第5話

翌朝はしずかな立ち上がりでした。

 いち早く目が覚めて、大人たちはまだみんな寝ているのに一人起きているのがなんだかいつもと違う不思議な世界のようで、そうして楽しくなってしまった子供のように、ペスカは工房内をぶらりとしゃれて一巡り。

 終いに冒険心を抱えて二階に上がると、カルボが寝ているであろう自室を覗いたのでした。

 "おや……?"

 しかし、そこはもぬけの殻。

 ペスカは目を瞬かせて踵を返し、寝ている職人たちを跨いでビアンゴのところに行きます。

 "いや、待てよ……"

 肩を叩いて起こそうとしたところで、ペスカは気付いてしまいます。

 "この聖母、あまりに無防備である——"

 "すー……すー……"

 最近の、ペスカをいじめる腐り切った性根の憎らしい面影はどこへやら。今だけは天使。黙ってれば天使。その完璧な様相で、ビアンゴはオオカミを宿したペスカの前に無警戒な寝顔を晒しているのでした。

 ペスカの頭に住むオオカミは実に哲学的です。こんなときこそ冷静に状況を分析して、真実をにごし、巧みに論点をすりかえます。

 "——唇をつけたからといって、果たしてそれが何だというのか。コップに口をつけることと何ら違いはない。対象が同じ唇であったとしても、身体に元々ある一部同士が接触を果たすだけのことではないか。なんなら私の唇は毎秒私の唇とちゅっちゅしているのである……我そう思う、ゆえに我悪くない……"

 とっさにそんな訳のわからない理論武装をして準備は万端。横髪を押さえて、はやる気持ちを抑えながら、寝ているビアンゴに顔を近づけていきます。

 "それがたまたま——たまたま、今日はマリア様だっただけなのだ……顔ダニのお引越し先がここだった。私はささやかながらそれを手伝っただけ——"

 と、唇を十分に近づけたところで、ペスカは閉じかけた視界の中に隣で寝ているロッソの視線をとらえます。

 笑うでも怒るでもない、ロボットのように無機質な表情が監視カメラさながらにペスカをじっと見つめていました。

 "…………"

 固く口を閉ざしたまま、ペスカは何事もなかったかのように上体を起こすと、何食わぬ顔でビアンゴの肩先についていた手を回収……残像が見えるような美しい流れで顔の前に両手を合わせるのでした。

 ロッソは無表情のまま掛け布団から円の形を描いた指先を出してみせ、ペスカは苦々しく頷くと、ふぅと一息。一連の黒歴史を一度抹消します。

 さて、気を取り直して肩を揺すり、ビアンゴを起こすと、

 "……ペスカ? どうしたの?"

 彼女はめんどくさがって目も開けずに言いました。

 "カルボがいない"

 "え……"

 ビアンゴはそれで慌てて目を覚ましました。

 他の職人たちも起こして事態を知らせるや、作業場の皆は一様に押し黙り、そろって一人の人物を見ました。

 一方ペスカはベーゼを指さして笑います。

 "ベーゼの頭!"

 ベーゼはいつもストレートパーマをかけていますが、実はくせっ毛で寝起きは特にすごいのです。

 "ロゼも!"

 ロゼもまたひどい天パでした。

 もはやアフロのようにぼわぼわに広がる二人の頭を指してペスカはけらけらと笑いますが、皆の疑いの眼差しが自分に集中していることには微塵も気付きません。

 "でも待って皆……もしペスカだとしたら、こんな小細工するとは思えないよ"

 "確かに……"

 "そうかなぁ……"とロッソ。

 それはそれでひどい言われようでしたが、一理ありました。先日もペスカは直にりにいってますし、それを隠そうともしていません。

 実際、殺人事件の第一発見者が犯人であるケースはおよそ3%程度であると言われています。

 "さぁみんなペスカに謝る準備はいいかい?"

 "わんっ!"

 そのとき作業場の奥から飄々ひょうひょうとジェノべが言って、衆目をさらいます。

 胸にはアンチが抱かれて、嬉しそうに尻尾を振りながら一鳴き、二鳴きしました。

 "ジェノべ!"

 "見つけたよ"

 アンチを起こして匂いを辿らせれば一発で、この程度は名探偵ジェノべには朝飯前だったのです。彼女はさながらキャスケット帽にパイプでも吹かすように奥の壁に背中をつき、顎をくいっとやるたけで場所を示唆しさしていました。

 そこはガラス細工職人の作業道具、そしてご主人様たちが管理されている神聖な部屋でした。

 手前に道具が、一番奥の展示スペースにそれぞれの……すなわちペスカ、カルボ、ビアンゴ、ロッソ、ロゼにジェノべ、ベーゼ、ロンチ、計八器のご主人様が安置されています。

 "すー……すー……"

 その麓。

 カルボは床に丸まり、しずかに寝息を立てていたのでした。

 皆が集まって声をかけようとも思われましたが、そっとしておくことに。そもそも抱き上げたところで起きる気配がありません。

 それで部屋まで運ぶ塩梅になったのでしたが、その帰りでした。

 "おや……?"

 "ん?"

 ペスカはしんがりでした。

 ふと奇妙な感覚に苛まれて、今一度部屋を振り返ります。

 "んー"

 部屋に入ってまず目につくのはジャックやパファー等々の道具が掛けられた壁棚に、刺しておく長方形の用具立て。奥にはまるで博物館のように一段高くなって奥まったスペースがあり、丸いテーブルのような車輪のオブジェの中央には質素な花瓶に花がいけてあります。それを囲むように、ペスカのご主人様も含めて八つのハート型のガラス細工が陳列されております。

 右手には四分の三までが朱色、残りの一から奥の壁二分の一ほどまで"余り"が伸びるように続く水色の不思議なデザインの壁。所々に石膏の彫像や石板がかけられて、対面の奥行きのある窓縁から差す陽によって照らされています。

 床は大理石のような不思議な乳白色の石造り。等間隔に切れ目が入ってブロックになっているのが分かります。

 けれど、よく見ると右手の壁の位置と床の面がその間隔に合っていません。つまり、半端な位置で壁が立っているのでした。

 "どうか、したのかい?"

 再度、入り口に立つジェノべがペスカに呼びかけました。

 "えっと……"

 でも、そうは思ったものの、そんなことは良くある話で自分の気にしすぎではないか? 悪くすれば内装にケチをつけているようにも捉えられかねない。

 こんな風にも思って、ペスカは違和感のことを言おうとしますが、言葉でまとめられません。

 "分からん。えっと……分からないところが分からん"

 "ふふ、そうかい?"

 "それに……なんだろう"

 ペスカはどうにか感覚を研ぎ澄ませると、

 "私、ここを知っている……"

 それだけ、言葉に換えるのでした。

 それはそれで電波や思い込みの激しいやつとも捉えられかねない、いわば諸刃の告白でしたが、これにジェノべは珍しく驚いたように目を丸くしました。

 "なるほど?"

 "遥か前世の話かもしれないけど"

 "いや……"

 ジェノべは目線を流して、刹那、考え込みながら慎重に言いました。

 "そうか……そうなのかもしれないね"

 "ジェノべ……?"

 "ペスカくん。君は近隣の村から引っ越してきたのだったね……どうして、その村に?"

 "……気づいた時からいたが"

 "その村には他にガラス細工職人はいなかったのかい?"

 "私だけだが"

 嘘ではありませんでした。ペスカはそもそも質問の意図もよく判っていません。しかしジェノべは深くその瞳を覗き込むようにして見ると、ふいに綻ばせてみせます。

 "いやすまない。趣味なんだ。知りたがり……好奇心っていうのかな"

 "ううん。なにか解った?"

 "別に殊更隠しておくことでもないんだが……というより私も君と同じく、よくは解っていないんだ。ただ君の既視感に答えるなら……この建物は古い。私たちが始まりではないし、きっと終わりでもないから……"

 "……?"

 "つまり、君が覚えていないだけで、かつて君がここにいた可能性は十分にあるということさ。今は私にも、それ以上のことは解らないな"



 さてカルボですが、彼女は深く昏睡していてほとんど一日、目を覚ましませんでした。

 起きたのはすでに陽が落ちてから。

 彼女は無言で起き上がると、また目が覚めてしまった慙愧ざんきに身をよじり、一人、しずかに涙を流します。

 哀しみと憎しみと、無力感の果てに、彼女はそっと部屋を抜け出すと先日の例を思い出して、一階には降りず、ホールの彫刻壁の小扉からベランダにでます。

 しっとりとした夜風がヴェールのように彼女を包みこむと、心地の良い寂寥感を与えました。

 カルボはそのまま縁に立ち、緑と水の豊かな……それでいて街の中央、つまり目の前の小さな木立の群れの向こう側にただ一本の、桜の木が幻想的に映える、彩り豊かな"村のイーハトーブ"外景を眺めました。

 空飛ぶまんぼうとくらげもその夢見る感覚を一層手伝って、良い瞑想を彼女にくれるのでした。

 "毎日生まれ変わる……か。寝て起きて、本当に昨日までの自分が綺麗にきえていたら、いいのになっ……"

 初めに気づいたのはおそらくアンチでした。

 庭にテーブルを並べてツェーナを頂く職人たちの中、ペスカは例のごとくビアンゴの口に食べ物を運んでいたところ、隅の犬小屋で項垂れていたアンチがふと耳をあげ、首を起こして寂しげに一鳴きして、また首を戻すのを見逃しませんでした。

 "カルボ……?"

 ペスカは姉の面倒を妹たちに任せると、今度こそアンチを抱いて二階へあがりました。そしてホールを通り、小扉を抜け、アンチを放します。

 間もなく駆け出したアンチは、縁で黄昏たそがれているカルボに飛びかかりました。

 "アンチ……"

 やはり力無く答えるカルボの目がペスカまでもとらえます。

 "ペスカ……"

 "カルボ!"

 しかしペスカは、駆け寄るとそこで有無を言わさずカルボを抱きしめました。

 "うぇっ……ペ、ペスカ?"

 "カルボ……大丈夫"

 "え……?"

 "大丈夫、大丈夫! 私がきたから、もう大丈夫! カルボは元気になる。絶対元気になる!"

 "ペスカ……"

 "おーよしよーし。よひよひよひよひ。もう寂しくない、哀しくないよー"

 カルボだって陽の感情がまったくないわけではありません。ペスカのやろうとしていることは伝わり、だからこそ呆れて言いました。

 "それじゃ怪しい呪い師みたいだよ"

 "わんっわんっ"

 "アンチまで……ごめんね"

 カルボはそうは言ったものの、やっぱりその声にも張りが、アンチを撫でる手にも力がありませんでした。

 次第に腕は垂れ下がり、そして、続けて言うのです。

 "……でもなれないよ"

 "カルボ……"

 "やっぱごめん。なれない……"

 一言つぶやくのも苦しげで、カルボの表情は歪みます。

 "醜いよね。見苦しいよね……解ってるよ。情けない……それでも、ぼくは悔しくて、虚しくて、あまつさえね、ロネーゼのことが憎らしくも思えてくるの。考えてると腹が立ってどうしようもなくなって……あはは、ヤバいやつなんだよ、ぼくって。わがままで自己中でさ、ロネーゼのことだって自分の思い通りにならないと気が済まなくて、まるでストーカーみたい……解ってるから必死に感情を殺してる。けど……それってもう自殺でしょ……自分を殺してんだもん……そんなの、やる気がでなくて……無気力に生きてくしかできなくて……!"

 アンチが寄り添うように鳴きます。ペスカもじっと耳を傾けていました。

 "いっそぶちまけてやろうと思って朝練したよ、でも、それすらなんだか馬鹿みたいに思えてくる……くだらないよ。くだらないくだらないくだらないっ! 世の中の綺麗事や美辞麗句が薄汚く見えてしょうがないよ! だってそうでしょ? 例え使命を果たせたところで、それが何? 生きたからそれが何だっていうんだ。大切なのは夢を叶えることや使命そのものじゃない。生きることじゃない……——誰と、その夢の果てを見るか、だったのに……"

 カルボはペスカにすがりつきました。

 "勝手に好きになったのはぼくの方なのにね……誰も好きにならなければよかった! そうしたらこんな想いもしなくてすんだのに……こんな、心さえなければっ……!"

 "…………"

 ペスカは肩を掴まれながらも動じません。じっとカルボの慟哭に耳を傾けます。

 "ねぇ教えてよ……! ペスカはどうやって昨日のことを忘れているの? ぼくもそうなりたい! 昨日までのこと全部忘れなきゃもう前にも後ろにも進めないんだ……だから、ねぇ、教えて! ペスカはどうして、いつもフラットでいられるの?!"

 ペスカとて無傷ということはありません。しかし、その経験から、ペスカは普段その感情を意識的に切り離していました。

 つまり、あの日。

 故郷を旅立ったあの日に殺したのです。そんな弱くて足手まといになる自分を。

 もしあの場に留まり続けていたら……ペスカも遅かれ早かれカルボのようにのたうちまわっていたのかもしれません。

 そのように考えて、ペスカは明後日の方角を一度見て、目を閉じて考え……ふっ、と、詠うように言いました。

 "そんなあなたの心が綺麗"

 "え……"

 "いつだったか、私のご主人様が言われたことがあるんだ"

 不思議なことにガラス細工職人とご主人様は異体同心です。普段彼女らの励ましで心臓を動かす彼ら——ご主人様たちの記憶が、ときどき彼女らの方に還元、流れ込むこともあります。

 それはペスカ自身ではなく、ペスカのご主人様の記憶でした。

 "その子はね、お金に困ってた。それで毎晩大人の男の人たちと遊ぶような子だったの。その話を聞いてご主人様は、じゃあ今日は一日俺と遊ぼうって言った。朝から映画館の前に並んで、海の見える街でお昼ご飯を食べて、カラオケいって、ゲーセンいってプライズをプレゼントして……その子はなんか申し訳なくなったのかもしれない。帰りに結局いつも大人の男と行くような場所に誘ったの。でも、ご主人様は断った。そんなつもりで誘ったんじゃない。俺は絶対そんなことにお金を使わない。男として負けた気がするから。って。ご主人様だって、モテないくせに。その日遊んだお金だって、自分の食費削ったものだった"

 ペスカはカルボに笑いかけます。

 "バカでしょ。結局その子はそれをやめなかったし、何かが変わったわけでもなければ、ご主人様はその事でさらに気を病んだ。そりゃもうひどかった。無力感に打ちひしがれて、今のカルボが可愛く見えるくらいに。けど、言われたんだ。言われたことを思い出したんだ。今のカルボ見て。そんなあなたの心が綺麗。そんなの金にならない。心が綺麗なんていくら言われたって、そんなの何の実益にも成功体験にも結びつかない。でも私はね、そんな風に評されるたび、どうしようもなく情けなくて、いまだ何者でもないただの人でも、ああ、この人が私のご主人様でよかったって思うんだよ。恋人ではないけれど、今でもその子はときどきご主人様を励ましにくる。私もね、ご主人様がそんなご主人様だから——だから、不屈でいられるんだ。この人のためならって思えるんだ"

 ペスカは改めてカルボに向き合うと、その目を見つめて言いました。

 "カルボ、人はね、信じすぎてはいけないけれども、利己的なばかりでもないよ。いまだ、そんなバカだっている。そのバカ曰く、まだ報われてないだけ——だよ"

 "……まだ"

 "そう、死ぬまで勝負は判らない——"

 なんなのだ……この子は? その底知れない自信を秘めた双眸を覗いて、自ずとカルボが感じたのは、ビアンゴやマイケルが感じたものともまた異質な、常軌を逸した人格への畏敬でした。

 得意げにそう言ったかと思えば、手すりを掴み、ふっ、一息。他愛なさげに再び笑うのです。

 "人を好きになるって素敵なことじゃない。なのにそれをわがままで悪いことだと思ってる。それはきっとそんな風に思わせた周りの人たちがいけない"

 "え、でも……"

 "私はそうは思わん。だってわがままってさ、その人にとってそれだけ大切な要素ってことでしょ"

 "———!"

 "憎むくらい哀しかったり、嫌うくらい許せなかったり、自分で自分を傷つけて、思いつめてしまうくらい自分にとっては大切なことなんでしょ。だったら、他の誰にどう言われようとも、その感情に引け目なんか感じなくていいんだよ。堂々としてればいい。だってつまりそれが、今のカルボを象徴する想い、個性なんだから"

 "そんな……そんな風に言ってくれる人……あ!"

 カルボは思い出して、固定観念がくつがえるあまりの衝撃にその場に膝をつきました。

 ——嘘つきで褒めてくれてるの?

 ——だから、それを信じてる。

 ロネーゼはずっとカルボを肯定していました。

 どんなカルボであれ、その言動に信頼を置き、振舞っていてくれたのは他ならないロネーゼだったのです。

 カルボはしらず、口元を手で覆い、続けます。

 "富むものはそれをずっと肯定され、貧するものはずっと否定される……駄々っ子だってね。そりゃやる気もなくなって当然……だって自分の一番執着する意思はいつも——生きたい理由はいつも、通してもらえないんだもの——"

 なんであの子は良くて、私はダメなの?

 本来は世界が、人が、そのようにたとえどれだけ意地悪でも、その憤りを認め、受け止める母なり父なり、すなわち温かな家庭があるから補える自信が、あいにくと恵まれない子たちもいます。食糧事情と同等に、自分のあるがままを認められず、受け止めてもらえず、心に空いた虚無を広げながら大人になってしまう精神的焦土の世界で、受容の飢餓に苦しむ人たちがいます。

 自分で考えを口にすることでより深く意識に浸透して、カルボは改めて納得し、そんな自分を——そしてご主人様を、すこしだけ受け止められた気がするのでした。

 ペスカは付け加えるように言いました。

 "言い換えればこだわりだね。こだわりって言うと悪く聞こえないでしょ? それを我が子の才能と伸ばす人もいれば、わがままだって詰む人もいる。深い愛も言い方をかえれば依存関係。白血球だってガン化するみたいにさ、ストーカーは純愛が変貌してしまったものかも。そんなもんだよ、この世の中"

 "……解釈だ。何者でもないものたちの解釈で、この世はできている、ニーチェの言葉……"

 "善し悪しを人によって変える人がいる。そんなのに負けるな、カルボ、そんな奴らの思い通りになってやるな。ならこっちだって、自分のために都合よく塗り替えちゃえばいい。バカになって、今は自分を救え"

 "…………"

 "それがいつか、誰かの為になればいい"

 そこでがらがらがらとシャッターを下ろすかのような大きな物音がベランダの入り口から響いて、二人は振り向きました。殊にペスカは目をまんまるくして飛び跳ね、喜びます。

 "ああーー! なんだ?! なんだ?! それ!"

 "ふふふふ……"

 にんまりと得意げな顔して運んでいるのはロンチとロゼ、ロッソでした。

 というのもベランダの入り口を形成する木彫りの彫刻壁そのものが横にずれていくのです。

 簡潔に説明しますと、壁は一枚一枚等間隔のパネルになっていて、一階の外界につながる大扉のようにU字状のレールにそって動かせるのです。

 そしてU字の弧を描く内側にはちょうど例のグランドピアノが置かれていますから、壁を内側に入れればテラスは即席の野外ステージになるのでした。

 その座席には、今はジェノベが。それから傍らにはベーゼがヴァイオリンを持って立ち、静かに演奏を始めました。

 "素敵すぎる……"

 ペスカはその一言で口を閉ざすと、カルボとアンチとその場に座り込んで静聴するのでした。ペスカは正座でした。

 言葉のいらない励ましと、ペスカの哲学に、カルボは次第に久しぶりにオキシトシンの活発な動態を感じ始め——。

 翌朝。

 "わんっ! わんっ!"

 "アンチ……?"

 突如耳元で吠え広がる犬の声にペスカがむくりと起き上がると、それはカルボの録音式目覚まし時計。

 すでにカーテンの開け放たれた窓からは昼間ですが小鳥のさえずりが聞こえてきて、その前には職人の小さな人影が。

 "ペスカ。朝練、行こう"

 "お、カルボ! 元気になった?!"

 "あはは……まだ完全とは言えない。立ち止まることだってあると思う。でもやりかけで終わりたくはないからね……"

 カルボの目にはそこはかとない熱意が再び灯り始めているのでした。

 それから一週間後……。

 ペスカとカルボは二人して、どるるるると断続的に浴びせかけられるひよこ豆の驟雨しゅううに襲われながら、東の小島は街角を死に物狂いで走り抜けていました。

 視界の前方ではカルボのご主人様を乗せた箱車を押し、背後からは令嬢の残忍な嬌声が聞こえてきます。

 "おほほほほほ! あね様にこびりつく汚物は消毒ですわーーーーっ! おほほほほほ……!"

 ひよこ豆を打ち放す特製のミニガンを抱えたナポリの強襲を受けていたのです。

 そして路地を駆け抜け、追われたT字路。ペスカはしかし、ハッ——と先刻の映像がよぎって、カルボを制止します。

 "待って! カルボ!"

 足を止めた刹那、二人が今しがた出ようとした通りの壁にびしっ! とひよこ豆が突き刺さり、粉々に砕け散りました。

 とたんに小さな野鳥、チェーチの群れが舞い降り、子供の後ろを尾けて食べのこしを狙う飼い犬のように地面に散らばったひよこ豆をついばんでいきます。

 "…………"

 AIのように正確な狙撃……。そのまま飛び出していたら、少なくとも二人のうちどちらかの側頭部には大きなたんこぶができていたことでしょう。

 ペスカは割れたガラスの断片を使って角の向こう側を覗くと、向かいの屋根の上……キラリと光るなにかが見えます。

 豆粒のような小ささですが、なんとロネーゼがこれまた特製の狙撃銃を構えているではありませんか。

 心なしか鏡越しにコッキングして薬莢を弾き出すロネーゼの口元が恍惚に緩んだ気がします。

 "逃しませんわ! お姉様方、おほほほ!"

 すぐ背後からはミニガンを構えるナポリ(を乗せた台車を引っ張る黒子たち)が迫ってきます——、

 そうしてナポリ、ロネーゼの猛攻を受け、

 "辞めたい! もう辞めたい! ねぇ、このゲームさー! 筋肉関係なくね?!"

 頭を抱えるカルボの嘆きが響き渡るのでした。

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