第3話

"えっさ、ほいさ、ほいさ、えっさ"

 朝練のメンバーにカルボが加わり、アンチを正式加入しての初めての朝。工房の周りをランニングする職人たちの掛け声が沢沿いの道に響きます。

 "俺たち絶対こーろす!"

 "俺たち絶対……え?"

 "ロネーゼ絶対こーろす!"

 "ロネ……え、ちょっと。ちょっと待って"

 掛け声に疑義を覚えたロゼのペースが遅れますが、間もなくその日の隊長役、カルボ超鬼兵長の叱咤が飛びました。

 "なんだ?! 遅れたものはブルガリアンスクワット二十回追加だぞ!"

 "わんっ! わんっ! ぐるるる……!"

 アンチもカルボに呼応するようにロゼに勇ましく吠えました。ロゼは当惑して答えます。

 "いや、なんだ? って……掛け声、殺伐としすぎでしょ。しかもロネーゼ……"

 "ならば貴様、筋肉を……力を手に入れてなんとする?"

 "なんと……? いや普通にご主人様をもっと上手く磨けるように……"

 "自惚れるな! 力を欲するのはその力で蹂躙したい奴がいるからだろ!"

 "えぇ……"

 ロゼに続き、ロッソもまた物言いたげにペスカを見ますが、ペスカのメモリはすでにマリア様ビアンゴとご主人様のおせわでいっぱい。これ以上精神を消耗するわけにはいきません。

 カルボは拳をにぎると目の奥をぎらぎらとたぎらせて話しました。積年の憎しみを込めるように。

 "ぼくは誓ったんだ。一度ならず二度、三度とぼくの出番をコケにしてくれたあのハナタレ令嬢をカンプナキまでに泣かせて、跪かせてやる……何が教祖だ、エレガントでも何でもないんだよオホ(笑)……二度とぼくを忘れさせないって!"

 "まさかロネーゼ本人もここまで上手くいくとは思うまいよ"

 ペスカに代わってロッソが呟くと、カルボは再びジョギングの体勢、その場で足踏みしながら、

 "ほら、そうと決まれば休んでる時間なんてあるのか! 鍛えて鍛えて、こいてた奴らを片っ端からひねり殺すんだよ! ヒャハハハハッ! 報いを受けろ、クソ野郎共!"

 それからもカルボは意気揚々と掛け声をあげて、ペスカら三人と一匹の先導を務めるのでした。

 "しねしねしーね! ロネーゼ、しーね! ぼくは何も悪くないよ。ぼくの気持ちを裏切ったのは……ぼくにこうさせたのはロネーゼのほうなんだからなァッ! ヒャーーハッハッハッ!"

 自慢の長いちりちりの白髪を振り乱して走る様は、血走った眼も相まってさながら歌舞伎舞踊演目『獅子物』、毛振り。その鬼気迫る姿にさしものロゼも固く口を閉ざします。そしてロッソと同じくペスカをチラ見。

 けれども、やっぱりペスカも黙認の構えを崩しません。ぷいっと二人から目を逸らします。そして遠くを見、ぼそっと呟くのでした。

 "やる気出たんならいいんじゃないかな……"

 "いいのか。闇の騎士誕生してっけど"

 ロゼは呆れて言うのでした。



 その日から、トレーニングは昼夜を問わず何日も、何日も続けられ、まさかのペスカのほうが体力切れを起こす有様でした。

 昼日中のマラソン中。バテたペスカが膝に手をつき、全身で息をつきながら立ち止まりますが、少し先をいくカルボがとたんに叱咤します。

 "そんなんで貴様! ビアンゴ、痩せさせられんのかよ!"

 "今……さすがにビアンゴ……関係なくない?"

 "バカヤロウ! いいか? ここでペスカが熱いトレーニング中の姿を見せる→ビアンゴが感銘→私もやってみようかなってノってくる! どうだ! デブじゃない、元のビアンゴを自然に取り戻せる!"

 "こいつ、ビアンゴが聞いてないと思って……"

 "そう思えば、足が千切れようとも走れるだろ? 腕が千切れようとも腕立てできんだろ!"

 "わんっ! わんっ!"

 アンチが吠えたててペスカを焚きつける間にも、カルボはどこからかロープを取り出します。それで今度は何をするかと思いきや自分とペスカの腰に回して言いました。

 "じゃあ仕方ない。これで! ぼくが引きずってでも鍛えるから! 絶対ペスカを甲子園に連れてくから!"

 "ぎゃー、この人起こしたらマズい人だった! 私よりマズい人だった! もう無理です、もう待って待って! おいアンチ、ロネーゼ呼んでこい! 奴に責任取らせろ!"

 そのように日々街中を引きずりまわされるペスカの悲鳴が響いて、にわかに住人の名物にもなりつつある頃でした。

 汗だくになりながら街のレンガ路地を抜けていくと、仕事か、学校帰りでしょうか。ふと前方のアイスクリーム屋から、それはかしましい乙女らの囁き声が聞こえてきます。

 "あらあらイヤですわオホ。ナポリたんったら"

 "うふふふ、あね様こそ"

 ロネーゼとナポリ、それから信者とおぼしき黒子たちでした。

 この時ばかりは黒子たちも覆面をはいで、中のお上品なお嬢さまたちが外気に素顔をお晒しあそばせになって、ひそひそと笑い声をかわしながら二人に続いていました。

 皆、とろりとほどよく溶け、ひんやりして甘そうな色とりどりのアイスクリームを手に、きらきらとした夕暮れの沢沿いを歩いてきます。

 かたや汗と犬臭さをぷんぷんにまき散らしながらぽかんと立ち尽くすペスカ、カルボとポチが一匹。

 "……あら、これはこれは。ペスカにカルボにアンチではありませんかオホ"

 "ごきげんよう。お姉様方"

 中心の二人がやがてペスカ、カルボらに気付くと、軽快に声をかけてきました。ナポリなどは着飾った衣装の裾をもっての淑やかなお辞儀さえかましてきます。見ればロネーゼもまた晩餐会にでも赴くかのような豪奢な毛皮に身を包んでおりました。

 "今日は工房のお仕事はお休みですかオホ? そんなに汗だくにな——うっ、なかなかひどい匂いね……"

 "あぁ、いけません。あね様。この辺りは邪なお香が焚かれておりますわ。この、信者からの寄付金で購入したサンタマリアのヴェッラさんのところのお香水をお振りかけあそばせねば"

 ナポリはそう言うと黒子に自分のアイスクリームを持たせて、自分は懐から取り出したそれは小さな小瓶をしなやかな指の先に乗せるように持ち、しゅっ、しゅっ、とロネーゼに吹きかけていきます。

 そんじょそこらの香水とも違う、独特でいて気高い香りが二人を中心に漂う一方、ぽかんと立ち尽くすペスカ、カルボ、ポチの鼻につくのはすっぱい汗と犬、それから脳内をめぐり始めるアドレナリンの匂いでした。

 "『王妃の水』でございます。あね様"

 "ありがとう、ナポリたん。くるしゅうございませんことよオホ"

 "いえ。それより早くこの場を離れましょう。ここにいては……いえ、決してお姉様方を忌避するつもりはございませんが、しかしあね様はもう聖女の身分でございます。俗世の匂いに侵された姿をお晒しになられては信者にも示しがつきませんゆえ"

 "それもそうですわねオホ。……ペスカ、カルボ、それからアンチも申し訳ありませんが、わたくし共はこれから教会でミサがありますの。どうか、気を悪くしないで。ご理解なさってくださいましね。それでは。オホホホ"

 ロネーゼとナポリは気遣わしげにそう言うと、ぷーくすくすと笑う黒子淑女たちを連れ立って道の反対方面へとすれ違っていくのでした。

 二人ともじっと立ち尽くしたまま、一言も発せず、また微動だにもできませんでした。

 時刻は夕暮れ時。朱の強く照りつける反面、深く影が差すその背には、なんといいましょうか、すでに濃ゆい敗色が……哀愁とともに立ちこめていました。

 握り拳がふるふると細かく震え、ポチが哀しげに"くぅーん"とその拳に鼻を寄せます。

 カルボは食いしばった歯の隙間から呟きました。

 "ぶっころす……! 『王妃の水』だぁ? よろしい、そんなに嗅ぎてえなら、来週は愚者の血を存分に嗅がせてやらぁ……!"

 "よし、その意気だ……(でもその例えだと私たち惨殺されてない?)"

 "くくく……ふっふっ……うぅ……"

 声をかけたはいいものの、ペスカにはもはや泣いているようにしか見えないのでした。



 イヤな予感は的中します。その夜、カルボは"ただいま"と"いただきます"、"ごちそうさま"、"おやすみなさい"の挨拶以外には誰とも、一言も交わさず、早々に床に着くと布団をかぶって反省会。

 ペスカが他の職人たちに事情を話すと、やはり皆、かける言葉も思いつかず、その晩はそっとしておくことになりました。

 一方転んでもタダでは起きないペスカは"おや? 待てよ?"と、お脳の会計士ペスカに相談。明るい色味のスクエアメガネをキリッと持ち上げると、手元の電卓を軽やかに叩いて、マイナスを好機に捉える打算結果を弾き出します。

 団らんののち、キッチンに並んで後片付けをしながら、ペスカはいかにもさりげない素ぶりで切り出しました。

 "今は部屋に一人にしてやろうと思うんだ……。てことで今日、マリ……ビアンゴの部屋泊まっていい?"

 "てことで? んーまぁいいけど、私はいつもヴァンデとネロと一緒に寝てるから、ペスカは下のベッド使ってね"

 "え? あ、あぁ、はい……"

 ビアンゴの部屋に入れたはいいものの、枕を交わすのはロッソ、ロゼの二人でした。

 "ペスカー狭いよー"

 "ペスカー暑いよー"

 朝の逆襲とばかりに悪態をぶちまける二人の姉妹に挟まれながら、ビアンゴにあっさり袖にされたもどかしさ、寂しさが一層ペスカを責め苛んだのでした。

 "ちきしょうがぁっ!"

 と内心ペスカが叫ぶのと同じように——。

 ——その時隣の部屋では、カルボが枕を壁に叩きつけておりました。

 "くそ……ちくしょう……やる気出せ、出せ、出せ……出せよ! こんなんじゃダメなのに……しっかりするって……もう気を遣わせなくてもいいようにするって決めたはずだろ……なのにさ……"

 どんなに忘れようとか、強く振る舞おうとか、威勢のいいことを思おうとしても次第に、どうしても昼間の光景がちらついて集中できず、心から何か、それまで肉体を支えていた柱そのものが抜け落ちてしまったかのように、立ち所に力が抜け落ちてしまうのです。

 底に穴の空いたボウルに水を流し込むかのように、身体に力が入らないのです。

 "こんなだから……ぼくは、ダメなんだっ……"

 諦め。

 戦う前から敗北している。

 今からこんな調子じゃ、それこそ結果は見えている。

 何をやっても、やらなくても、何も変わらない。

 所詮、ぼくなんか。

 そんな言葉が頭の中に浮かんで、カルボのやる気をむしろ急速に削いでいくのでした。

 明くる日。

 ペスカがビアンゴの部屋で起き、しずかに廊下に抜けて自室に戻っても、カルボは二段ベッドの上に寝たきりでした。ベッドにかけられたはしごを登って、肩をゆすっても強く跳ねのけて起きる気配がありません。

 "おや? カルボ? 朝練……"

 "あぁ……それ、もういいよ"

 "朝練……"

 "もういい。エキシビジョンの勝ち負けとか考えたらどうでもいいし、なんかやる気なくなった"

 "まさかそこに気がつくとは……"

 "…………"

 "でもさー粋じゃない、そういうの。意味がないからこそ無心で頑張れるっていうのかな"

 "いいって。分かったんだ……もう"

 カルボは一度ペスカの方を振り向くと呟きました。

 "ぼくなんかが多少頑張ったところでさ、所詮なんにもならないんだって……! もう……ほうっといて"

 そう言うとまた、カルボは壁のほうに向いて丸くなってしまいます。

 "…………"

 肩を震わせベッドの上、身体を丸めるカルボを見下ろしペスカはふぅと一息。

 "そっか——"

 懐から自前のとんかちを取り出すと、それを振り上げて言いました。

 "——わかった"

 鈍い音が部屋に響きました。



 その日の朝は職人一同ベッドから飛び上がっての起床になりました。というのも突然、断末魔じみた叫び声が工房中に響き渡ったのです。

 職人たち、つまりラビアーを除いたロンチ、ジェノべ、ベーゼ、ボンゴレ姉妹たちは次々とあわてて二階のホールに顔を出して、互いに見合わせ、次第そこに現れてこない人物が浮き彫りになります。

 "ペスカっ!"

 ほとんど叫ぶようにそう言って、二人の部屋のドアを開けたビアンゴは、次の瞬間さらなる恐ろしい状況を目撃して今度こそ絹を引き裂くような悲鳴をあげました。

 なんと、入って右側に置かれた二段ベッドの袂で、ペスカがカルボに覆い被さり、その手には赤く血塗られた鈍器が——そしてカルボの頭部からも出血が見られ——しっかりと握られているではありませんか。

 床にはカルボの真っ白な長い髪が円形に広がり、ベッドのハシゴや柵にもおぞましく血痕がこびりついています。どう見ても現行犯でした。

 "た、たすけて……! こ、殺されるーーーっ!"

 しかし、カルボはまだ生きていました。床に押さえつけられた状態からそうして助けを求めています。

 まだ未遂だった……胸に手を当てて深く安堵するビアンゴでしたが、すでにペスカは殺職人未遂の現行犯です。

 "安心してる場合か!"

 弾かれたようにロンチが飛び出して、ペスカの腕を取り押さえました。

 "ストーップ! ストーップ!"

 "あ、やめ……ちくしょう、警察か?! 離せ! 危ない!"

 "アホか、危ないのはお前だ! 離すかー!"

 "確保ー!"

 ロッソ、ロゼも加わり、土煙から手や足が飛び出るすったもんだののち、ペスカはその日の早朝、午前六時過ぎ、あえなく御用となるのでした。



 カルボの頭には厚く包帯が巻かれ、取り調べは鼻に栓をしたロンチ、ジェノべ、ビアンゴが二階のホールに出たところで略式に行います。

 "なんでやった?"

 部屋の前に立ちはだかった三人の前に正座させられ、ペスカは答えます。

 "今日のカルボは調子が悪そうだったから、殺してやろうと思って"

 "どういうこと?"

 Pardon? Way? ドユコト? すでに迷宮入りの匂いが濃厚。未解決事件って本当に怖い等々のさまざまなクエスチョン表現が頭の上に浮かぶロンチにビアンゴが冷静に答えます。

 "たぶん……彼女は毎日死んで生まれ変わると表現したことがあります。それで今日のカルボを死なせて、明日のカルボに入れ替えようとしたのではないでしょうか"

 "さすがビアンゴ。完全にペスカの理解者で草生える"

 "あっはっはっ! なかなか面白い発想だけれど、ペスカくん。普通は死んだら生き返らないんだよ。だから、殺してはダメ。良い子も悪い子も真似したらダメ"

 "うぅ……ペスカの前じゃおちおちヘコんでもいられないよ……"

 自室からカルボはそう言って、しかし——はっと、目を見開きます。

 "慰めるでも励ますでもなく、その場で殺しにくるんだからな……そりゃ落ち込んでなんか……"

 "——いや、むしろ良い方法かも……"

 ロンチが呆れか畏敬の念をこめて評する傍ら、カルボは先に続けて気が付いたように言いました。

 現場は開け放たれて、今はボンゴレ姉妹の真ん中二人が清掃に取り掛かっているところ。その手前でベーゼの介抱を受けながら、カルボは音が出そうなくらい強く拳を握りこんで続けました。

 "いっそ本当に殺してくれよ、ペスカ。その方がきっと誰にとっても楽になる"

 "また……何を言う、カルボくん"

 ジェノべが些か険しい面持ちで返すや、カルボは周囲を改めるようにかぶりを振り、終いに俯き、腕をさすりながら話し始めました。

 "今日も朝から全身筋肉痛だよ……"

 "それどころじゃないよ。死ぬとこだよ"

 とロンチがさっそく口を挟みますが、ジェノべは……そして周りの職人たちも、冷静に推移を見守るように聴いていました。

 "一方ロネーゼたちはいったいどんなに優雅な朝を迎えてることだろうね。今ごろ信者の寄付金とやらでまかなったサンタマリアのヴェッラさんのシャワーでも浴びてんだよ。人生ってのはこうなんだよ。不器用で、頑張ってもぜんぜん上手くいかない奴がいる一方で、そこまで頑張らなくたって生まれながら持ち合わせたものでテンポよく器用にのしあがれちゃう奴もいる——富む一族はさらに富み、貧する一族はさらに貧していく……物理精神の別なく。あるところにはあり、無いところにはとことん無い不条理な世界。この世は何をするか、じゃない。誰がするか、なんだ……! こんなんじゃそりゃご主人様たちだって生きていたくもなくなるよっ!"

 カルボの思考は憎悪に囚われているようでした。その瞳は暗く、何かを見つめているようでいて、どこを見ているともしれません。

 "だから皆とりあえず何者かになりたがってうつくしく、あるいはいさましい毛皮を着飾るんだろ! いや、あさましいというべきかな! 中身が伴わなくったってね、それでころっと騙されるのが衆愚というものだからさ。世の流れや人の声に倣うだけのバカでいい——そうした多数派にとりあえず身を置いておく方が自分が槍玉に上がらないから楽なんだもの! ……ロネーゼはあろうことか、そんな人心を利用する側に回ろうとしている……人のため、ご主人様のためではなく、自分の承認欲求を満たすためにね! ロネーゼは……、ロネーゼは! 自分が可愛いだけの、ガラス細工職人であることを捨てた裏切り者なんだっ——!"

 "着飾ろうか着飾るまいが、品性は隠せないよ、カルボくん。それは自ら磨き上げることでしか輝きを得ない。そして何者かになれているのなら、着飾った云々はどうあれ、それはもうその人の美しい才覚の証明だ"

 ジェノべが珍しくやや強い口調で言いましたが、カルボは即座に切り返します。

 "嘘だね! じゃあなぜ世界はいつまで経っても平和にならない?! そんな才覚があって、そんな何者かはたくさんいるはずなのに! 成功者様はいったいそのおうつくしい才覚で何をしてるのさ! 逆に成功者が成功者であったがために泣く人たちは絶えず出てくる! 時代が進むほど発見も知識も進歩もあって人間の解析は進んでいってるはずなのに、人の心は良くなるどころか荒むばかりじゃないか! それはなぜだ?!"

 カルボの怒号にジェノべはためらいました。

 その者が権威を持った何者かであったからこそ出来た犯罪も、まかり通ってしまった傲慢も世には数多くあり、また何者かであることに憧れ、固執した人々こそが、そんな人たちの隠れ蓑となっている、なったこと、それもまた是でしょう。

 "その成功者たちこそが間違っているからだ! そいつらが私利私欲のためにやってるだけのことを、どこかの誰かがあたかも素晴らしいことかのように賞賛して、その権威を守る盾になる! そうして臭いものには蓋をし、本当は中身のない言葉、間違っているものを右に倣えで押し上げる仕組みを支持する基盤になるから! そんな成功者たちの哀れで盲目な下僕のために! 足を引っ張る自覚のない信者のために! ご主人様たちまでもひたむきさを失い、やる気を失い、腐っていくんだっ——! 何にもならない、むしろ悪の栄えるごまかしを言うのをやめろ! だから人はそれを、偽善と呼ぶんだ!"

 "……美しい、といったことは訂正しよう。けれど少なくとも、ロネーゼはそれが分からない女性ではないと思う。私も彼女が本当のところで何をしようとしてるのかなんて分からないし、昨夜ゆうべキミ達が何を見たかは知らないけれど……その一度が、カルボくん、キミにとってのロネーゼの全容かい?"

 "…………"

 カルボはその芯をついた物言いに、顔を背けて押し黙ります。

 "……違うよね、カルボくん。キミは……"

 叶わない恋をしているから。

 だから、そのやり場のない愛憎を不条理な世界の成り立ちを当てこすりにしてロネーゼ個人にぶつけようとしているにすぎない。逆も然り。ロネーゼ(や、その周囲にいる人)の言動一つを元にして、不条理な世界の成り立ちを見限り、嘆いてもいる悪いシナジー効果がある。

 しかしつまりそれは、もはやどうにもできないことに対する諦めの悪い駄々だ。

 "——諦め。またしても、諦めか。いったいどれほどのものを諦めれば、私たちは報われるのか。本当に宗教なんてものが形而上に通じているというなら、神よ。あまりにひどい話じゃないか。その願いは……ただ、普遍的でありふれたものであるはずなのに……"

 ジェノべはけれども、それらの言い分を胸のうちに留め、肩の力を抜くようにふっと軽く息をつくと、眉尻を下げて続けました。

 "確かに……やり方は行きすぎたけれど、ペスカくんの言い分は一理ある……疲れちゃったね。今日はバジルのいい香りでも嗅いで、ゆっくりするといい"

 カルボを自室に寝かせて、その場は次第に解散となりました。

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