第2話

次の日。また朝一番からカルボのパリンと嘆く声が地べたを這う蛇の呪詛のように聞こえてきます。

 "だめだったか……"とロンチ。

 "うん……昨日ペスカに言われたことも伝えてみたんだけど……"

 ロンチが項垂れるカルボの背をなでながら優しく声をかけます。

 "窓の前で止まっちゃった?"

 "ううん。二階の窓から出た"

 "直線的すぎるしアホだな! むしろすっげぇ勇気!"

 "あぁっ! ぼくのご主人、突然の後先省みない行動力とやる気だけはあるから……!"

 "そら割れるよ(足が)。勇気とやる気に全振りすると人はこうなるのか。厄介さんはこうして産まれるのね"

 "前もさ、電車で寄りかかってきてて、完全に寝てる子がいたから100%善意で声をかけた結果……いろいろあって尋問受けたあげく駅員に笑い物にされたこともあって"

 "それは声をかけたこと自体が100%善意じゃない。けどたまにいるよね。絶対良いやつで行動力もあるんだけど結果だけがどうしても恵まれないカワイソーな奴って"

 "コンビニ行けばバイトの子に一目惚れして、思い切って連絡先渡して玉砕。自分がバイトすれば、常連のOLさんに一目惚れして連絡先渡せず、っぽかったのに愛想尽かされ。会社に入ればそんな歴戦の数々を同僚の子に慰められ、カラオケ奢ってもらって良い雰囲気かと思いきや帰りにコップ落として割って台無しにしたり……"

 "ボールは来てるのに全部棒に振ってんじゃん。逆にすげぇ打率。前世で何かした?"

 "ご主人は呪われてるって思ってる……泣きぼくろあるから、前世ディアルムドだと思ってる"

 "あー完全にそういうとこだ……。一言で全て把握した。まーリアルのドジっ子は萌え要素じゃなくてただのストレス製造機だからな、トラブル好きな私みたいのはいいけど、大抵はめんどくさくなっちゃうよね……"

 "それで今、ご主人様は?"

 話を聞いていたペスカがピンサー、パファー、種きりバサミ、セロハンテープ等の道具をお盆に載せて運びながら、やはりまた何気なく尋ねました。

 カルボは不安げに答えます。

 "両足イッたからって、今は入院生活だよ……"

 "それって——家から出れてない?"

 ロンチと二人、カルボは珍しく目をまんまるくして顔を見合わせます。

 "……あ"

 その時でした。工房入口の大扉がけたたましく開き、奥でいくつかのガラス細工が割れるとともに一人の令嬢が入ってきます。

 "ごきげんようオホ、みなみなさま。おひさしゅうございますわオホホ!"

 "お、ロネーゼ!"

 さっそくロンチが駆け寄って出迎え、うっしうっしと言いながら気兼ねなく腕を交差させる謎のアームサインを交えますが、カルボはそれを見て萎縮してしまいます。

 陰キャは陽気のふるまいそのもの、すなわち、突然なんの前触れもなく大して上手くもない流行りの歌を歌い出したり、大袈裟で気持ちの悪い笑い方をしてみせたり、近くで揉め事があったと聞けば呼んでもないのに出てきて「平気。俺、参加しちゃうよ?」とか筋トレもしてないヒョロい身体つきで言い出したり、そのように本人は格好いいと思ってイキり散らかす様を見るだけでも、なんだか共感性羞恥で精神にくるのです。やめてあげましょう。

 さて若干ペスカとかぶっているのですが、ペスカのワインレッド色の髪よりも明るめ、ピンクに近い色合い煌めく横ロールの令嬢、それがロネーゼでした。衣装も工房にあるような作業着ではなく、フランス人形が着飾るような端がくるくるした上品なデザインです。

 ロネーゼ嬢はこの工房の出身ではありますが、今は独り立ちして街の外れに自分の工房を持つようになっています。ですが、その話しかたからも分かる通り、中身はやっぱり真正のかまってちゃんですので寂しくなると、バイト先に顔を出す辞めた人のように、こうしてたびたび戻ってくるのでした。

 "ところでずっと気になってたんだけど。なんで、オホ?"

 ロネーゼが他の面々とも挨拶を交わす間、ペスカの呟きにロンチが答えます。

 "あーあいつ、本当は庶民の出なんだ。けどいつからか見栄えを気にし出して、令嬢ものに一瞬だけハマっちゃって……"

 "うむ……"

 "令嬢っておほほほって笑うでしょ。それを中途半端にたしなんだ結果、語尾につけるもんだと思ってんの"

 "すごいや。つける位置が違うだけで、エレガントさの欠片もなくなるね"

 "悪い奴じゃないんだよ"

 ロンチに言われて、ペスカは初めてこの工房に訪れたときのことを思い出しました。

 心細く階段を下りるペスカにいの一番に気づいて、その存在をさりげなく周知してくれたのがロネーゼでした。

 こう見えてロネーゼもまた不屈のガラス細工職人。心への気配りはできた人なのです。

 ペスカもまったりと口元を緩めて言います。

 "それは……知ってる"

 するとロネーゼは新入りのペスカを見とめて、言いました。

 "聞こえていましてよオホ"

 そうして勤め先のいじわるなおつぼねを真似するかのようにペスカの前でふんぞりかえり、横髪をはらって続けます。

 "あら、ペスカ。あなたのご主人様は"まだハートの形のまま"なのかしらオホ……"

 "なに……? "ハートの形のまま"……だと?"

 ペスカはその不可解な表現に眉根をよせて返しました。それはさながら少年漫画のような男らしい輪郭線……ありもしない緊迫感を催す効果音が響き渡ります。

 ゴゴゴゴゴ……。

 "その程度のご主人様への愛でよくも偉そうな口を利くようになりましたわねオホ"

 ——が、間もなくロンチがロネーゼの頭にゲンコツを落とします。

 "嘘を教えるな、嘘を。ないから。そんな、これが原型とか、もう一段階上のそれぞれの形態があるとか少年漫画みたいなことめんどくさい設定"

 "ふ、ふん……——ですが! わたくしのご主人様の絢爛豪華さがワンランク上なのは真実ですわオホ。来なさい、黒子たち!"

 ロネーゼがそう言うと、開け放たれた大扉の向こうから全身黒ずくめの覆面淑女たちが玉座をかつぎ、運び入れてきます。

 その上にはキラキラと照り輝くピンク色のハートのガラス細工がちょこんと乗せられていました。

 "おお。ハートの王様みたいだ!"

 ペスカがくったくなく言うと、ロネーゼは気を良くして、手扇をしながら声を高らかにあげました。

 "あらあらあらあら、そうでしょうオホそうでしょうオホ!"

 "エレガントさの欠片もない!"

 そうして黒子たちがロネーゼのご主人様をペスカら職人たちの近くまで運び、止まった——次の瞬間でした。

 この世には慣性の法則という大きな原則があります。動いているものは動き続け、止まっているものはその場に止まり続けたい性質のことです。

 そのため黒子が皆の前で止まっても、その玉座の上に乗っているご主人様は急には止まれません。

 ——ロネーゼのガラス細工は玉座から弾かれるように飛び出すと、宙に燦然と煌めくその姿を見せて舞い、ペスカたちの足元に落下。

 大きな音を立てながら、バラバラに砕け散ったのでした。

 ご主人様の無惨な閲覧注意映像を半ば強制的に見せられ、いく人かは両手で目元を覆ったまま、しばらく誰も何も言いませんでした。ロネーゼの笑い声も止まっています。

 痛ましい沈黙の中、ペスカが胸に十字を切っていると、

 "——おまえっ! そうじゃないだろっ! この黒子ー!"

 ロネーゼは突然感情を爆発させ、本性をむき出しにします。ご主人様の亡骸を踏みつけ、黒子に当たり散らしたのでした。

 "テメ、これ、わかってんだろうな?! オイッ!"

 職人の皆が唖然としてパワハラを見守っていると、はっ——とロネーゼは息を整え、口元に手のひらを当てしらじらしく続けます。

 "あらあらあら、いけませんわオホー。これはとんだお恥ずかしいところを見せてしまいますオホー"

 それから足元で自分がさんざん踏み鳴らしたご主人様の残骸を素早く拾いあつめると、まとめて玉座に乗せ、

 "ご主人様がこれでは立つ瀬がございませんオホ。ここは出直しますわオホ——ふんぬっ!"

 手前の黒子の首を掴み上げながら面々を引き連れ、ロネーゼはそそくさと工房を後にするのでした。

 ビアンゴは指差すヴァンデ、ネロの目元を覆い隠し、ペスカは侘しげに言います。

 "溜まってんのかな……早く良くなるといいね"

 "うん、ああ、いやそうだけど……言い方"

 その奥、ロネーゼの登場ですっかり存在を忘れ去られたカルボは……、

 "はぁ、まただよ……またぼくの出番喰われちゃったじゃん……。なんか……全部やる気なくなってきた……"

 恨みがましく嘆き、ロッソやロゼに混じって自身の割れたガラス細工を拾いながら、そうつぶやくのでした。



 自身の工房を立ち上げてしばらく、軌道に乗った辺りのよほど暇な期間と見ていいでしょう。先日とさほど日にちをあけず、またロネーゼ嬢が尋ねてきます。

 "みなみなさま、ご機嫌うるわしゅうオホ"

 "あ、ロネーゼだ"

 ペスカが接着剤をぬるための等身の二倍ほどある大きなハケを運びながら、気軽に出迎えます。

 "おっほー"

 "おっほー。あらあら、ペスカ。いましてね。今日こそはわたくしのワンランク上のご主人様の勇姿! とくとご覧にいれてあそばせますわよオホ"

 ペスカは先んじて忠告します。

 "おお! いいけど、急に止まっちゃダメだよ。ご主人様は止まれない"

 "ご安心なさい。鉄の鎖をまきつけ、玉座の四方に打ちつけて止めてありますオホ"

 "ひでぇ職人だな"

 思わずロンチがつぶやきますが、ロネーゼは気にせず続けます。

 "愛の鞭ですわオホ。そして愛なんて鎖のように重くてナンボ……かもん、黒子!"

 ロネーゼが大手を振って告げるや玄関の大扉が大きく開かれ、外の光と共に玉座を運ぶ黒子たちが入って——こようとしたのですが、今度は玄関の天井が邪魔でした。

 玉座を高く持ち運ぶあまり、黒子たちはご主人様の頭を天井に強く打ちつけ、工房に入るまでもなくまたしても粉砕してしまいます。

 "——おまえェッ! なんべんいってもわかんねぇな!"

 即座に逃げ惑う黒子をひっとらえその場で馬乗り、ひたすらグーパンで殴りつける悲惨な現場を前に、ロンチが火バサミを盆に乗せて運びながら呟きます。

 "自分で運べばいいのに"

 自分と黒子の血で汚れた拳を頬の横に持ちあげながら、ロネーゼは尚も言い張りました。

 "あらあらあら、これはいけませんわーオホ。なんて壊れやすいガラスのハートなの、もう、めっ、ご主人様ったら"

 "めっ、されてんの黒子だけどな"

 "何でもいいけどいきなりドア開けるなー。ご主人様が驚いて割れちゃうじゃん……"

 とロゼが苦言を呈しました。

 そのまた数日後も来ました。

 "おほブォンジョルノ! みなみなさま"

 サングラスをあげて気取るロネーゼが鎖でつないだご主人様を連れて入ってきて間もなく、ペスカが叫びます。

 "毒吹矢職人だ! 伏せろ!"

 "え——毒吹矢職人?!"

 言う間に飛びかかり、ペスカがロネーゼを伏せさせると、二人の頭のわずか上をしゅっ、しゅっと鋭い音を立てて矢が飛んでいきます。

 次いでペスカはすぐに作業場を振り返って左手、シャッターの開け放たれた庭のほうを見ました。

 庭の木々の隙間に、ロネーゼの黒子とはまた別の覆面を目深くかぶった伊賀ものが忍び、口元の布から筒を覗かせて、走り去るところでした。

 ペスカは舌打ちして低くうなりながらも、再度振り返り、ロネーゼを起こします。

 "大丈夫?"

 "へ、平気ですわオホ。それより毒吹矢職人とは……"

 "暗殺者だ。どこからともなく現れてはなんでも溶かす強酸性の毒矢を飛ばしてくるんだ……あれ、ところで今日は一人? ロネーゼのご主人様は?"

 "え、そこにおりますでしょ?"

 ロネーゼがそう言って振り返った背後には、ピンク色の溶けたアイスクリームのような塊しかありませんでした。

 鎖付きの鉄の首輪が虚しく二人の足元に流れてきます。

 "あはは、見てみてー。怪しいローションみたい"

 "あれ、実は海藻でできてますの、知ってらして?"

 スライム状になったロネーゼのご主人様をちりとりでまとめ、クーラーボックスのような箱に詰めて回収しながら、皆でちょっと大人びた(?)そんな話に興じるのでした。

 しかしロネーゼも毎度毎度、ただご主人様の死に様をひけらかしにきているわけではありません。

 その日はちょうどお昼時。せっかくなので皆でプランゾをいただき、食後にお茶をしているときのこと。

 ロネーゼは庭先でカルボと相席。例の語尾さえ聞かなければ品行方正に見える彼女と陰気なカルボの組み合わせは異質……というよりは、ヤンキー女が大人しい後輩をいびっているようにしか見えませんでしたが、他の面々よりも親しげでした。

 "ペスカくんの前にルームメイトだったのが彼女なんだよ"

 そう言ったのはジェノべ。ペスカはまったく他意はなく彼女とベーゼの席でお茶をしていました。

 "ほう……"

 "ああ見えてロネーゼは面倒見がいいんだ。それにカルボくんも昔はあそこまで気弱って感じじゃなくて……良いコンビだったんだよ"

 "独り立ちしたときも、カルボだけじゃなくてわたくしの愛をもっと多くの人に捧げるためですわーって飛び出してったっけ"

 ベーゼは丸いテーブルの向かいでジェノべの隣にぴったりと身を寄せながら言います。

 "世話好きなのは私たちみんなそうだけど、ロネーゼはなんかこう、もっと広範的な感じなのよね。一つ所に留まらないっていうか"

 "いいやつじゃん"

 "そうよ。あほだけど"

 ベーゼのそっけない言い方を受けて、ジェノべは物憂げに返します。

 "ペスカくんに絡むのも、カルボくんを任せて大丈夫なのかって見極めようとしているのかもしれないね"

 "ふむ……カルボとコンビか……なんだか焼肉が食べたくなってくる話だね"

 "はっはっは"

 ペスカの頭はペリカンでした。

 そしてさらに数日後。

 来て早々、またご主人様を壊したロネーゼ嬢の怒声が響きますが、この日はちょっと様子が違います。

 "いい加減になさって! あなたが来てからというもの、わたくしのご主人様は壊れてばかり! なんなんですのオホ?"

 "ウホ? 私は一度として何もしていないのだが"

 ペスカはその日は液体の接着剤を大きなハケにたっぷりと浸して、ガラス細工にぺたぺたと塗りたくっているところでした。

 訪問早々、ロネーゼは玄関の段差につまずいた弾みで鎖のリードをスイング。宙に放り出されたご主人様はそのまま弧を描いて前方の地面に叩きつけられてしまったのです。

 粉砕されたご主人様の残骸を踏みつけながらロネーゼは言います。

 "お黙りなさいオホ! もう堪忍袋の尾が切れましたわ。これは——決闘でカタをつけるしかないわねオホ"

 "な……言いがかりも甚だしい! けどなんだか楽しそうだから受けて立とうじゃないか!"

 レッサーパンダの威嚇のようにペスカは諸手を掲げて迎え打つ構え!

 まるで穏やかではないようでいてしまらない空気に、ロンチもジェノべも白々しく絆創膏やら接着剤のチューブを運んでいきます。

 ロネーゼは人差し指をペスカの額に突き立てるように伸ばして言いました。

 "2on2の変則サーチ&デストロイを提案いたしますオホ"

 "サーチ&デストロイ?"

 "いわゆる拠点防衛ゲームです。試合終了時に拠点を守りきっていた方の勝ち。そしてこの場合、拠点となるのは……わたくしたちのご主人様!"

 "……ご主人様をロネーゼから守り切るか、逆にロネーゼのご主人様を破壊すれば勝ちってこと?"

 "ガラス細工職人の風上にも置けないひっでぇルールだな"とロンチ。

 "その通りですわ! しかし、守り手もいなければお話になりません。なので必然、タッグマッチとなりますオホ。パートナーはもちろんそれぞれのルームメイト!"

 ロネーゼがそこまで言って初めて事態の重さに気づいたのでしょう。奥でカルボが道具を取りこぼして驚愕します。

 "——え、ぼ"

 "そうよ、カルボ。この際だからはっきり言わせてもらうわ"

 ロネーゼは奥から出てきたカルボが一言もらす間もなく続けました。

 "わたくし、前々からあなたの弱々しさはご主人様に……いえ、ガラス細工職人に相応しくないと思っていましたの! この勝負、勝ち負けに関わらず姿勢次第では、わたくし、あなたを認めません!"

 "ちょっとま"

 "なんて強引な……!"

 ジェノべが立ちくらみと共に言いましたが、ロネーゼは本気でした。

 "言わせて!"

 カルボはもっと本気で思っていました。

 "いえ、強引でもなんでもございません。わたくしはずっと、我慢していたのですオホ!"

 そう言うと、ロネーゼは続けて懐から三冊のノートを取りだし、勢いよく地べたにぶちまけるかと思いきや、近くの職人に手渡していきます。

 "これは……"

 "わたくしの愛と恨みつらみのノート。ラブノートですオホ。そこに名前を書かれたものはわたくしの愛の重みに苦しむことでしょう。そしてご覧なさって?"

 そのノートの一冊一冊、一ページごとにカルボの愚痴に対する不平不満がぎっちりと細かい字で詰めて書かれているではありませんか。まるで小学の高学年辺りの女子が好きそうなやり取りのようでした。

 "◯月×日、今日もカルボはやる気が出ない。わたくしが朝食のビスケットを分けてさしあげたのにもう食べられないと弱音。◯月×日、今日もカルボはやる気×。息をしているだけなのかしら? と思い、後ろから思いっきり引っ掻いてみると、"いたいよぉ〜"と鈍い反応。殴られたのに笑っていますわ、この人……。◯月×日、今日もカルボ×。近所のチェーチ(小鳥)にひよこ豆を与えて襲わせてみる。アンチが返り討ちにする。本体はこちらなのでは? と疑問が芽生える。◯月×日、今カ×……なにこれ? パワハラ日記か?"

 "ラブノートですわオホ"

 グウの音も出ない面々にロネーゼはなおも自信満々に続けました。

 "これでわたくしの不満が本物であることが分かっていただけたかしら"

 "ラブノートか、いいな……これ"

 そのうちの一冊を読み込んで、ぽつりと呟いたのはビアンゴでした。ペスカが応答します。

 "え……"

 "え……?"

 "…………"

 しばしの沈黙が両者はおろか作業場全体に流れ、気を取り直すようにロンチが間をつなぎます。

 "ちなみにロネーゼのパートナーは?"

 "ご心配には及びません。かもん、黒子!"

 ロネーゼが告げると入り口の大扉を開け放ち、いつものように黒子が入ってきますが、今日は一人でした。そして工房の職人たちを面前に自ら覆面をつかむと、ばっ、と勢いよく脱いで、いよいよその素顔を晒したのです。

 いったい覆面のどこに隠していたのでしょう。足元までのびた長い髪は夜の海のように黒く、麗しく……普段ならそのように整って背に流れていたのでしょうが、覆面に押し隠されていた分、残念ながら今はケバだってあちらこちらに跳ね返り放題。しかも若干の蒸れた臭いをぷんと漂わせながらぼさぼさの様相を呈していました。

 本人はいたって気にする素ぶりもなく、ロネーゼの傍らに膝をついて控えます。

 "あね様、此方こなたに"

 "先輩方よ。挨拶なさいオホ"

 "初めまして、お姉様方。いえ、私の目からは何度かお目にかかっておりますが"

 "あーじゃあ、いつも殴られてるのって……"

 ロンチは気の毒そうに言いました。

 "お姉様方、私は神聖ロネーゼ教が信徒にして、ガラス細工職人ロネーゼ様の直弟子、ナポリです。改めまして以後お見知り置きを"

 "ロネーゼ教?"

 "なんと、あのロネーゼ教をご存知ない? あなた、人生の四分の三は損していますよ"

 ナポリは目を丸くすると信じられないという顔で言いました。

 "いえ、失礼。にわかをけなすつもりはこれっぽちもないのです。むしろこれから、この機会に少しでも知っていただけて私もあなたも幸いですわ、奥様"

 "奥様じゃないけど"

 "奥様、ではこちらのパンフレットを差し上げます"

〈クソみたいな語尾の上司、理解の乏しいパートナー、SNSのくだらない人類×……人間関係にもううんざりしていませんか! そんな日頃の憂さを聖歌で晴らそう! 新規信者熱烈歓迎! 宗教初めてだよー🥺って人も安心! 初回お布施は当然タダでOK! みんなスタートは同じです! 来たれ、主婦の皆様! 今ならなんと産地直送ひよこ豆がワンパック無料!〉

 そんな、どこからか取り出したパンフレットを職人一人一人に配ると、

 "これ、ロネーゼは確認してるの?"

 "必要ありませんわオホ。わたくしは部下を信頼しておりますもの!"

 "……さいですか"

 そんなロンチを代表として皆死んだ目で冊子を眺める中、ナポリは黒くにごった眠たそうな眼差しをどことなく煌めかせ、説明しました。ビアンゴだけはどことなく真剣な面持ちでした。

 "奥様方、あなた方はたいへん幸福でいらっしゃいます。神聖ロネーゼ教とはその名の通り、こちらにおわしますロネーゼ様を教祖とするカトリックの流れを汲んだ新教団なのですが、その前評判の高さから設立前から入信予約が殺到。事前入信特典はもちろん、早期入信特典のバッジはシリアルナンバー付きでNo.100までのものはプレミアがついて高値で取引されています。それが今なら、なんと101番から登録していただけまして……"

 "信者みんな転売してんじゃん"

 "さも言えましょうが、幸福とはまずお金という見方もございまして、抜かりはありませんわ、奥様。フリマの頭取と連携して仲介手数料の半分はこちらに入る仕組み。転売が発生すればするほど、こちらも豊かになっていくという、おほほほ!"

 "こっちのが令嬢っぽい!(悪役の方)"

 "まだ奥様言ってるし。人の話聞かねえし口も減らねえな、どいつもこいつも!"

 ビアンゴが使い物にならない真剣のでその日はロゼがヴァンデとネロを後ろに隠して、ジェノべは立ちくらみ、それを支えるベーゼが呟きました。

 "なんか……見た目は良いのに、その他全部が残念な人ね"

 "なんで……かってに……しね……しね……みんな、しねばいいのに……"

 それからやっぱり忘れられているカルボはまた一人、深いところで反省会を始めるのでした。



 "わんっ! わんっ!"

 "おや……? アンチ……?"

 突如耳元で吠え広がる犬の声にペスカがむずむずと起きだすと、すでにカーテンの開け放たれた窓から小鳥のさえずりが聞こえてきます。

 朝でした。

 カルボはいつもならカーテンを開けることもなく、こっそり部屋を抜け出てアンチの散歩に向かうのですが、この日の彼女は違いました。

 "ブォンジョルノ、ペスカ"

 "カルボ……?"

 "録音目覚ましだよ。アンチの声を録音してる。絶対起きたいときに使ってるんだ。……ぼくも犬、苦手だったんだ"

 "いや私は違うけどね"

 朝の陽光で明暗がくっきりと半々に分かれた神妙な表情で、カルボは言いました。

 "ペスカ、朝練、ぼくもやる。そしてあのクソ……違った。あの、鼻くそロネーゼに一泡吹かせてやる……"

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