第10話
第二章・四
中学生になると、最初は分からなかった織姫の、祭りの時や遊園地で言っていたその言葉の意味が、次第に分かるようになっていった。
俺たちの通った中学校は、校舎が反L字になっていて、東側校舎の方が長く、その二階が三年、三階が二年の教室になっているのに対し、一年の教室は、そこから内角にあたる大広間を通った反対側の狭い南側校舎なので、全五クラスあるうちの、一組、二組が三階、残る三組から五組までが二階という配置になっている。
この隔たりは、実際字面に起こしたクラス毎の隔たりなどよりも、遥かにずっと深く、遠くて、授業や部活に追われる日常生活において、滅多なことでは別の階の、そんな接点のない同級生と親しむ時間なんかはなかった。
そして小学生で仲の良かった葛西、飯島、高橋、それから織姫と、俺たちはなんの因果か、それぞれ別のクラスになってしまったのだ。
俺と麻倉だけが同じ二組で、一組にいる高橋とはそれなりに廊下で会ったりもしたが、別の小学校から入ってきた奴らも個性的な面子が多い中、なかなか同じ小学校出身の者だけでいることは少なくなっていき、特に階下のクラスになった葛西、飯島、織姫とは過ごす空間からして、まるで別次元にいるかのように離れてしまった。
学業においても差が出始め、織姫はその持ち前のルックスや才覚を如実に発揮して間もなく頭角を顕し、反して俺は落ちこぼれだった。
初めは勉強も続けていたものの、時間が膨大に取られていくことに気付くと、俺はその最果てを見知った気になって、やめた。
つまり、織姫の読み通りの展開だ。
勉強や部活に追われて、人間関係は左右する。どのみち次第に、今の面子ではいられなくなるだろう。
そのことを、織姫は分かっていたのだ。
可愛くて、綺麗で、その上人一倍、他人の変化に敏感で、よく気の遣える奴だったから、すぐに別の小学校から来た男子たちの話題にも上がるようになって、その名前だけは頻繁に聞いていた。
それでもしばらくは、その話題は俺とセットで、俺はとかくそんな浮足だった連中の標的にされた。
「ねぇねぇ、白上」
俺はまだ名前も覚えてないその男子の、妙にニヤついた顔を見るだに、全てを察して、嫌悪感を隠そうともせず、答える。
「あ?」
「五組の水瀬ってさ、お前の幼馴染なんだろ? 家も近いし、小学生の時は良い感じだったって聞いて」
……小学生の時は? その単語のチョイスが既にして、俺の神経を逆撫でる。他の男子もすぐに聞きつけて混ざってくる。
「てか、俺は付き合ってたって聞いたわ。今は? 別れたの?」
「え、マジ? それ本当?」
……誰に聞いた?
と尋ねると、大抵小五、六でろくに付き合いもなかった名前が上がるのである。そのことも俺の癇癪を悪い方に刺激する。
女子も似たり寄ったりで、こちらは、不遇にも俺と同じクラスになってしまった麻倉が主に被害を受けていた。
「ねぇねぇ、麻倉さんは何か知ってる? 白上くん、ほら、顔良いしさ、いかにもヤンチャしてますって感じだし。やっぱり二人って、結構進んでたの? 皆、言ってるよ」
「ハァ? 普通に夏祭りとか行ってたくらいだけど? そんなん誰でもしてたっしょ?」
麻倉もほとんど同じ気持ちだったろう、俺と同じように辟易して受け答えするようになっていた。となると、下の葛西や飯島や、それから織姫はいったいどんな責め苦を受けていることだろう。
「別れたも何もそもそも付き合ってねーし。別にいいだろ、そんなこと」
「え?! マジ? なんだよ、じゃ何もないの?」
何もないとはなんだろう。何かあったとして、なんでテメーごときに提供すると思ってんだ?
そもそも、付き合ってなければ何もないと思う浅はかさが、もう嫌になる。
「じゃあさじゃあさ、白上、俺が、水瀬、取っちゃってもいい?マジ、アイドル並みだし、あの可愛さ。大人になったらテレビ出てそうだし、ワンチャンさー……」
「……取れるもんなら取ってみろよ。テメーにゃ逆立ちしたってできやしねー」
俺は口走っていた。上からソイツのとぼけた返答が聞こえる。
「……あ?」
「あのさ」
俺は立ち上がると、俺の机を囲んでいた楽しそうな連中の、そう言ったやつを睨みつけた。
「なんでそんなこといちいち俺に聞くの? 聞かなきゃ何もできねーの? な? 女を取るもクソもねーだろ!!」
「わ、わるい。ごめん。なんか、え……言い過ぎ--」
一言告げるたびに追いやって、ソイツが壁を背にすると、俺は返答を待たずに胸ぐらを掴んでいた。
その挙動につられて、周囲の机と椅子がやかましく音を立て、脇に退けられる。道ができる。クラスの目線が集中する。
俺は尚も狼狽えるソイツの鼻っ柱にフック気味の右を叩きつけて、立て続けに膝で蹴り上げ、上がった顔面に更にヘッドバットをお見舞いした。黄金パターンだ。そうして項垂れたソイツの胸ぐらを、今度は左腕で持ち上げるようにして、更に何回か右を打ち下ろした。
一発ごとに鼻血が出て、次第に飛び散り、拳の関節が擦りむける。それで出た俺の血と混ざって、判別もつかないくらいに拳が赤くベタついてきたころ、クラスの誰かがふと気付いたように軽く悲鳴を上げた。
制止する声がかかっても、手が伸びてきても、誰かが身体で間に入り、俺とソイツを引き剥がそうとしても、俺の燻りは消えなかった。むしろ、ますます猛火の如く燃え上がった。
「ムカつくんだよ!! お前みたいなインポ野郎が、好き勝手、アイツのことくっちゃべってんの聞くとムカムカすんだよ!! どうせ何もできねーくせによ!! テメーごときが、勝手にテメーの妄想で、アイツを決めつけてんじゃねぇ!!」
「白上!! おい、落ち着けって、白上!!」
その声は、中でも一番落ち着いて、一番聞き馴染んだものだった。それで、俺も一瞬我に返って、傍を見る。
麻倉だった。麻倉は俺の腕に手を乗せて、ぽんぽん叩いた。まるで牛か馬にそうして宥めるようだった。
それから胸ぐらを掴まれてる奴にも向いて、平謝りする。
「ごめんねー。コイツ、水瀬さんのことになると、アホになる危ないナ○アツだと思って? ね?」
そんな、会社の中間管理職のおっさんみたいな態度も腹立たしくて、俺は凄む。
「はぁ?!」
「イキるなっつーの……ほら」
しかし、麻倉は低く脅し返すように言うと、今度は掴んだ腕を強くゆする。
俺も麻倉には手を出せない。俺はゆっくり胸ぐらを離すと、けれど代わりに手近な机を思いっきり蹴り飛ばして、教室を後にする。
すぐに麻倉が後を追いかけてきた。
「良くないって」
「なにが?」
「白上、浮くよ? こんなことしてると」
「どうでもいい。てか、無理。あんな連中とつるむの。レベルが低すぎて。バカじゃねーの、あのチ○コ野郎」
大広間の真ん中ほどまできた。
麻倉はあからさまにため息をつくと、切り札を見せるみたいに言う。
「あーあ、水瀬さんの言った通りだわ」
俺はその思惑通りに足を止めて振り返る。
「……なんでアイツが出てくんだよ」
「アンタのことお願いって言われてる。私。同じクラスだし」
「……はぁ? なんで?」
「なんで? 分かんない? 白上、アンタ、子供扱いされてんじゃん。ウケるー」
俺が近づき、食ってかかるよりも早く、麻倉は続けた。既に軽く手のひらを広げたくらいの身長差がある。麻倉は喉を晒すようにして俺を見上げていた。
「それでいいの? いつまでも水瀬さんに心配かけて。もう小学生のガキじゃないってんなら、戻りな。で、謝って、机を直しなさい。私も一緒に行ってやるから」
「…………」
俺は舌打ちを返答とした。
麻倉と並んで、すごすごと教室に蜻蛉返りすると、畏敬か好奇の視線に晒されながら、黙って机を片付けた。
そのうちに担任が駆けつけて、俺はこってりと絞られることになったが、けど、謝ることだけは頑としてしなかった。
この一件は、その日のうちに瞬く間に学校中に広まり、通りがかりの悪そうな上級生からも顔と名前を覚えられ、昼休みには指導室行きとなった。
弁当を開ける間もなく、担任に呼びつけられ、一階の職員室の向かいにある生徒指導室へと向かう。その道すがら、入学二ヶ月で指導室は最短記録だな、などと担任に笑われた。
その担任は異様に小さく150cmあるかないかという背丈で、俺からするともう首をそれなりに曲げなければいけなかったが、わりと話のできる人のようだった。俺は小五の時の担任を思うと、偏見もあるだろうけど、男の教師の方が好意的だと感じた。
目的の場所に着くと、中で待ってなさいと言われ、俺はその部屋に入る。
指導室の中は、まさに尋問くらいにしか使い道のなさそうな小部屋だった。実験室なんかで見るようなキャビネットが更に間取りを狭くして、その手前に子供が使うような淡い色遣いで楕円形のテーブルがあり、丸椅子が傍らの壁際に重ねられている。奥に窓があって、今はカーテンが閉められていた。
俺に遅れること一分くらいで入ってきたサッカー部顧問兼生活指導の望塚というラピ○タの親方のような見た目の先生は、大分ヤンキーたちの指導をこなしてきたということもあって、貫禄があり、俺みたいな生徒の相手でも柔和な態度を見せた。
初対面にも関わらず挨拶は軽く、手早く自分の分の丸椅子をセットすると、昔からの知り合いのようなノリでいきなり肩を叩かれる。
「白上、お前、クラスメイト殴ったって? なんで?」
「……ウザ絡みしてきたから」
「ダハハ。そうかそうか。ま、生きてりゃ、そういうこともあるわな。手、見せてみろ」
俺が何も言わずに片手を出すと、望塚は倍はありそうなゴツい手で、甲の方を上に向けて、出来たばかりの擦り傷を触るでもなく見た。洗いもせず、そのままだったので、血がべったりと滲んで、今は黒く変色していた。その辺の所作は鉱山のじいさんに似ていた。
「あーあ。これ、痛むか?」
望塚は断りもなしに、指を曲げ伸ばしながら言う。
「平気っす」
「骨は大丈夫そうだな。保健室いったか?」
「いらねっす」
望塚はそこで手を離した。
「消毒くらいはしとけ。飛び火するから。みっともねぇぞ?」
「…………」
「うちにボクシング部とかありゃあな。腕っ節、自信あんだろう?」
望塚は毛皮を巻いた丸太みたいな二の腕を曲げて力瘤を作ると、逞しい口髭を大きく広げて笑いかける。まるきりドワーフかなんかのようだ。
釣られて、俺も小さく笑った。
「ダハハハ……でも、ないからなぁ。お前、サッカー部入れよ。体力余ってんだろ? それともバスケの方が好きか?」
「どっちかといえば、サッカーのが好き……です」
「じゃあ決まりだ。明日から来いよ。以上。まー無理に仲良くすることもないがな、あんまりケンカすんなよ? あと手、ちゃんと消毒しとけよ。化膿するから」
そうして生徒指導とやらはものの五分足らずで終わり、俺は解放された。
保健室は指導室を出てすぐ隣の場所にあったが、俺は無視してその前を通り抜ける。
そのまま柔道場の角を曲がり、下駄箱に向かおうとした廊下の途中で、麻倉が壁に背を預けて待ち構えていた。
麻倉はいつものしかめた面で、背を離して起き上がり、俺の前に立ちはだかる。その手には二つの包みが握られていて、俺はたまらず頭を抱えた。
「テメーは俺の保護者かよ……」
「みな……」
「分かった分かった……ったく、どいつもこいつも」
保健室では、しかし予期せぬ再会が待っていた。
入ってすぐ横のテーブルを囲んで、飯島が知らない連中と話し込んでるところで、俺は一瞬面食らってしまう。こちらに気がつき、振り向いて俺と目が合うや否や、飯島は諸手を掲げて大きな声で言った。
「うぉいおいおいおい、白上!! お前、流石に人殺しはまずいって、いきなり!!」
「してねーよ!!」
「ウッソだろお前!! 酒と煙草とガスとマリファナでラリって釘バットで二組の男子、皆殺しにしたって聞いたぞ!!」
俺はけれど、吹き出した。麻倉から預かった二つの包みをテーブルに置きながら、俺は部屋を見渡すと、奥の窓際に流し場があるのを見つけて、そこへ向かう。
「どんだけ尾ひれついてんだよ……今日の話だぞ」
「あははは。あ、コイツが白上。そうそう。マブ!! 良いやつ。ヤンキーっぽいけど、全然、怖くないよー? めっちゃ良いやつだから」
「飯島、お前わざとやってんだろ」
俺がそうして部屋の反対側に返しながら流し場で傷口を洗う間にも、麻倉はたんたんと手当の準備をしていた。
「先生ー包帯勝手に使っていい?」
「あー、麻倉? どうした?」
中央のデスクから、保健医の田村というおばちゃん先生が眠たげな声で言った。麻倉は既に部屋の端の戸棚をガチャガチャ開けている。
「白上が手、怪我してる」
「そこ、二番目に入ってるよ」
田村は気怠そうにペンを挟んだ指先を踊らせて麻倉に指示すると、くるっと椅子を回し、俺の方を向いた。ちょうど俺も手の水を払って振り返ったところで、さながら赤ん坊にでも話しかけるように言った。
「あら、これはこれは白上ちゃんじゃないですか。どうしたの。殴って、手、怪我しちゃったのー?」
「……知ってんじゃねーか」
俺は田村の顔を見るともなく呟いた。
「あんまり世話焼かせないのよー?」
「…………」
いわんや、それは決して織姫のことじゃない。田村の老獪で鋭い指摘に、俺は何も言い返せなかった。
俺は麻倉より一足先にテーブルのところに戻る。
他方ではベッドの一つに腰掛けたおそらく上級生らしき女子が、視力検査用の黒いパッドを両目につけて、グループ内で馬鹿騒ぎをしていた。
「先生ー、私、視力ヤバいんだけど!! 何も見えないんだけど!! 明日も見えない!!」
「アンタらね、それオモチャじゃないんだからね」
と田村が、再びデスクに向かいながら言う。
「自主視力検査してるのー。今、測ったらさー、両目0だと思う!! ヤバいよーどうしよう、私ー」
その隣で胡座をかいた女子が、パッドを目に当てた女子の肩をパンパン叩いて実しやかに囁いた。
「あず! あず!! ちょっと待って、私、超閃いた。これさ、一回……一回! 片方下ろしてみ? 騙されたと思って!!」
「え? こう? ……あ、見えた!! 白上くんが見えたー!! さやか、超天才!! 先生、私、やっぱ視力あった!! ちょっと間違えてた」
「ほら、ちゃんと座って」
何とはなしその騒ぎを眺めていると、視界の外から麻倉がそう言った。
麻倉は隅の棚から白い巻物とガーゼとテープとそれ用のやたらデカい鋏、それから消毒液のセットを抱えてきて、テーブルの側面に向かい合うように腰掛ける。飯島と四組の生徒らは奥に詰め、適当に場所を作ってくれた。
医療セットを机に置き、てきぱきと支度しながら麻倉が続ける。
「手、見せて」
「悪い」
「いいよ」
俺が甲側を上に向けて手を出すと、麻倉が指先を持って、消毒液をぶっかけ、手当てを始める。ティッシュで傷口を軽く叩くようにして、まだ少し残る血と消毒液の水分を吸い取らせていく。
「染みる?」
「……全然。てか、なんか、ここすげぇな。いつもこんなん?」
俺は右向こうのベッドの二人を気にしながら言うと、麻倉は淡々と続けた。
「大体こんな感じ。知らなかった?」
「来たことねーし」
「でも、アンタさ、こういうの、嫌いじゃないでしょ」
ガーゼを当て、包帯をぐるぐる巻きつけながら、麻倉は人の顔を覗き込むように、にやりと笑った。俺はにわかに頬が緩み出すのを無理やり抑えながら返す。
「てか、なんで名前知られてんの俺」
「そりゃ目立つし。アンタがどう思うか知らないけど、一年の良い話は水瀬さん、悪い話はアンタ。実際そんな感じなんだよ、今」
「ふーん」
俺と麻倉はその後、そのまま保健室で昼食をとった。
麻倉の言う通りだった。その上級生や飯島と四組の奴らがアホみたいな話で駄弁ってる感じ、麻倉のいるこの言ってしまえば動物園のように騒がしい空間が、俺は決して嫌いではなかった。
二組やその他の空気と違いがあるとすれば、俺が思うにたぶん、ここは気楽だ。
成績とか、付き合うとか、人に言葉で優劣をつけようとするものがいない。いつからか人はそうなる。
中学に入って、初めて落ち着けたという気さえした。
夜には外したが、その日の後の時間は、俺の手には大袈裟な包帯が巻かれることになり、また別の日、別のタイミングで、たまたま時間があった時……というか、本人の言ったことが本当なら、そういう時間を伺ってたんだろうけど……麻倉は喧嘩の時の続きを、前置きなしにそのまま話し始めた。
「そういうもんでしょ。仕方ないじゃん。毛色が違えばさ、過ごす空間も一緒にいる人も違って当然。たぶん、これから何度だってあるよ。それが嫌ならさ、もう付き合っちゃえば? 公言してさ、そしたら、ああいう連中も黙るでしょ」
「それで? どうなる?」
「どうって……」
「付き合ったって、アイツはもうそれこそ遊ぶ時間なんてないだろ。俺はともかく。知ってるか? アイツの習い事の量。両親は本気なんだ。中学からもう大学まで見据えてる。俺たちのことなんか見ちゃいない。それで付き合ったって、何も変わんなくね?」
「そういえばアンタ、携帯は?」
「持ってる。けど、それも同じだろ」
「そうかなぁ」
「じゃあ聞くけど、麻倉はこのやりとりがメールとか電話なら、満足いくか? ……それで日常でもこうして会えてるから、お前とはいられてんだ。飯島とはこの間話せたけど、葛西なんか全然話さなくなったし。それで、つながりをギリギリ保つとか、そんなの、余計、虚しくなるだけだろ」
「私は……私は別に、好きな人の声とか? 聞ければそれでイケる気するけど」
「俺も、そんで織姫も、違うんだよ。そうすると、もっと寂しくなるタイプなんだ。だから……だから、アイツ……」
南側校舎のベランダからでは、周辺の団地か、あるいは部活で外周を走っている生徒たちくらいしか見えなかった。
ここは南側校舎三階、一年二組のベランダ。ベランダには教室間の敷居がなく、外周を一面で繋いでいる。三階の一番奥、角の教室は音楽室で、今は部活中だった。吹奏楽の演奏の音がまばらに聞こえてきていた。
つまり、このベランダの端まで行けば、その窓からは吹奏楽部で部活中の織姫が見られるはずだ。けれど、行こうとも思わないし、向こうからばったりやってくることも、通りがかるということもない。
「ねぇ。遊園地でさ……なにした? それに、あの後、何があった?」
麻倉が唐突に切り出して、俺はやや考えて答えた。
「……聞いてどうすんの」
「……なんとなく」
「遊園地は、想像通りじゃね? たぶん。麻倉の思ってることしたよ……うん。で、あの後は……」
一瞬迷う。どこまで言えばいいか。
父親と一つ間違えば翌朝の一面に載りかねない喧嘩をしたこと。俺が負けたこと。それから、その次の日、織姫と最後にもう一日だけ遊んだこと。
この期に及んで麻倉を信頼していないわけじゃなかったが、それにしてもあまりに重すぎると思って、俺はそこだけ曖昧に言った。
「……要は、フラれたよ」
「それは嘘」
俺は即座に聞き返す。
「なんで、分かる?」
「水瀬さんがアンタのことフるわけないじゃん」
麻倉が言ったことは決して間違いじゃない。
俺たちはずっと、誰よりも互いのことを必要としている。その事も確認しあった。しかし、それだからこそ、生きていくには、どうにもならないこともある。
例えば、まさに、今が、そうだ。
このベランダの先には織姫がいる、走って行けばすぐにも会える。けれど俺はその演奏の音でしかその実在を確認できない。行けば、その演奏を止めることになるからだ。
生きるためには、それくらいの距離を保たねばならないのだ。
子供みたいに、ずっと一緒にはいられない。
俺はまた少し考えて言った。
「思い出にしたいんだとさ。それがあれば一人でも生きて……生きていけるってさ」
「思い出……あー、それは……それはちょっと……や、めっちゃ分かっちゃうな……なるほどね……」
麻倉は何か噛み締めるように一人でしばらくうんうん言っていたが、ふと黙り、ちょっとしてから切り出した。
「あのさ、ずっと黙ってたんだけど。葛西とか飯島は悪くなくて、私が口止めしてたことがあるんだけど……」
「なに?」
俺は怒るでも笑うでもなく言う。麻倉はけれど、心配そうに話した。
「あの運動会の時ね。白上、覚えてないだろうけど、ちょっとパニックだったんだ」
「……え?」
「アンタ、須藤に突っ込んでって、騎馬から落ちて、頭打って、失神してさ。意識戻らなくて、そしたら、水瀬さん……なんていうか、見たこともないくらい動揺したっていうか……あー、半狂乱でさ」
俺は目を丸くする。瞳孔が開いていたかもしれない。
「織姫が……?」
「そう。たぶん……たぶん、死んだと思ったんだよ。
それも、私のせいだって大分落ち込んでて。それからもずっと悩んでたみたい」
「何で隠した?」
「葛西と飯島は何度か言おうとしたの。実際二人ちょっと気まずくなってたし、このままじゃ良くないって。でも……でも、ごめん。私が……私がね、言ってもしょうがないし、余計こじれると思って……そっとしとけって言って、黙らせてた……本当にごめん!! ごめん……」
「……知ってたわけだ。皆して。なるほどな」
それ自体は裏切られた気持ちもあった。けど、それより俺はやっと真実を知れてスッキリしたという思いの方が大きくて、そのまま口にする。
「なんだよ……そんくらい。言えよ……別に今、死んでないんだし」
「でも、分かんないじゃん! 人間、いつ死ぬかなんて。それで……怖くなっちゃったんじゃないかな。実際、私もちょっと、怖かったし、あの時」
思い当たる節は往々にしてあった。
でも、そんなこと気にしてたら、それこそ生きてなんていられなくないか? とも思う。
でも、いつかは必ず死ぬ、というどうにもならない現実がある以上、永遠には誰もいられないから。だから、その現実の前に、ならそれこそ本当に、人は、好きに死ぬか、忘れて生きていくしかないのだとも思う。
本当の私。子供で、わがままな私。
忘れてほしくて、でも本当に忘れられるのは辛いから、だから、最後に思い出をほしがったんだ。
俺は目元を覆う、泣きたいけれど涙は出てこなかった。
「バカだろ……アイツも。俺たちも。俺たちさ、ほんと、何やってんだよ……」
「ごめん」
「いいよ。もう。全部、分かった。むしろ、なんか悪かったな、気遣わせちまって」
「ううん。私たちは全然……だけどさ……」
未だ後ろめたそうな麻倉の背を軽く叩いて、俺は笑いかける。
「なんで、お前の方が落ち込んでんだよ」
「お、落ち込んでなんか……」
「なんか不思議だよな。お前とこんな話するなんて、小五の時は思いもしなかったよ」
麻倉は高学年の時に比べると大分、大人しく……っていうか、しをらしくなった気がする。俺もたぶん、似たようなことを葛西や飯島や高橋や麻倉に思わせているんだろう。何かの歌詞にもある、腑抜けたサイダーみたいな。
そうして誰もが大人にならざるを得なくなっていくんだろう。それでも、生きていくために。
色んなことを忘れながら。
麻倉は気を取り直したみたいに顔を上げて言った。
「そう……そうだよね。なんか、白上がこんな女々しいこと考えてる奴だとは思ってなかった」
「俺、最初から、そんな男らしい奴じゃないだろ」
「そう?」
「ないよ。少なくとも、俺はそう思ったことない。もしそんな風に見えてたとしたら、それはアイツがいたからだ。アイツの前だから、強がってただけなんだ」
「白上……」
「あーもうやめやめ。しょうがねー。しょうがねーよ。相手は死とか、何なら世界の仕組みだぜ? そんなん一人のこんなガキが、敵うわけないだろ」
俺は手のひらを返して顔を上げると、麻倉の頭の上に手を乗っけていた。
「麻倉も、織姫の言ったことなんか忘れろよ。俺にももう構うな。お前も浮いちゃうだろ」
「……白上。白上、私……私さ!」
俺は頭を強めに撫でることで、それを遮った。
気がつけば、麻倉の頭は想像よりもずっと小さくなっていた。それだけ俺も大きくなっていた。
「忘れろって。な?」
その時の麻倉の表情は筆舌に尽くし難い。
思えば、織姫から始まり、俺はそうして麻倉に同じことをしているんだと思った。
そうして誰もが幸せになんかなれないのだ。
命に限りがある限り。
生きていこうと思う限り。
でも、その反対こそ、本当の悲劇だろう?
そう思えば、少しだけ、楽にもなった。
そう信じたかった。
「もう終わりなんだよ、子供の話は。じゃあな」
俺はそう言って、ベランダを後にした。
吹奏楽の演奏が、程よく鳴り止んだタイミングだった。
そうして、段々、段々と同クラスの奴らとは疎遠になっていき、一学期が終わる頃には、俺はもうまともに授業にも出ず、他のクラスの同級や上級生の悪い奴に混ざって煙草をやり始め、夏休みに入ると、ガスにも手を出した。
葛西や飯島との付き合いは続いているが、たまに廊下で会ったときに、うぇーいの挨拶をするくらいで、一方で、奇妙なことに小五のときはライバルであった須藤は例の騎馬戦のことをよく覚えていて、それがきっかけで、良き先輩後輩として仲良くなっていた。
学校は俺たちヤンキーがイキるための場で、俺たちはどこでもこれ見よがしに煙草を吹かし、行け好かない教師と喧嘩しては殴り込んで授業を妨害し、我が物顔で廊下を歩いては、小さくなる同性の生徒らを威嚇してまわった。
要は弱い自分に決別したかったのだ。
習い事や勉強やその他のことがうまくいかなかったから、別のことで目立ちたかった。
群れからはぐれた、狼の遠吠えのような、それが、俺の生存報告みたいなものだった。
今、私を殺すか、忘れるか、選んで。
あの日、織姫はそう言った。
俺の部屋に通すと、織姫の平静を保った仮面は瞬く間に崩れて、俺の両肩を硬く掴んだまま、子供みたいに泣きじゃくった。
父のことも問題だが、一番は自分なんだと、織姫は話した。
人を好きになると、その人を壊してしまう。
違う、人を好きになるって、本来そういうことだ。そうしてその人を自分の所有物のように独り占めにしたくなる感情こそが、原始的な縄張り意識にも似た、私たちの好きという気持ちの正体だ。
最初は麻倉が邪魔者なのだと思った。けど、本当にはそれが自分だと気付いた。
想像してみて? 私が初めからいなかったら、貴方は小四で転校してきたその子と仲良くなって、今頃どうしていたか。
織姫は続けた。
麻倉さんだって、幼馴染でしょ?
私の方が異物だったんだ。なぜなら、その為にもう結斗は二度も命を落としかけている。
小五の時のことも、自分が麻倉を唆したのだと白状した。麻倉が俺のことを好きだ、とらないでと言うから、試しに自分が適当な人を好きだと言ってみなよ、と唆し、焚きつけたのだという。
織姫の中にも、そんなあの夜の父のような黒い気持ちがあって、それが俺といると際限なく噴き出してしまう。歯止めが効かなくなる。今度はそうして、私が貴方を束縛してしまうと。
だから、生きていくには、互いに忘れるしかない。好きだったこと、一番大好きだったその人のことを忘れて、違う、二番目以降の誰かを私たちは選ぶのだ。
そして世界が終わるまで。
私たちはずっと、このままなのだと。
それが嫌ならば、好きという感情に溺れたまま、今ここで命を断つしかない。
そのどちらかを選べと、織姫は言った。
俺はそして、世界が終わる日に、それを続けていく方を選んだ。
物語の主人公やヒロインのようにはなれない。
現実は続いていくから。
人生は今だけじゃない。きっとその選択が、いつか、報われる日が来ることを信じて。
浅はかで大人ぶった自分に見て見ぬ振りをして。
二年にあがると後輩ができ、明らかに周囲からの注目度が、その毛色ともいうべき何かが変わる。
ヤンキーがモテるというのはどうやら本当らしく、はっきりと女子から声をかけられることが増えたし、遠巻きに見られる傾向が強くなった。
告白やラブレターを渡されることも度々あり、中には使っている鞄を交換してほしいなんて、男子からしたら謎めいた相談もあった。
それ自体は決して悪い気はしなかったけど、当初の狙いとは大分ズレている、いや多分、もしかしたら、これも織姫の狙いの一つなのかもしれない。
こうして自分以外の誰かをさっさと見繕えと、織姫ならそう思っているかもしれない。
一方、織姫は生徒会に入り、俺とは正反対に優等生の地位を名実ともに築きつつあって、正直、俺は迷っていた。
先輩のヤンキーたちと連むのにも飽きてきて、屋上で一人、煙草を吹かす時間ばかりが増えた頃、代わりに麻倉がよくやってくるようになっていた。
屋上へのドアは鍵がかかっていて開かないようになっているのだけど、俺は鍵の壊れた踊り場の窓を知っていて、以前そこを通り抜けるところを見つけられてからというもの、煙草を吹かしていると決まって麻倉が現れるのである。
「またいた」
「なに? なんか用?」
ペントハウスの壁にもたれて座り込む俺の、嫌気を隠そうともしないつれない返答は無視して、麻倉は辺りに散乱する吸い殻と、空き缶を巧みに避けながら、辿々しく近づいてくる。
「うわ、酒もやってんの?」
「……シカトかよ」
「まだ残ってる? ……ちょっとちょーだい」
「飲みたきゃテメーで買ってこいよ」
麻倉が正面に突っ立ったままなので、俺は顔を逸らしながらそう返して、副流煙を撒き散らしたが、高層をよく流れるビル風で、紫煙は色がついたとたんに吹き消されていく。
その気流と混ざるように、麻倉がため息をつく。
「タバコってそんな美味いの?」
「知らん。暇つぶし」
「ふーん」
俺がつまらなさそうに言うと、麻倉もつまらなさそうに返しながら、ちょこんと隣に腰掛ける。
俺は警戒して、腰を浮かせて少し離れながら、再度尋ねる。
「--なに?」
「そんな、嫌がんなくてもいいじゃん。流石に、傷付くわ……」
「嫌だよ。一人でいてーの。だから、ここにいんの。分からない?」
「なんで?」
理由は自分でも分かっている。けど、それをコイツに話す義理はない……いや、あるだろう……十分すぎるくらいあるだろうけど、俺は少し考えた後、また煙草を咥える。吹かす。
「……分かんね」
「はぁ?」
「分かんないからここにいんの」
「意味不明。……バカ?」
「うるせぇなぁ。喧嘩売ってんのか。今、機嫌わりぃんだどっか行けよ」
「別にここ、アンタの場所ってわけじゃないし」
「あのさ」
俺は気怠く項垂れた首を持ち上げると、麻倉をいつも同性の生意気な奴にするように睨めつけて、煙草の火をその顔に向ける。
「女だからって何もされないと思ってる?」
俺は一度起き上がって、その目の前に座り込むと、バンと勢いよく麻倉の顔の直ぐそばの壁面に、反対の手のひらを打ち付けた。
この一年で体格差にも大分開きがある。それだけで、麻倉はもう退路を失う。
麻倉は少し怯んだあと、潤んだ目で、俺の目をじっと見上げた。
「…………」
俺は人差し指と親指で画家が筆を持つように煙草を摘んで持ち上げ、眺めながら説明する。
「たしか千度近くあるんだっけ? これ。剣山で刺されてるみてーによ、皮膚が溶けるって感覚がわかる。で、その傷は消えねー。教えてやるよ。お前、ムカつくし」
「やったことあんの?」
「見て分かんねー?」
変わったのは体格や髪の色ばかりではない。俺の手の甲や腕周りには根性焼きと呼ばれるその痕が明々にして点々とついていた。
自傷癖みたいなものだ。腹の立ってどうしようもない時や、時には周囲へのその発散や、そして威嚇のために、自分で何度となくつけた。
ふと麻倉の、色白な細い手足に視線を落とすと、それが少し震え出しているのを見て、俺は小気味良く笑うと、壁につけた手を退け、煙草を人差し指と中指の間に持ち直した。
「ビビってんじゃん。クソだせぇ。アホか。つけるわけねーだーー」
「ーーねぇ、それ、水瀬さんはなんて言った?」
麻倉の切り返しは的確だった。
俺は即座に笑うのをやめて、ただ目の前のクソ女を再度睨みつけた。
今度は本当に、火をつけてやろうかと思案した。
麻倉はさっきまで震えてたのが嘘みたいに、しれっとして顔を逸らした。
「……すげえ顔だな。今にも泣きそうに見えるわ」
「……やめろ」
俺が唸るようにして、さっきまでと同じように彼女の隣の壁に背中をつけ、腰を落ち着けると、麻倉はあらぬ方を見たまま言った。
「悪い。ひょっとしたら、と思ったんだけど、言いすぎた」
「…………」
結局のところ、そう、麻倉の言う通りだ。
俺はそうして織姫を殺せず、忘れることもできずに宙ぶらりんでいる。どっちも選択なんて、していないままなのだ。そのことにずっと苛ついて、だから、ずっと苦しいのだ。
長い沈黙のあとで、麻倉は大きくため息をつくと、立ち上がる。俺は来た時と同様、視界に気を遣って目の前を見たまま、すかさず言った。
「あのさ。お前、それ、男子の前ではあんますんなよ。見えるぞ」
麻倉は俺の発言は無視して、言った。
「水瀬さん、○○校受けるって」
俺は今度こそ、そちらに振り向いて、きちんと見据えた。
「……は?」
体操着のハーフパンツをスカートの下に履いた麻倉が、俺の顔を見下ろしながら悪戯っぽく笑う。
「白上次第だよ。それだけ。大人ぶってさ、だらだらこんなん--」
麻倉は言いながら、足元のチューハイの缶を蹴り飛ばした。
「--やってんなよ!! 似合わねーっつーの!!」
俺は釣られるようにして、久しぶりに笑った。
けれどチューハイの缶はあまり持ち上がらず、少し跳ねて、辺りにアルコールの液体と、その臭いをまきちらしただけだった。
「うわっ、全然飲んでないじゃん!! めちゃかかったー!!」
「これから飲むとこだったんだよ!!」
「無理して飲んでんじゃん、絶対!! あ、待って。え、もしかしてさ、機嫌わりぃってそういう……」
麻倉の表情は真剣だった。
そして、俺はバカで単純だった。
やることは決まった。その日から俺は勉強を再開した。
といっても、最初はもうどこから手をつけたらいいか分からなくて、部屋の押し入れを引っ掻き回して、引っ張り出してきた小学生のドリルからやり直した。
担任に頭を下げて、同級のインポ野郎に笑われたりもしたが、真剣さが伝わったのか、放課後、個人的に観てもらうこともした。そのうちにクラスメイトも少しずつ手伝ってくれるようになって、
携帯端末も普及していたから、家ではそれも使って、分からないことは何でも調べ、頭を抱えながら理解できるまで何度となく読み込み、年度ごとのテストも取り寄せて、レベルごと出来を確認した。
ちなみに俺のそんな姿を見て、初めて母が泣いた。
煙草を吸う時間や悪友と遊びまわる時間が減っていく一方で、一人、机に向かう時間が圧倒的に増えて、気分転換はピアノで済ませるようになった。
元々音楽は好きだったし、これだけは……手放したら何もかも失ってしまうようで、続けていた。
二年の二学期末になると、内申のために髪の色も黒く戻し、年が明けて、三年に上がる頃には、俺は付き合う友達からして変わっていた。
最初はその年の担任や生活指導の望塚と頭を下げて回ったが、内申のため、部活にもまた顔を出すようになり、当たり前の学生生活の一員にすっかり馴染んできた。
そうしてみれば、こんな生活も悪くない。
気が弱いと思っていた同級の生徒は、その分仲間意識が強くて、一度その輪に入れてもらえればとても良くしてくれたし、内容が理解できてくれば、テストはその力試しとして楽しくなり、授業や実習の分からないところを教え合ったり、筋肉的な意味合いで力の足りない部分を俺が補ったりすることもまた楽しかった。
久しぶりにやったスマブラはもう世代が変わっていて、画面が綺麗になったのに加え、キャラが多く、俺はボコボコにされた。
中学校の校舎は反L字型の建築物で、折れ曲がった内角の部分は一階が昇降口、二階、三階は広い何もない空間になっていて、それぞれの学級の教室に面した廊下に繋がっている。いわゆるピロティという広場だ。
何かのイベントがあるとここで支度をするようになっているのだが、この三階にはたまに音楽室から運び出されたグランドピアノが置かれていて、俺は見掛けると演奏をして気分転換をしていた。
家にある古いアップライトでは出ない音が楽しめるし、こんなグランドピアノなんて弾ける機会は滅多にない俺にとっては大変有り難く、中学生活で染み付いた習慣みたいなものである。
年齢相応な拙い演奏だが、たまに観客も寄り付いた。
その日もそれなりの数がいて、男女比は1:3くらい、大抵は同級の知り合いが暇潰しか冷やかしに寄ってく程度だが、そうして集まり出すと、その中に混じって遠巻きから眺める別の学級生も見かけた。次第に、演奏を始めるとどこかから聴きつけてきて、毎度最後まで聞いてく二、三人の組なんかも現れる。聞くところによれば、別学級では小さな囲いのつながりが出来ているらしい。
そう思うと、俺はいつかの須藤先輩のような態度でいるのかもしれない。他の男子には殺意を抱かれたりもしてるんだろう。それが少し笑えた。
演奏を終えると、控えめな拍手が上がり、囁くような声が周囲に木霊する。
そこに俺がほしい声が遂に聞こえたことはなかったが、でもなんとなく、俺がここでピアノを弾いている間、この校舎のどこかで、織姫は作業の手を止め、聴いている……そんな気がして、止められなかった。
そうして気がつけば冬。
受験がいよいよ迫ってきて、気持ちからして薄暗く、寒くなり、帰り道の自動販売機のホットの缶コーヒーが有り難くなる頃、地元のサッカークラブと合同で、夜間に学校のグラウンドを使ってフットサルの野試合をやった。
久しぶりに全力で駆け回り、良い気持ちの切り替えができたのを見計らうように、町内会か何かのおばちゃんたちが豚汁を振る舞ってくれて、俺は秒でそれを食べきり、なんとはなしに片付けられた朝礼台に腰掛けて、別の試合を眺めていると、その九十度側面に、ふと、織姫が座った。
俺はいつかの時のように、雷に打たれたような衝撃が走り、しばらく気付いていないふりをしていると、
「来てたんだ。声もかけてくれないなんて、ちょっと酷いんじゃない?」
「え、あ……悪い。気付かなかったわけじゃ、ないんだけどさ」
「なんて、嘘。ごめん。私もそうだったし……」
「…………」
あれほど。
あれほど聞きたかった声を聞くことができたのに、その人はすぐ傍まで来ているのに、俺はまた馬鹿みたいに、あの小五の最初の頃に戻ったみたいに固くなって、うまく喋れずにいた。
情けねぇ……なんて思って沈黙を続けているうちに、織姫から切り出した。
「結斗、変わったよね」
「え……あー……そ、そうか?」
「きっと、強くなったよね」
確認するみたいに言われて、俺はしみじみと話す。
「それは、どうかな。迷うことだらけで、正直進んでる気はしねーよ。お前は……すげー強くなったように見えるけど」
「……ううん。そんなことないよ。私も一緒だよ。迷ったり、悩んだり、そんな……そんなことばっかりだった」
織姫はいつかのようにクスッと笑う。
「でも、良かった。一時期はどうなっちゃうかと思ってたから」
「あー……ね。すまん。若気の至りってやつで、一つ」
「なんで謝るの?」
「なんでだろう。脅かしちゃったかな……とか?」
「なにそれ。そんなわけないじゃん。変なの」
俺の中の印象は同じなようで、きっと全然違った。
切ないくらいに時間が経った。その中でも、織姫の印象はまるで、これっぽっちも変わっていない。
クスクスと耳障りの良さを意識してるような優しい笑い方も、からかうような口振りも、良い匂いを散らしながらスポットライトに煌めく長い髪も、赤みが差した頬の細やかさも、忙しなく動く唇の色っぽさも。
それぞれが少しずつ、少しずつ、大人になって、どんどん綺麗になっていて、そこは間違いなく変わったと表現できるのだけど、交わしている会話やその中身は、あの頃のままな気がした。
「そういえばさ、番号、交換してなかったよね」
そうして可愛らしい端末を取り出すのも、
「うん。金髪より黒髪の方が似合ってる。ていうか、金髪、似合ってなかったよ?」
といって、さりげなく髪を触ろうとしてくるのも、
「高校どこ受けるの?」
と心配そうに伺う顔つきも、
その一つ一つがやっぱり俺は、どうしようもなく好きだった。
ちょっと途中は違っちゃったかもしれないけど、この三年間は全部、この人とこの日、こうして話す時間のためだけにあったような、そんな気がした。
「そうだったんだ……」
少しクスクスと笑った後、織姫はどこか物憂げそうな遠い目つきで、何気なく言った。
「ねぇ。……前から思ってたこと、あるんだけど、聞いてもらえる?」
「ん、なに? 何でも話せよ」
「うん。私たちさ、幼馴染なのに、いつも一緒にいるわけじゃないし、互いのことよく知ってるのに、今回もまた随分久しぶりだし、小学生の頃もそうでさ、私はよく思ってたんだけど……」
「うん」
「再会しては別れて、離れ離れになってはまたこんな風に再会して、私たちって、何だか--何だか、七夕の織姫と彦星みたいだね--」
年明け早々。
けど、今回の織姫の予想は外れて、俺たちはまたすぐに再会する。
同じ高校を受けるから当然なんだけど、試験会場の高校に行くまでの間、他の生徒らと一緒に覚え忘れがないかとか面接の回答とかを確認しながら、その時こうして傍にいられているこの一年半が少しだけ誇らしくて、俺に何か、見えない力を与えてくれているようだった。
これまではそうだったかもしれない。けど、これからは違う。もう間違えない。
こうしてこれからは、少しずつ、少しずつ、辿々しかったあの頃を取り返していけるんだと、俺は疑いもなく思っていた。
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