第4話

ペスカたちはその日も変わりなく、朝練に向かうため、まずは玄関から出て庭の方に周り、アンチの犬小屋を尋ねます。

 事情を察しているアンチが寂しげに"くぅーん"と鳴きますが、今は考えても仕方ありません。その背を優しく撫でて、ペスカは言います。

 "カルボ超鬼兵長は今日は休暇だ。しかし、見たまえ。この鐘は鳴らされた形跡がない。大丈夫、大丈夫"

 "殺そうとしといて、どの口が"

 ロゼはこう言いますが、愛嬌です。そんなペスカの口ぶりにも少し元気がなくなっているのを、姉譲りの観察眼で見抜き、かつを入れているのでした。

 しかし他の職人たちもカルボのことが気にかかって、どうにもおせわに身が入りません。

 "カルボ、大丈夫かな……結構、重症じゃない?"

 "だろうね……実際、彼女の悩みは難しい"

 "うん……"

 作業場の一角、ジェノべは備品棚から荷物をおろしながら長いまつ毛を細めて流し、ロンチを諭すように語ります。

 "何者かになる、個性を尊ぶとは聞こえはいいけれど、一方誰もが成れるわけではないこともまた、自ずと解っているもの。かつ能力に満たないもの……己の実力を過信し、独善的な目的のみ追求するものが不相応な地位につくことも往々にしてあるものだ。——その悪しき代表例が親だよ。手順を踏めば誰でもなれるが、その地位に相応しいかはまったく別だ"

 "伴い、私たちみたいなのが必要になった……カルボの言うことは間違ってないよ……"

 ロンチが引き取るように続けたので、ジェノべはふとして思い、続けます。

 "そうさ。すなわち、個性や才能なんて己の人生の幸不幸にはおよそ関わりがない。あるのは、それで笑う者がいれば泣く者もいるという事実だけ。死生は一体だ。恵まれているものも、恵まれなかったものも、このことを忘れている。恵まれているものは他者の有り難みを忘れて傲慢になり、恵まれなかったものは自己を蔑ろにして余計に卑屈になってしまう。実のところ両者にさしたる違いはないと、そこまで分かっているのに……"

 話すにつれ、ジェノべの瞳にも珍しく陰りが差しました。

 "しかし、そうは言っても誰にとっても今は、自分が自分でいられる一度しかない人生なんだ。それを考えると、諦めるというその三文字は純粋で願いが強くあればこそ容易に口にできるものじゃない、どんなに絶望的であってもね……。それが……それが普遍的な望みであれば、なおさらだろう。一言二言でその認知や仕組みが変われるなら、誰も初めから悩みはしないさ……"

 来る日も来る日も、当てどなくご主人様のせわを焼き続けることが使命の彼女らです。誰もがカルボの悩みに覚えがあります。

 "私たちだって不屈である前に、まず、ただのガラス細工職人なんだからね。彼女が折れないように祈るか……あるいはこんなとき、ロネーゼならどうするのかな……"

 "ジェノべ"

 ベーゼがいつもと変わりない無表情で、その実どこか気遣わしげに言いました。

 "ジェノべを諦めろと言われたら、私なら死んでやるわ。だってそれはもう私の望む人生ではないもの"

 "そういうことさ、ベーゼ。誰もが諦めたくなんかない、けれど、どうしようもないことなんかざらにある。だからこそ恵まれているものも、そうじゃないものも、双方認め合い、凹凸を補い合うことが寛容なのに、現実はそうならない。争わせようという思惑のためだったり、凸の部分ばかり注目する誰か、あるいは凹を必要以上に貶める誰かがいて、私たちのご主人様を——その心を傷つけ休ませてはくれない。この誰か。心の平穏を無粋な言葉を用いて土足で踏みにじるこの誰かこそが……。私は……心の底からあさましく、最も醜いものだと憎悪を込めて思うよ……"

 "なら本当にペスカのやったようにさ、敗れた時点でいっそ殺せ……か。でも、それこそあんまりじゃん。別の可能性の放棄でもある"

 珍しくロンチの口調も重めでした。

 "だからさ、みんなもっと適当にすればいいんだよ。こだわるから苦しくなんのよ。そんなの忘れてさ、その日その日を楽しめばそれでいいじゃん? てか、それしかできることなんてないし。時が哀しみに忘却をくれるって誰の言葉だったっけな"

 "それは現代において既に詭弁よ。誰もがそうなれたらいいという希望的観測。過ぎるだけの時間は腐食を促すこともある。自分の望みは叶わないのに、その間も身体は見も知らぬ誰かのために動かし、生かしつづけなければならない、このギャップが自他をむしばむ膿みになる……ねぇあの子——折れたりしないよね? ……ジェノべ?"

 ベーゼが気づいた時、ジェノべは口元に手を当てていました。それから熱に浮かされたようにして、

 "——別に方法があるにはあるんだ。本来最悪的に野蛮な方法に依らざるをえない、けれど私たちが本気を出せば——だから、か? だから、私たちは人間どもに……"

 ジェノべが言いかけたとき、

 "ただいま帰りました"

 "お、ペスカたち、帰ってきた……"

 律儀な挨拶と共に玄関先に人の気配がして、職人たちが振り返ると、朝練一行がざわざわと物音を立てながら入ってくるところでした。

 その先頭でペスカはアンチを抱きかかえています。アンチは大人しくペスカの腕にだかさって、黄土色と白色の毛むくじゃらの下半身をぶらぶらとさせていました。

 "おー? アンチじゃん、どうした?"

 "ううん。外歩いてきたから、足洗わせるだけ"

 "足洗わせてどうするの?"とビアンゴ。

 "……カルボと一緒に寝る"

 ペスカもそこは解っているのでしょう。どことなく気まずそうに言い、迎えた二人も待ったをかけるように腕を組んで唸ります。

 "うーん。今はまだそっとしといたほうがいいんじゃないか?"

 "ちょっと……私もそう思う"

 "でも……元気でないかな"

 "というよりは、一人になりたいときもあるのさ、ペスカくん"

 作業場の方から、今度はジェノべでした。続いてベーゼも答えます。

 "不思議だけどね、あえて元気になりたくないときというのもあって、それは誰かといては難しいのよ。わかるでしょ? それが休むってことよ"

 "ベーゼ、良いこと言う!"

 "私たちはカルボが元気になって起きてきたら、優しく迎えてあげよう?"

 "うむ……転進もまた英断なりて……"

 いつでも猪突猛進では上手くいくものもいきません。各々自分の歩幅、ペースというものが必ずあります。

 ペスカはふぅと一息、抱えたアンチの顔を見て、エゴを押さえるのでした。



 一方そのころ。

 ペスカとカルボの自室では一人、カルボがもんもんと反省会を繰り広げていました。

 寝ているのですが、その実、意識ははっきりとしています。狸寝入りというのでもありません。目を閉じて内省に集中力を研ぎ澄ませているのです。

 そして深く記憶の底に沈みこんで、この同じ部屋で、ロネーゼと過ごした日々のことを思い出しているのでした。

 "ねぇカルボ? カルボ!"

 "んー?"

 カルボはその時書物を通じて、外界のことを学んでいるところでした。俗っぽく言うとごろごろしながら小説を読みふけっていたのです。それでロネーゼは呆れて、いつものように言うのでした。

 "もーカルボは今日もずっとなにを見てるの? それがそんなに面白い?"

 ちなみにこの頃ロネーゼはまだ横ロールではありません。あわい桃色の髪を伸ばしただけのおしゃまな淑女でした。

 "面白いよ! 悪役令嬢!"

 カルボはすぐに起き上がると、満面に夢見る乙女のような笑みを浮かべて返します。

 "なんて言ったらいいんだろう。今まで日の目を見なかったやられ役にスポットを当てていて、その子たちが主役をとっちゃうの"

 "面白いの? それが?"

 "あーなんて言ったらいいんだろう。量産機で主役機をあの手この手で工夫してやっつけるって考えたらどうかな? ライバル役が主人公を倒して、仲間を奪ってしまうIFストーリーとか! ロマンあると思わない?"

 "うーん、序盤でやられたクモのモンスターがいたとして、それが主役の妹の座を奪ってレギュラー化。なんとその友達含めて仲間にして部隊に加わり、お屋敷様に代わって隊の全部を取り込む幸せ家族計画を立てちゃうとか、そういうこと? 趣旨変わっちゃわない? それにザマァされる運命の元ヒロインが可哀想で、私にはちょっと難しいかな"

 "すごいや。そこまで話してないのにザマァまで完全にシステム理解してるやん……"

 "それよりもこんなに良い天気なんだから、散歩したり、買い物に出かけたり、そっちのほうがワクワクしない? この間ね、とってもオシャレな香水職人さんのお店を見つけて……"

 カルボはごろりと寝返りを打って言います。

 "やっぱロネーゼには文学は難しいかも"

 "文学……うーん。カルボがそこまで言うなら試してみようかな……"

 ロネーゼはそう言って自分のベッドでカルボに勧められた文学を嗜みましたが、なんというのでしょうか。すぐに足の先やら胸の奥やら、身体のあちこちがムズムズしだして集中できなくなってしまいます。

 体勢をかえストレッチしながら読んでみたり、声に出して読んでみたり、筋トレしながらも試してみましたが、ロネーゼはやはりどうにもじっとしていることが苦手なのでした。いえ、スポットライトに当たっているときは大丈夫なのに。

 終いにロネーゼは地獄の底からしぼりだすような淑女にあるまじき音を喉に響かせ、唸ります。この時彼女はベッドの上に座りながら、左足の先を首の裏側に回し、両の腕を土下座するように前にべったりと伸ばす複合ヨガの体勢でした。なお、無理な体勢は骨や筋肉に負荷がかかり大変危険です、絶対に真似しないでください。

 "あ゛ーだめ。これだめ。わたし、どうにもむしゃくしゃしてきちゃう……回しちゃいけない方に身体を回したくなっちゃう……どうしてなの?"

 "こらえ性がないんだから、ロネーゼは"

 "でもカルボが勧めてくれたんだから、もう少し……もう少しだけ"

 言いながら再び読書に戻るロネーゼでしたが、すぐにまた"あ゛ー"とうめく声が聞こえて、しばし沈黙。

 また"あ゛ー"というのを何べんも繰り返すのでした。

 別の日の作業中。

 ロネーゼはご主人様のせわを焼く間いつもガラス細工に語り掛けるのがくせで、その日もコンパウンドで研磨したのち水洗いで細かい粒子を落とし、ポリマーコーティングでぴかぴかにつや出し。そうしてプラモの表面をつるつるにするようにご主人様を磨き上げながら、せわしなく話しかけていました。

 "待って待って。うそでしょ。信じられない! トム・クルーズかと思った。そんなバカなって思うかもしれないけど、角度でそう見える。ほら、このアングル! 写真に収めたい。額縁に収めてリビングに飾りたい。さすがわたしのご主人様、なんてオーラなの……オーラだけで近所のご主人様、軽く五千人は倒せると思う……"

 "なんのこっちゃ"

 "ロンチ、口を挟まないで。マナー違反よ。ガラス細工職人とご主人様の話に割って入るのは"

 "はいはい"

 カルボはその様子をぼけーっとして見ながら、ふと気が付いたようにつぶやきます。

 "すごいなぁ、ロネーゼは"

 "マジか、カルボ"とロンチが口を挟みます。"ある意味すごいっちゃすごいけど"

 "どうして?"

 ロンチは無視してロネーゼは聞き返し、カルボは続けました。

 "いつでもそんなに自信たっぷりでいられるんだもの"

 "わたし、自信なんてないけど"

 "え……そうなの? それならどうして……"

 "うーん、それは分からないけど……"

 ロネーゼは顎に人差し指を当て、しばらくそうして考えたのちに言います。

 "わたしはカルボのことは信じてるよ"

 "え……"

 "よく分からないけど、カルボはいつもそういってわたしのことを褒めてくれるよね。だから、それを信じてる"

 "……そ、そんなぼくのいうことなんか"

 "じゃあカルボは嘘つきでわたしのことを褒めてくれてるの?"

 "……ってわけでもないけど"

 "そうでしょう? 自信はないけど、わたしはわたしを取り巻く全てのことは好き。だから、その気持ちを信じれば、あーそんな素晴らしいものに毎日囲まれているわたしってなんて素敵なんだろうって思えるわ"

 "つまり圧倒的性善説ってわけね"

 "ロンチ、茶々をいれないで"

 また別の日。ロネーゼは部屋に戻ってくるなり、カルボに胸に抱いたものを見せて言いました。

 "カルボ、見て!"

 "わんっ"

 ロネーゼの胸元でぶら下がっていたのはなんと柴犬。それもまだ生まれて間もない様子。

 しかし子供ながらに威勢よく吠えるもので、カルボを驚かします。

 "わんっ、わんっ!"

 "おわっ。い、いぬっ? ち、ちょっとまって、ぼく犬は——"

 カルボの動揺が落ち着きを見せる間もなく、続けてロネーゼははっきりと言いました。

 "これは運命よ"

 "う、運命?"

 "そう。わたしがあなたを通して文学に出会ったように、あなたもわたしを通してこの子と巡り合った。Heaven helps those who help themselves. マリア様は自らをたすくるものをたすき、導くのよ。そのしるべは様々な形、場所にあらわれるというわ。だからカルボ、この子はあなたが世話しなさい"

 "えぇっ? なんでぇ?"

 "やる気のないときも、この子が引っ張ってってくれるでしょうから"

 ロネーゼはそうして柴犬をカルボに抱かせると、さらに懐から目覚まし時計を取り出してカルボの机に置きます。

 "それからこれも。この子の声を録音して目覚ましにしましょう。怖いのならなおさら、朝はばっちり起きられるようになる"

 "まってまって。ロネーゼ。いきなりすぎるよ……いったい、なにが、どうして"

 "どうしてもこうしてもありません。マリア様が彼女にこの試練を与えよと告げているようにしか見えないの"

 さらにまた別の日。

 その日はキッチンでした。カルボの悲痛な声が響きます。

 "ロネーゼ! 出ていくってほんとう?"

 "ええ! わたくし、決めましたの!"

 ロネーゼはティーカップに注いだほうじ茶をすすりながら事もなげに答えます。

 "ご主人様も認めてくださっていますわ。わたくしはカルボやここの職人たちだけじゃない。この愛をもっと多くの人に広めて、この世のどんな女神よりも優しい女神になる。そうしてこれまでは目に入らなかった人たちまでも愛を届けてさしあげるの"

 "そ、そんな……だって、じゃあ、この工房は? ぼく……みんなのことが嫌いになっちゃったの?"

 "まさか。そんなわけありませんわ"

 "なら、なんで……"

 "言ったでしょう? あなたがわたくしを通してアンチと出会ったように。あなたがわたくしに示してくれたの。気づかせてくれた。わたくしとご主人様のすべきこと……"

 "悪役令嬢……? あんなのただの娯楽だよ? それが……"

 "すこし形は違いますけれど、きっと本質はそう。わたくし、それを信じてみたいの"

 カルボは腰のそばで、ぎゅっと拳を握りこんで憤慨しました。

 "よくわかんない……わかんないよ、ロネーゼ! なにも出ていかなくたって……!"

 カルボだって人の心を直すガラス細工職人の端くれ。如何な前向きな言葉で言い繕おうとも、それがロネーゼの惜別の決断であることは解っていました。

 "カルボ……"

 "……何もしなければよかったんだ"

 哀しみにくれるカルボは思いの丈をぶちまけます。

 "こんなことになるのなら、初めから応援なんかしなければよかった! 悪役令嬢も勧めなければよかった! ぼくのしたことは全て、無駄どころか空回りで、最悪の結果を招いただけじゃん! ひどいよ! ロネーゼっ——!"

 行かないでと。

 その一言が、なぜ言えなかったんだろう。

 違う、違う。

 他の人なんて知らない。どうでもいい。

 ぼくを見ていて。ぼくだけを。

 それがわがままだからだ。

 自分のわがままで引き留めることはできない。それが解っているから、だからこその半端に漏れた癇癪かんしゃくがこの有様。

 ジェノべの言うとおりだ。

 どうにもならないから、子供のような駄々を言って甘えるしかぼくにはできなかったんだ。

 でも、なら、心は何のために存在するの。

 ぼくの命は何のためにあるの。

 自分は何のために産まれてきた?

 そして何のために死ぬのか?

 自分の中に確かにある、叫んでる、一番強い想いこそを殺して、殺して、殺し尽くして、それが生きるってことなのか? そんなの……そんなの、まるで命にはりつけにされた奴隷じゃないか——。

 そんなの、すでに自殺じゃないか——。

 ——ああ、だから。

 だから、こんなに身体の底が苦しいのか。

 ぼくという自意識を形成する心はそうしてもう死んでいるのに、本当は肉体までも殺してしまいたいのに、それでもあの人を哀しませないため、まだ生きているフリをして生きていかねばならないから——。

 "……それでも、わたくし共は不屈のガラス細工職人ですから——"

 ロネーゼはまさしく聖母様の深い慈悲をなぞるかのような微笑みをたたえると、カルボをふわっ、と、その腕の中に抱きしめて言いました。

 カルボの鼻腔をロネーゼの甘い香りが刺激しますが、カルボはもう次から次へと流れ出てくる鼻水でそれどころではありませんでした。

 "でも——それでも、あなたと出会えてよかった。わたくしのすべきことに気づけてよかった。わたくしはそう思う"

 ロネーゼはカルボの泣き顔を隠すように胸のうちに抱きしめて言うのでした。

 "だから、そんな哀しくなることを言わないで"

 "……っ"

 "あなたは大丈夫。きっと、やり遂げられると信じていますわ、カルボ"

 俯くカルボの上から、ロネーゼは人差し指を顎に当ててさらに言います。

 "もう一つ、何かほしいんですの。わたくしは大衆を安心させる受け皿となるのだから……偶像というのはただ清廉潔白というだけでは……そうだわ、つけ入る隙のような、愛嬌のような……なにかない? カルボ。あなたのアイディアをわたくしにくださいな"

 "語尾にでもつけたら? 知らないよ、君のことなんか、もう……"

 そして今。

 カルボは同じ部屋のベッドの上、布団にくるまり、

 "解ってる……解ってるけど、ロネーゼ……それでも、ぼくは……。この心は、折れているんだよ、もうとっくに……! それなのに……きみはっ……!"

 身を縮めるように苦悶するのでした。

 敗れた夢を抱えて、これからどうして生きていけばいいのか。忘れろと言って忘れられるなら、初めからこんなに悩むこともありません。

 考えるほどにやはりやる気は削がれ、四肢から力は抜けていきました。

 望みが絶えると書いて絶望。カルボの脳裏には絶望がひしめいているのです。叶わない願い事が、足枷のようにまとわりついて離れないのです。

 望みの叶わない人生など誰が送りたいと思うでしょう。

 もういい。やめたい。いなくなりたい。

 お役目も、何もかも放り投げて。

 そもそも世界は残酷なものなのだ。

 一瞬でも誰かを想えただけ、自分はまだマシであるかもしれない。

 徒労感。無力感。哀しみ。憎しみ。

 果てなく続く闇に飛び込むように、ぐるぐると、カルボは自問しつづけ、ふと思い出したかのように至ります。

 そういえば。

 ご主人様はどうしているでしょうか。

 実は入院してから看護師に手厚く世話され、それはただ仕事でやってるだけなのに愚かに浮かれる様にも(そしてまた真実を知って痛い目に遭うだけなのに)どこか苛立ちがあって、カルボはしばらくそのおせわを焼いていませんでした。

 "まったくさ……ガラス細工職人失格だな、ぼく……"

 少し気になりました。

 カルボはまだここにいる。それはご主人様がまだカルボを必要としている何よりもの証左でした。他の誰でもなく、あのご主人様にはカルボが必要なのです。カルボがロネーゼを必要とするように。

 それが解らないカルボではありませんでした。

 "あーもう……"

 そうしてベッドから這い出ると、カルボはこっそり部屋を抜けでます。

 もう外は陽が落ちて真っ暗でした。いつの間にやら二階にはホールができていましたが、カルボは今日そもそも穴が空いてた様を見ていないことにそこで気づきます。そのこともまた一層カルボの心境に影をさしました。

 何から何まで何もしていない。何もできなかった自分が嫌になります。

 だからこそせめて体面だけは保とうと思い、一階、ご主人様の管理室へ向かうその途中でした。

 カルボは信じられないものを目の当たりにします。

 消灯されて真っ暗、かつしずかな居住まいでしたので、てっきり皆自室に戻っているかと思いきや——なんと、皆集まってそこで寝ているではありませんか。

 作業場の袂、玄関の前のちょっとした広間に布団と枕を持ってきて。

 いつぞやのようにこの広間で夕食を取ったのでしょう。

 出されたテーブルの上、そこに一枚の紙切れがありました。

 "カルボの分は冷蔵庫に入ってます。食べられたら食べてね"、"→筋肉は四時間で溶け出します。落ちるときは一瞬です、もったいない"、"美味しいもの食べて気楽にいこうぜ"、"視野を広げすぎなのも考えものだよ"、"誰かさんを見習ってもバチは当たらないわ"、"今度ホア活一緒に行こう"、"殺しはしないけど、あんな朝練も悪くなかった"

 それは職人たちのメッセージカードでした。

 かろうじて"げんきだしてね"、"またあそぼうね"と読めるのもあり、終いに肉球のスタンプ付きでした。

 "これはビアンゴ。ペスカ、ロンチ、ジェノべ、ベーゼ。ロッソにロゼ、ヴァンデとネロ……アンチまで"

 思わず笑みが溢れました。

 "……あーもう"

 カルボはなぜこんな自分に……とか、やはりまた後ろ向きなことを考えてしまうのですが、それはそれとしてとりあえず食事は済ませることにします。

 "どいつもこいつもバカだな、みんな……"

 そうしてカルボはキッチンで食事を済ませると、管理室に入り、ご主人様と向かい、夜通し対話するのでした。

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