは全員、響を見つめていた。


『響...』彼らは一斉に呼びかけた。『来なさい...私たちのところへ...』


響は動揺した。しかし、彼女は呪文を唱え続けた。


「光は闇を照らし、闇は光に還る...」


鏡の中の人影たちが苦しそうに体をよじらせる。


『だめだ...』詩織の姿をした影が言った。『止めて...響さん...』


「嘘よ...」響は涙を流しながらも呟いた。「あなたたちはもう詩織さんたちじゃない...」


『本当よ...』詩織の影が言った。『私はまだ...私よ...助けて...』


響は動揺した。その声は詩織そのものだった。もし本当に彼女の魂がまだ残っているなら...


「いいえ...」響は自分に言い聞かせた。「嘘...これは罠...」


しかし、彼女の心に疑念が生まれた瞬間、鏡の表面がさらに波打ち、中の景色が彼女に向かって迫ってきた。


まるで鏡の向こう側の世界が、こちらに漏れ出してくるように。


『響...』鏡の中の影たちが腕を伸ばした。『一緒に...』


響の体が勝手に前のめりになる。彼女は鏡に引き寄せられていた。


「やめて...!」


響は必死に抵抗した。しかし、彼女の一部はそれを望んでいた。詩織たちに会いたい。彼らを救いたい。


その瞬間、彼女は自分の中の闇の存在を感じた。


彼女の影が床から立ち上がり、人の形になった。それは彼女自身の姿をしていたが、目は真っ黒で、口は耳まで裂けていた。


『私を否定しないで...』影の響が言った。『私はあなた...あなたは私...』


響は震えた。本当だ。この影は彼女自身の一部だった。恐怖、疑念、罪悪感...彼女自身の心の闇が形を取ったものだ。


「私は...」響は言葉に詰まった。


住職の言葉が蘇る。『恐怖に打ち勝つ唯一の方法は、それに立ち向かうこと』


響は深呼吸をした。


「あなたは私の一部かもしれない」彼女は影に向かって言った。「でも、私はあなたじゃない。私は響。操霊師の響」


影が揺らめいた。


「私は恐怖も疑念も認める。でも、それらに支配されない」


響は再び呪文を唱え始めた。今度は、より強い声で。


「闇より来たりし者よ、光によって封じられよ!」


鏡の中の影たちが苦しみの声を上げた。


響自身の影も歪み始めた。


「我が血は門となり、汝を元の世界へと還す!」


影たちの悲鳴が響き渡る。


「光は闇を照らし、闇は光に還る!」


鏡が激しく光を放った。その光が部屋中を包み込む。


響自身の影が鏡に向かって吸い込まれていく。


鏡の中の世界も、光に包まれて消えていった。


「門よ閉じよ!」


響が最後の言葉を叫んだ瞬間、鏡が粉々に砕けた。


部屋に静寂が戻った。


響はへたり込んだ。全身から力が抜けていった。


彼女は自分の影を見た。それは普通の影だった。彼女の動きに従って動く、ただの影。


「終わったの...?」


彼女は震える手で床の破片を拾い上げた。かつての霊鏡は今や、ただのガラスの破片に過ぎなかった。


響は疲れ切って眠りについた。


* * *


翌朝、響は清々しい気分で目覚めた。


窓から差し込む朝日が、彼女の顔を優しく照らしていた。


彼女は起き上がり、部屋の中を見回した。昨夜の出来事は夢だったのだろうか?


しかし、床にはまだ霊鏡の破片が散らばっていた。全て現実だったのだ。


響は窓を開け、新鮮な空気を吸い込んだ。


本当に終わったのだろうか?詩織たちは助からなかったのか?


彼女には分からなかった。ただ、彼女自身の中の闇は浄化されたように感じた。


「よし...」響は決意した。「私は操霊師。死者の声を聞き、伝える者。詩織さんたちの声を探し続けよう...」


彼女は荷物をまとめ始めた。この家を整理し、東京に戻るつもりだった。


旅支度を整えていると、彼女は自分のスマートフォンを見つけた。何日もチェックしていなかった。


電源を入れると、いくつかのメッセージが届いていた。多くは知人からの心配の声だったが、最後の一つが彼女の目を引いた。


送信者不明。一週間前に届いたメッセージ。


『響さん、私を見つけてくれて、ありがとう。もう大丈夫。安心して。また会えるよ。詩織より』


響は息を呑んだ。これは...本当に詩織からのメッセージなのか?それとも"彼ら"の最後の罠なのか?


彼女は窓の外を見た。美しい山々が広がっていた。自然の営みは、人間の恐怖や不安とは無関係に続いていく。


響は深呼吸をした。


彼女は操霊師だ。死者の声を聞き、生者に伝える者。その責任から逃げることはできない。


スマートフォンを持ち、彼女は返信を打った。


『詩織さん、本当にあなたですか?どこにいるの?もう一度、会いたいです』


送信ボタンを押す前、響は一瞬迷った。再び恐怖の世界に引き込まれることになるかもしれない。


しかし、彼女は操霊師だ。恐怖に立ち向かうのが仕事だ。


彼女は送信ボタンを押した。


メッセージが送信される。画面には「配信済み」の表示が出た。


響は車のキーを手に取り、ドアに向かった。


外に出る前、彼女は自分の影を確認した。それは普通に彼女の動きに従っていた。


響は安堵のため息をついた。


彼女が車に乗り込み、エンジンをかける時、彼女のスマートフォンが鳴った。


新しいメッセージだ。


響は手を伸ばし、画面を見た。


『すぐそこよ』


彼女は混乱して周囲を見回した。誰もいない。


その時、バックミラーに目をやると、後部座席に人影が見えた。


詩織だった。


「詩織さん...?」


詩織は微笑んだ。その笑顔は優しく、穏やかだった。


しかし、一瞬だけ、その目が真っ黒に変わったような気がした。


「ごめんね...響さん...」


詩織の声が響いた。そこには悲しみと、何か別のものが混ざっていた。


「さあ、次はあなたの番よ」


バックミラーを見る響の目に映ったのは、もはや詩織の姿ではなかった。


それは形のない闇だった。それが響に襲いかかる。


彼女が最後に見たのは、自分自身の影が笑っている姿だった——。

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操霊師 〜屍の囁き〜 ソコニ @mi33x

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