第9話

第二章・三



 校外学習の帰り、俺は織姫の紅いダッフルコートを腕にかけて机の横に突っ立っていた。トイレから帰ってきたクラスメイトに声をかけられる。

「あれ、何してるの? 白上」

「織姫を待ってる」

「ふーん? なんかウケる、その格好。カーネルおじさんって感じ?」

「ほっとけ」

 しばらくして、担任の後ろに続き、プリント束を抱えた織姫が戻ってきて、俺に気付くと、足早に教卓にプリントを積み、次いで小走りでこちらに来た。

「ロッカーに入れといてくれればいいのに」

「下手に扱って汚したら悪いじゃん。気に入ってんだろ? このコート」

「それは、そうだけど……」

 織姫はクラスメイトたちの目線を伺う。葛西や飯島は言わずもがなだが、他のそんなに親しくもない連中までもが、俺たち二人に注目しているようだった。

「恥ずかしいじゃん」

「今更だろ。何言ってんだよ?」

「……今更でも、恥ずかしいものは恥ずかしいよ」

「はぁ?」

「…………」

 織姫はやはり困ったように言ってコートを受け取ると、また小走りでロッカーに向かっていった。

 ありがとう。でも、ロッカーに入れといてくれればいいのに。

 そうだけど、全然気にしないよ。

 以前なら、ちょうどこんな感じじゃないか?

 やっぱり、どこか変だ。

 俺は腑に落ちない感覚のまま自分の席につく。葛西と飯島が曰くありげに二人で目を見合わせて、麻倉が隣で窓の外を眺めながら、不機嫌そうに鼻を鳴らしたのが分かった。



 秋の運動会以来、季節が変わって年越しが迫る頃になっても、ずっとこんな感じだった。

 仲のいい面子で開いたクリスマスパーティーでも、初詣で近所の神社で遭遇した時も余所余所しさがつづき、バレンタインの菓子作りも、その年はなかった。

 代わりにその日、学校に行くと、差出人不明のラズベリー色の、見るからに高そうな包装紙に包まれたチョコが俺の机に入っていた。

「貴様……貴様っ!!」

 突然飯島がそう言って俺の首を締め出したが、愉悦バリアー下にある俺には効かなかった。

「まぁまぁ飯島くん。嫉妬はやめたまえ、嫉妬は!」

「でも名前ないじゃん。ひょっとして暗殺する気なんじゃね」

 と葛西が言って、急転直下、俺は肝を冷やす。ひきつった笑いを浮かべながら言った。

「え、うそだろ? ……まさか。俺なんか殺して、何の得に……」

 思い当たるやつが一人いた。

 俺はすぐにも麻倉の席に詰め寄った。麻倉はいつもの腰巾着、西渡と他愛なく喋っているところだった。

「これ、ひょっとして、お前?」

 西渡はまた何か言いたげに麻倉を見て、当の麻倉は口を半開きの、いかにも気だるげな表情で、ラズベリー色の包装紙に包まれた箱を眺めて、唾を吐きつけるように言う。

「は? 誰が、アンタに?」

「いや、これチョコに見せかけた爆弾かもしんないし。俺を殺そうとするのなんかお前しかいないじゃん」

 麻倉は舌打ちする。いつにも増して機嫌が悪いようだった。

「……最低。人からもらったもん、そんな風に言うとか……死ね」

「どうせなら一緒に死のうぜ。ほら」

「は?」

 俺は包装紙のテープを指で外して、丁寧に開けていくと、有無を言わさず、中から一つ取り出し、麻倉の口に放り込む。

 俺自身も一口入れて、すぐに食べたこともないほどお高い味だとわかった。

「ちょ……え、美味くない? 麻倉。これ、めちゃくちゃ美味いんだけど」

「……う、うん。おいしい」

「な? な? もう一つ食べる?」

「いいよ、アンタが食べなよ」

「え、こんなのなかなか食べれねーぞ。いいの?」

「うん。その子はアンタに食べてもらいたかったんでしょ」

「だけどさー。考えたら、こんな美味いもん独り占めするような奴が好きなら、そもそも俺なんかに渡さないだろ」

「…………」

「だから、これでいいんだよ。てか、本当にいいの? 全部食べちまうぞ」

「え、マジで? マジで?」

 飯島と葛西が寄ってくるが、俺は箱を遠ざける。

「ダメー。お前らは爆弾とか言いやがったからダメー。そういうこと言うから、お前らにはねーんだよ!! 乙女心がわかってねーんだよ」

「お前もだけどな。--じゃあ、やっぱ私、もう一個だけ……」

 麻倉が駆け込み乗車するように言って、俺は前の席の西渡さんにも箱を差し出す。

「西渡……さんも食べる? マジで食べたことない味。めっちゃ美味い」

「え……」

 西渡さんは腰巾着だけあって、いちいち麻倉の意見を伺う。

「いいよ。こういう奴だし」

 麻倉がそう笑いかけてようやく手を伸ばした。いつの間にか機嫌を直したらしく、その表情はいたく穏やかだった。

 織姫が来ると、さっそく俺は織姫にも声をかける。

「織姫ー今さー、差出人不明のチョコが来ててー」

「うん」

「これ、織姫の? じゃないよな、今来たばっかだし……」

 綺麗に畳まれた包装紙を見下ろして、麻倉を見て、再び俺を見て。その分、返答が遅れる。

「うん。違う。私なら……途中とか、手渡しするでしょ。こんな、こそこそしたりしないよ」

「な、なんかトゲない?」

「ない」

 俺はここでも空回りしている感じがして、うまく会話にならないもどかしさを覚えてしまう。

「……食べる? まだ何個か……」

「いらない。その子に失礼だし。誰だか、知らないけどね」

「あのさ……なんか、怒ってる?」

「そんなこと……ないけど」

 迷ったけど、思い切って聞いてみる。

「……織姫は……チョコとか」

「ほしいなら、帰りに買ってあげる。けど、そんなことで何か変わるの」

「ですよね。変わりません」

「そうだよ。結斗にはこんなくだらないことより、もっと有意義なこと考えてほしい」

 もしかしたら織姫は、ちょうど俺が春に感じたことを今になって発症しているのかもしれないとも思って、なら、そっとしておいた方がいいとも思って、何もかも黙っていることにしていた。

 けど、そんな、一言で言えば、わだかまりというものは、一方だけで起こることじゃない。

 織姫にそんなぎこちなさが芽生えたように、俺の方でも思うところはあって、以前のように接することはやっぱり難しかった。

 俺はまだ秋の運動会のことを許せていなかったし、聞けてもいなかった。

 結局そうして、何も進み出せないまま、全部おざなりになって、でも始めた習い事の数々に押されるうちに小五の残りは足早に過ぎていき、小六に上がる頃には流石に表面上は以前通りに接することができるようになっていた。

 花粉症やら台風やら何やらでわたわたしているうちに春が過ぎ、夏休みに入ると、小学生最後ということもあって、俺たちは色んなレジャーに繰り出した。

 プールに海に盆踊り、近くの公園で花火もしたし、夏の映画も見に行った。

 最終日には、成り行きでまた男子は俺と葛西と飯島、女子は織姫と高橋で、近くの神社の祭りに行った。一通り屋台を流して見て回り、端っこの方で一休みしてた時、俺は、いよいよ夏休みの終わりという込み上げてきた切なさに急き立てられるようにして、織姫に思い切って聞いてみた。

 女々しい奴とか言われてもいいから、とにかく、このまま卒業なんてことは絶対に嫌だった。

 表面上はやり過ごせているように見えても、これじゃどこへも進めない。やっぱり、わだかまったままだったのだ、俺たちは。

「あのさ」

「ん?」

「ずっと、聞いてみたかったんだけど」

「うん。どうしたの?」

 織姫もすぐに何かを察したようだった。

 俺は改めて意を決して言った。

「なんで運動会の日、帰ったの?」

「……え?」

「去年の運動会の日、あったじゃん。俺が須藤に挑んで、落ちて、気を失ってさ」

「あー……そうだね。あったね」

「正直言うよ。俺、お前に褒めてほしくて、頑張ったんだ」

「え……」

「お前が須藤のこと好きとか言ったって聞いたから、そんな奴ぶっ倒して、俺の方が強いって、見せたかったんだよ。それなのに、俺はぶっ倒れちゃうし、お前はとっとと一人で帰っちゃうし……本当、マジで人生で初めて感じたくらい、最悪な日だった」

「う、うん……」

「……なんで? 俺のこと情けないと思った? やっぱ須藤が……」

「ち、違うよ。絶対違う。ていうか、あれはね……あの時は……」

 きっと溜め込んだのが不味かった。

 織姫はきちんと答えようとしている、それを分かっていても、俺はまだ感情のコントロールなんかできなくて、一言口に出すたびにあれもこれもと聞きたかったことが湧いてきて、そんなつもりは全然なかったのに、織姫を責めるみたいに詰めてしまう。

「てか、なんで須藤? お前、本当はあんなのがタイプなの?」

「……ごめん。そんなつもりじゃ……なかったんだけど」

「じゃ、どんなつもり?言ってよ。わかんねぇって」

「……それは。あの……」

「あんましさ、そうやってズケズケと聞くの、良くないよ。白上」

 ふと気付いて周りを見ると、葛西や飯島や高橋がそれぞれ心配そうに距離を置く中、突然どこかから湧いたように現れた麻倉が、俺と織姫の間に割り込んで、串焼きの最後の一個を横にして咥えながら立っていた。

 串を抜いて、口元を軽く手で押さえながら、麻倉は続けた。

「あむ……うん。女の子ってデリケートなんだからさ」

「何、お前。てか、なんで」

「一休みしようと思って、外れに来たら、あの三人見つけて、手を振ったら、なんか助け求めてるみたいだったから」

「あぁ?!」

 俺は葛西や飯島の方に凄む。二人は高橋の影に隠れるみたいにして小さくなった。

 なんか知らんが、コイツらが昨年の冬ごろから、よく麻倉を頼りにして、時々三人でゴソゴソ話していたことには気付いていたが、まったく余計なお世話だと思って俺は無視していた。

 麻倉が俺の前に立ちはだかるようにして言う。

「二人も悪くないっつーの。どう見てもアンタが、だらだらだらだら女々しいことやってんのが悪い」

「……お前には言われたくねぇんだよ」

「でも、水瀬さんも答えたくないってさ。分かる? 事情があんだよ。デリカシーのない男には分かんないかもしれないけど。--ね? みーなーせ、さん?」

「えっと……うん」

「……何の事情だよ。こっちは、それを聞きてーの」

「ほら。そういうとこだよ、白上。いいじゃん。本人、違うって言ってんだし。それで信じてあげれば」

「…………」

「何もかもアンタの思う通りにはいかないってこと。そんくらい、察してさ、やり過ごしなよー。意外に小さいよね、白上って」

「は? 俺は小さくねぇし。な? 織姫?」

「え! あー……」

 織姫が視線を彷徨わせて答えあぐねる内から、被せるようにして麻倉は続けた。

「ハァ? どこ……え、アンタ、今、下ネタ言った?」

「……は?」

「……あ」

「……え?」

 妙な沈黙が三人の間に流れて、束の間ののち、俺は怒った。

「テメーだろ! 今のは完全に!!」

「い、いや、ちが……違うって、私は……あー……だって、水瀬さんもそう思ってたじゃん!!」

「え! あー……」

「それ! 絶対、おも……え、アンタら、まさか!!」

「え、あ、だ、だって、ほんと結斗とは、小さい時から見てるし……み、みてないみてない!! 最近は見てないけど!!」

 織姫の壮絶な自白を受けると、麻倉はとたんに真っ青になって、俺を犯罪者のように見た。

「嘘でしょ……白上、最低!! この変態!!」

「なんでだよ!! 俺?! それ俺が悪いの?!」

「小さい頃って何歳の時よ。そんな女の子に見せびらかすなんて、ド変態じゃん!!」

「見せびらかしてねー!! 織姫が覗いたか、何かの拍子でちらっと見えちゃったんだろ!!」

「記憶焼き付けてんじゃん!!」

「記憶……?! あれ、なんか……エイリアンがどうとか……?」

「意味わかんねーよ!!」

 しかし、これが思わぬ功を奏していた。

 織姫は口元を押さえてぷるぷる震え出すと、一気に噴き出して、大笑いしたのだ。

 こんなに織姫が笑うのを、俺は何年振りに見ただろうかというくらい。

 俺は、麻倉と顔を見合わせて、それからそろって織姫を伺った。織姫は身を捩って笑い続けている。楽しそうな織姫に釣られて、俺もだんだん笑えてくる。

「え、そんなに?」

「プッ……くく、あーちょ、結斗何も言わないでーあーだめだっ……ふふふふ」

「えー……人のちんちんで?」

「や、やめて! もう……これ以上……おなかいたい……」

 俺は呆気に取られている麻倉を見る。俺はもう笑っていたが、次第に麻倉のその口元も緩まって、葛西や飯島や高橋も近づいてきた。

 周りの大人たちにはおそらくヤバい連中に見えていたかもしれない。あるいは単に、浮き足立ってはしゃいでる若者に。

 しばらくして、笑いが治まってきた頃、織姫は疲れて、近くのビールが入ってたコンテナを借りて腰掛け、涙ながらに言った。

「ごめんなさい。見てしまってごめんなさい」

「うん。いいけど」

「笑ってごめんね。結斗」

「織姫さん、わざとやってます?!」

「ふふっくく……あーヤバ、またきそう……もう結斗、笑わせないで……私、死んじゃう……」

「してねーんだよ、こっちは別に」

「水瀬さんがあんな笑うとこ初めて見たわ。しかも、衝撃的事実な」

 と飯島が言うと、織姫は、

「皆も、麻倉さんも、高橋さんもごめんねー。変なこと聞かせちゃって」

「いや、いいけど」

「俺は哀しいわー。まさか、既に二人がそんな……」

「いやーごめんごめん。私の目はもうとっくに薄汚れていたんだ。あ、でも、まだ可愛かったから、汚れてはいないと思う」

「俺の尊厳に謝れ」

「本当にごめんってば。ふふ……結斗」

「おかしい。それで笑うのはおかしい」

 色々結論的なことはそれでなぁなぁになってしまったものの、何か胸の空く思いで、俺はけれどすごくホッとしていた。大事なのはそうだ、織姫が笑ってることで、それ以外の何物でもなかった。だからだろう。

 運動会の日の真相が知りたいんじゃなくて、俺はただまた前みたいに、何の垣根もなく織姫と笑いたかっただけなのだ。

 結局、麻倉はそのまま一緒に同行した。他ならない織姫が誘った。で、その帰り際にも何か話しているようだった。意外にも、気が合うのかもしれない。そのことに気付いたのかもしれない。

 何でもよかった。他ならない織姫がここ最近で一番、楽しそうだったから。

 神社からはそれぞれ帰路が分かれているので、帰りは俺と織姫の二人になる。

 織姫は尚も揚々と楽しげに話した。

「麻倉さんって意外に可愛いとこあるよね」

「意外って……」

「結斗も、別に嫌いではないでしょ?」

「えー……全然タイプじゃねぇけど」

「人間的にだよ」

「……お前も歯に絹着せないっていうか、そういうとこあるよね。あんま人前で言わないほうがいいぞ?」

「結斗の前だから、いいじゃん」

 立ち直った、というよりは開き直ったように見える織姫は、けれど、俺にとって身の毛がよだつくらいドストライクに可愛かった。

 俺は理性を保つために瞬時に話題を掘り返して、適当にずらすことにする。

「……で、いつ?」

「え? あー……」

 織姫は玄関先でも、まだ笑い返して言った。

「いつでしょう?当ててみて。宿題。ヒントは……そうだな、あ、結斗が言ってた、エイリアン。もう答えだよ、あれ」

「エイリアン?! ……わかんねーよ。--けど、まぁいいか。なんか、その感じ、懐かしさすら感じるわ」

「私も思い出したんだよ。色々とねー。あ、ね。結斗」

「うん?」

「私、今、幸せだよ」

「……え?」

 織姫は後ろで手を組んで、少し首を傾げるみたいにして言った。

「高橋さんに葛西くんに飯島くんに麻倉さんに……皆がいて、時々すれ違っちゃうこともあるけど、こうして笑い合えて、バカをやれて、過ごせた今が生きてて一番好き」

「え、俺は? 俺、呼ばれてない」

「きっと忘れないよ。ずっと楽しかった」

「なんで過去形だよ……え、待って。まさか、お前、どっかいくの?」

 織姫は緩く首を振る。

「じゃ、なんだよ……」

「うーん、なんとなく……なんとなく、もう皆、大人になってっちゃうんじゃないかなって」

 それは俺にとっては変化するという意味の代名詞にも聞こえて、俺は嘆息すると、垣根をぶち破るみたいに容易に、その小さな頭の上に手を乗っけてみせる。

「エロの次は大人か……アホらしい」

「え? エロ……?」

「大人になっても……ま、ちょっと変になったり、その時はするかもしんねぇけど、でも中身はそんな変わんねぇよ。俺はたぶん、俺のままだ。だから、心配なんて、そんなんいらねーから」

「うん……うん、ありがとう」

 俺が頭を撫でるのを、織姫は気持ち良さげに目を細めてから、ふとその手をとると、冬の時分に手袋でそうするように、労わるように、そのまま自分の頬に当てる。

「結斗は、そのままでいてほしいな。そのままでいてほしい」

 俺の理性が決壊する寸前で、けれど織姫の表情はやはりどこか寂しげに見えて、本能はそのまま萎んでいった。



 小学生最後のクリスマスもほぼいつもの面子だった。そこに今回は麻倉もいて、どちらかといえば、織姫は俺よりも麻倉と話してることの方が多かったのだけど、楽しそうなその笑顔を見ているだけで、俺は満たされた。

 年明けて、お年玉を比べあい、バレンタインが迫ると、俺は少し期待して、その期待通りに織姫は赤い手袋に包まれた手で、朝一番の出会い頭に渡してくれて、卒業式を迎えると、俺たち男子は同じ中学に上がるだけなのだから別に何とも思わないのだけど、なぜか泣き出す女子たちがおかしくて、からかって回ったりして、過ぎてみると足早に一日、二日と式の日が離れていき、学校に通っていたことが懐かしく思えてくる頃、俺たちは、小学生である最後のイベントに卒業旅行と称して、近くの遊園地に遊びに行った。

 チケット代はそれぞれの親御さんがカンパして出したらしく、集合はそれぞれの家のちょうど真ん中あたりになる高橋の家の前。俺たちはそこから、バスに乗り、電車に乗り換えて、そこそこ離れた駅で降り、またバスに乗って、遊園地に着くと、園内を適当に見て周り、存分にデートを楽しんだ。

 いつもの面子に加えて、更に倍ほどの人数が集まったのでそれなりの大所帯となったが、園内では好みの乗り物等々で何組かに別れて、そこからはほぼ別行動となった。

 意外なことに、といっても俺の目線では流れを追ってきているのだが、高橋と葛西が結構良い雰囲気で、周囲の何人かで二人きりになるように計らったりもした。

 いつまで続くかが見ものだけど、そこを語るのは野暮というものだろう。

 俺としてもメインは自分たちのことである。

 俺と織姫はその頃もう周知の仲で、気遣われることすらなかったが、園内では大抵+して麻倉が一緒だった。

 なんでやねん。と突っ込みたいが、他ならぬ織姫が気に入っているのだから、逆らえない。夏からこの時にかけて、その状況で、麻倉はよくこれ見よがしに織姫にセクハラをするようになり、織姫も織姫だから、そうして二人して、なんだか俺の反応を楽しんでいるようにも見えた。

 そして、デートで遊園地とくれば、締めはやっぱり観覧車だろう。流石にここまでくると、麻倉も諦めた。再三俺を犯罪者のようにして、織姫に警告していたが、最後には手離して見送った。

 何だかんだ登下校なりで二人になる時間はあったのだけど、こうして狭い個室でとなると珍しく、俺はもう正直、エロを期待せざるを得ない。

 それをいち早く見抜いてか、織姫はクスクス笑って言った。

「絶対、エロいこと考えてるでしょ?」

「不可抗力だろ……」

「まぁいいけど……そういえば」

 織姫はさっそく少し腰を浮かせると、人の背を計るみたいに手を俺の額に寄せてきて言う。

「大分、声低くなったよね」

「そう?」

「うん、なんていうか、もう少年って感じじゃなくなった。ニキビも増えたし、肌もちょっと浅黒くなった、っていうか……ちゃんと洗ってる?」

「洗ってるわ。毎日。どこ心配してんだよ」

 俺は笑う。織姫ももうそんな感じだ。少女っていうより、もう……。

「てか、それでその手は関係なくね?」

「ふふ、あーもう癖だね。少しでもお姉さんぶりたいの。結斗は私の手の中だって」

「え……」

 織姫は、今度は、段々と離れていく地上を見下ろして、

「てか、普通に下からも上からも見られるし、観覧車って意外とムードないよね。あ」

 後続の籠に乗る麻倉に手を振ったりしている。

「確かに。これはあかんなー」

「ふふふ、なにがあかんのー……?」

「……織姫」

 俺は期待に応えるように、ひどく真面目ぶった顔をして、その顔を見つめる。

「とりあえずさ、そっち行っていい?」

「……どうぞー?」

 俺は立ち上がり、手すりにつかまりながら、対面の席に移動する。

 確かにいつか来た時の感覚からすると、大分狭苦しくも思って、意外とそれだけで結構揺れもするし、なんだか落ち着かない。

「本当、観覧車ってあんまりムードないな。下手こくと酔うだろ、これ」

 しかも、結構進みが早い気がする……いやそれは俺の気持ちがそう思わせてるのかもしれないけど、あまりもたもたしてもいられないと思った。

 そう思って、籠の外から織姫の方へ目を移した時、織姫は既にこちらを見ていた。

 その距離が想定外に近くて、一気に雰囲気が出てくるのを感じた。肌で感じた。ぞわぞわした。

 改めて、まつ毛が、くりくりした両の眼が、赤らんだ頬が、良い匂いのする長い髪が、そこから透けて見える形のいい耳が、ぷっくり艶めいた唇が、鼻にかかる吐息が、全部、綺麗だと思った。

 今こそ俺のものにしたい、そんな再三湧き上がる衝動を、今度ばかりは抑える自信がないほどに。

「俺さ……」

「私……」

 声が被って、瞬間的に譲り合ったのち、織姫が言った。

「私さ、皆がイメージしてるような女の子じゃないの、結斗は分かってるよね?」

「うん」

「あ、でも、昔はまだ本当に子供だったからな……今の話聞いたら、うん、たぶん、そんな結斗もびっくりするくらいだよ」

「そうなの?」

 織姫が頷く。

「本当はずっと子供で、わがままでね、周りに見せてるのは全然私じゃない別の誰かなの。本当は勘違いされるのだって嫌」

「皆、そんなもんだろ」

「名前にもあるでしょ。姫って。きっと女の子は誰だってそうだと思うけど、皆、お姫様なんだ。心の中にそんな、叫び出したいほど野蛮で傲慢な本当の自分がいる。でも、世間に求められてるのは、そんな子供でわがままな私じゃない。その誰かだから--だから私は、大人のふりをして、良い子の仮面をかぶって、普通を装って、これからもどんどん、どんどん、変わっていくと思う」

 何の話をしてるんだろう。

 段々とその異変に気づく。

「最初はヴェガ。次はきっともうすぐ、アルタイル。そんな私が私でいられる、私が一番好きになったものは、皆、私を置いてっちゃうから。私は変わらないといけないって思うんだ。一人でも生きていけるように強くならなきゃいけない。でなければ、この先きっと生きていけない。だから、だからね……」

「まて……」

 何の話だ? と手のひらを見せて、制止する間もなく、俺は目を見開く。

 涙。

 涙が、織姫の双眸から流れ落ちたのだ。

 そして息を止めた。

 織姫はそうして涙が零れ落ちるが早いか、俺の唇にキスしていた。

 自然に俺の手は織姫の背を抱きしめる形に落ちて、その自然さとは裏腹に、心臓が早鐘のように鳴っていた。

 嬉しいのか、哀しいのかもよく分からない。きっとどっちもが入り混じって、期待と絶望が頭の中でこんがらがって、神経がショートしてしまったのだろう。

 俺の肩に手をついた織姫がくっついた磁石をズラして剥がすみたいに、俺の胸の前に俯く。

 互いに目を見られない。そんな痛いような苦しいような沈黙が少し続いて、織姫は顔をあげると、まっすぐに俺の目を捉えて、絞り出すように言った。

「せめて思い出をください。大人になっても、それで、きっと生きて……」

 俺たちはそうして地上に降りるまで、何度となくキスをした。

 あまりに鮮烈すぎる初体験の感触を心に焼き付けることに必死で、俺はその日の後の時間をあまり覚えていないが、観覧車から出た後の織姫は、まるで別人のようにいつもの振る舞いに戻っていたことだけは覚えている。

 けど、ここからだったのだ。

 その日の俺の本当の勝負所は。

 結局帰りはそれぞれ時間の合うメンバー毎、数人ずつの組に別れて帰ることになり、俺、織姫、麻倉、飯島の四人がその初発になった。

 電車内でもバスでも、その途中の歩き道でも俺は専ら飯島と連れて話し、織姫は麻倉と連んだので、2×2の状態が続いて、地元の駅を出て、その相方が入れ替わった別れ際に、麻倉が唐突に手招きしてきて、俺が近づくと耳打ちした。

「守ってやれよ」

「なにが。--てか、バレバレなんだけど」

 俺は後ろで控えてる織姫と、向こうの飯島を気にした。

「それでもいい。後悔だけはすんな。今から覚悟決めとけ」

「お前こそな?」

 俺はしれっと返した。

「ハァ?」

「飯島も報われねぇなあ」

 俺は口元を曲げてそれだけ言うと、その場を離れた。

 そして織姫と二人きりの帰り道は最初、少しの間沈黙が続いた。だけど、麻倉に言われなくても分かってる。俺はふとして、尋ねる。

「何があったよ」

「…………」

 織姫は答えない。俺は真剣だった。

「どういう意味だ?」

 織姫は答えない。俺はその腕を掴んだ。

 駅を出たのが七時過ぎ。時期は三月。辺りは既に夜の風景で、周りに人気はなかった。

「なんかまだわだかまってるわけ? 俺のせい? それとも、別の原因? ちゃんと言えって。でなきゃそんなこともわかんねぇよ」

「……分かってどうなるの?」

「お前さ、例えば友達が死にてぇって言ってたらどうする? 無理だわって諦める? それとも、その気持ちは認めるって、最後に一杯遊んでやるクチ?」

「…………」

「俺はどっちでもねぇんだよ。なんで死にてえのか聞いて、俺に何か出来ることないか聞いて、言われたそれ全部やってでも止めに入るのが俺なんだよ。で、そんなん分かってんだろ。お前だって。分かってて言ってんだ。それはつまりさ--」

「…………」

「--お前は助けてくれって言ってんだ。違うのか」

 織姫は俯いた。気付けば肩が震えている。

 俺が掴んでないほうは、そうして腰下の辺りで拳を握っている。

「俺に言った以上、絶対死なせねぇから。観念して話せ」

 そのおよそ二十分後、俺たちは水瀬家の玄関先にいた。

 こうして手を握ったままそのガラス戸の前に立つのは、随分と久しぶりだった。

 あの頃は二人ともまだ未就学児で、悪戯ばかりして、そしてエイリアンのことも思い出して、それもあって俺は最後に織姫には口元を緩めて見せる。

「怖いならここで待っててもいいぞ」

「大丈夫。私も行く」

「よし」

 俺はインターホンを鳴らすと、魔王城に乗り込むクロ○とカ○ルのような気で、玄関に上がった。

「お邪魔しまーす」

 織姫の家は中流に見えて、わりと気位が高い。玄関を開けると最初に見えるのは、全長160cmほどの大きなクマの木彫象である。その脇にトイレがあり、二階への階段を挟んで、すぐ右にお風呂場、その前の廊下を抜けるとキッチン、そしてそこから居間に繋がっている。

 廊下をとてとてとスリッパの足音を響かせて、織姫のお母さんが来る。既にしてその表情は薄暗く、それだけである程度の事態の重さが俺にも計り知れた。

 織姫の言ったことはこうだ。

 実は小学三年に上がったその日、織姫は学校で一騒動やらかしている。当時の担任を相手取っての本気の口論をした。それ自体は解決されたし、俺の目にも問題はないように思えていたのだが、しかし、思えばその頃からだった、といった。

 父親が、俺のことをひどく嫌い、同時に一人娘の織姫を心配しているという名目で、束縛し始めたのは。

 それから織姫の父親は、事あるごとに織姫の日常に介入してくるようになった。主に俺を目の敵にして、イベントでも何でも、俺がいると勝手に断ったり、五年に上がる時にも教師に別のクラスにしてくれと嘆願するほどだったという。

 問題児がいる。うちの子とは関わらせるなと。

 織姫の毎日を習い事漬けにしたのも、この父親だ。それでも休日やイベントのたびに遊びに行けたりしたのは、織姫とそのお母さんが口調を合わせていたから。

 今日の遊園地だって、二人で画策しての強行だった。

 中学に入れば、その傾向はますます強くなる。塾通いが本格化して、束縛は強まり、一年から受験のための(違う、親の自己満足のためだ)勉強漬けにさせられる。そうした口実で、俺たちはどんどん引き離されていく。

 だから、最後にと、織姫がお母さんにお願いして、それでやっとのことだったらしい。

 夏祭りの日からの織姫は文字通り、開き直ってたわけだ。せめて皆でいられるうちに、精々楽しめるだけ楽しんでおこうとして、その事に殉じていた。

 ……俺には分からない。

 そりゃ一人娘に手をかける輩が、そんな早くから現れてちゃ父として心配になるのも、なんとなく想像はつくし、もしかしたら、本当に単なる愛情が過ぎただけなのかもしれなかった。

 それでも、親子はいずれ離れていくものだろう。

 それを許せないって親の心境が、まるで分からないのだ。

 ずっと家にいたら、それはそれで社会不適合者だとか、ニートと呼んで追い出したがるくせに、その一方でこうして束縛して、自分の手駒のようにして、言うことを聞かせるだけの関係にして、それを親だから、その一言で認めさせているこの状況そのものに、まったく納得がいかない。

 成長してほしいのか、そうじゃないのか。

 そんなはっきりしない未熟さに腹が立つ。

 親とか子供とか、そんな言葉がそもそも邪魔をしているのだ。

 血の繋がりがあったって、だから、好きになるわけでもなし、好きにならなきゃいけないということでも、ましてやその言いなりにならなきゃいけないなんてことも絶対にないはずだ。

 その人がその人だから、好きにも嫌いにもなるのだ。そこに代名詞なんぞはいらないし、初めから関係がない。

 なんでこんな簡単なことが、自分の一回りも二回りも歳の離れた人に分からないでいるんだろう。いられるんだろう。

 その浅ましさに、心の底から怒りが込み上げてくる。

 大人は皆、だから、嫌いなんだ。

 俺はキッチンから、襖を開けると、その奥に偉そうにふんぞりかえった織姫の父親を見据えた。

 想像していたよりも細く、メガネをかけていて、一見すると取っ組みあいの喧嘩なら勝てそうだとさえ思った。けれど、たった一つの言葉、織姫の親だから、それだけで以て、織姫を言いなりにしてきたのだと思うと、余計胸糞が悪い。

 二人目だ。須藤よりも、殺意が強かった。

 俺は口火を切った。

「こんばんは。織姫の幼馴染の結斗です」

「こんばんは。織姫の父です」

「単刀直入にお願いします。もう織姫の人生に関わらないでもらっていいですか?」

 父親は目を丸くして黙っている。

 俺は続けた。

「織姫も、俺も、アンタの出しゃばりにうんざりしてます。だからもう、織姫には何も言わなくていいから、アンタはその責任に大人になるまでの金だけ払ってろ。--アンタにまともな親の資格なんてないんだから」

 そこまで一気に言うと、父親が笑った。隣家まで聞こえそうな大きな声だった。

 しかし、それは子供の挑発じみた態度にもまるで動じていないということだ。織姫の父親だけあって、すぐ怒鳴ってくる親とは違う、冷静そうなその態度が、逆に手強いと俺に感じさせる。

「あはは……なるほど。君が結斗くんか。なるほど。はっきり言う、たしかにちょっと面白いね。いいだろう。そこにおかけ。少し話をしよう」

 俺は心配そうな織姫の、その手の上から自分の手を被せると、居間に入ってその掘り炬燵式のテーブルの側面に座った。織姫はその後ろにつき、母親が父親の対面に座る。

 それを見てから、父親がゆっくりと言う。

「そうだね。結斗くん、二千万円って言って分かる? 何の意味か想像できる?」

「どうせ教育費とかでしょう」

「その通り。思ったよりも頭が回るね。子供が成人になるまでにかかるとされるおおよその費用だよ。ま、私は大学の准教授をしていて、年収は600万くらいだから、さほどのことでもないが、それでも生活費とかを考えると、四、五年は優にかかる。それを親は子供にかけるんだ。ちなみにこの国の平均世帯年収は550万ほど、これは世帯だから、家族数人でってことね。私はそれを一人で養って、600万。共働きが普通とか言われてる昨今に嫁も働かせていないし、毎日好きなものが食べられて、大体の好きなものは買わせ、好きなことをさせ、好きに暮らさせている。

 もちろん、私にもこれまでに培った経験則というものがあるから、それでもって少し、娘のお付き合いしているお友達に関与したからといって、それで資格がないと言われるような筋合いこそ、君にはないとは思わないかな。

 ただ、たまたま、近くの家で小さな頃遊んだだけの、君こそ、人様の家庭に、でしゃばりすぎなんじゃあないか?」

 深呼吸をする。呑まれるな。自分に言い聞かせる。

 どんなに強大そうに見えても、コイツを打ち負かさなきゃ、織姫に公言させることなんて出来やしないんだ。

「全然ですね。だって、織姫は俺の未来のお嫁さんだから」

 ここで初めて父親は顔をしかめた。織姫も、母親も、俺を見た。

「正直かなり嫌だけど、アンタは俺の義父になる予定の人ってことになる。義理の息子が、嫁の人生守るために、その義父に談判しにくるのってでしゃばりだと思います?」

「……減らず口を叩くな。無礼者め」

 低く唸るように父親が言う。俺も応じて、声が大きくなる。

「アンタこそ人の嫁に過干渉だっつってんだよ。ほっといてください。それが一番なんです。子供は自然に学ぶ。余計な茶々が一番迷惑だ。そうすれば織姫だって、アンタのことを無闇に嫌ったりしなかったんだ。俺たちはもう……」

 突然父親が卓上のジョッキを腕で吹き飛ばした。

 これまでになく大きな音を立てて、ジョッキグラスが襖を突き抜け、押し入れの何かにぶつかって割れる。父親は硬く拳を握りしめて、怒鳴った。

「俺たち……?! 俺たち……だと? 織姫っ!! お前、まさかもう!!」

 俺は慌てた。心にもない飛躍した発想で、目の前の大人が怒り狂って、娘に当たり散らしたのだ。

 それはもう父親というより、俺には、いないはずの元彼とかそういうものの権化に見えた。

 父親は俺をすっ飛ばして、織姫に掴みかかり、母親がやめて、あなたと叫んだ。

 父親は信じられない汚い言葉遣いで、織姫を責め立てた。

 ヤバい。ヤバい、この人……この親!!

 頭の中がパニックになりかけながら、俺は母親とは反対の方向から父親を止めようとするが、とたんにものすごい力で跳ね飛ばされた。俺は頭を襖の取手にぶつけながら、奥の居間に倒される。

 一瞬の間隙に、背筋が凍りつく。

 織姫も似たような心境だったかもしれない。俺の名を叫ぶその声が聞こえて、織姫が涙を浮かべた悲壮な表情でこちらを見ていた。

 俺は片手で後頭部を押さえる。血は出ていない。けれど。

 これが襖だったから良かったものの、壁とかドアとか、あるいは奥の居間に何か家具でも置いてあったなら……。今の瞬間に殺されていても、何も不思議ではない状況だった。

 およそ一年と半年前、須藤に挑んで気を失った時のことがフラッシュバックする。

 俺はその時のことを覚えていないから、まるで気にもしてなかったけど、あれも相当危ないところだったんじゃないか?

 そういえば、記憶が途切れて保健室に飛ぶ寸前、今と同じような織姫の泣き顔を見ていた気がする。

 そして今また、死にかけたんじゃないか? 俺は。

 ニュースでキャスターが告げる。

〈本日九時過ぎ、○○県××市の民家で、未成年の少年が交際していた少女の父親によって殴り殺されるという事件が発生しました……当時、二人は口論をしていて、その弾みで……〉

 そんな光景が目に浮かぶ。母ちゃんが泣く。織姫も泣く。俺はいなくなる。二度と守ってやれなくなる。織姫は、俺の手から永遠に届くことのないところへ行ってしまう。

 死の恐怖。

 だが、俺は目の前の光景を再度、認識しなおして、すぐに考えを改める。今! その危険が一番高いのは、誰だ?

 自分はまだ、それでもいいのかもしれない。だって、死ねば自分はいなくなる。考える自分も同様だ。けれど、織姫に死なれたら。俺は今後一生、立ち直れない自信がある。

 この先ずっと? 織姫のいない人生なんて、そんなの……絶対に嫌だ!!

 俺は叫んだ。

 それは獣のような声だった。自分で発しているとは信じられないくらい野太い雄叫びのような声だ。

 俺はキッチンに走ると、無我夢中で流し場の上の木製のスタンドに突き刺さっている包丁を取り上げて、両手で握りしめる。

 そして、振り返り、その切っ先を、父親に向けた。

 ドラマとかでよくあるけど、それほど大袈裟には震えない。ぴたりと照準を定めているように、それは真っ直ぐ、父親の胸に向けられている。

 心は決まっていた。俺は唸るように言った。

「やめろ……織姫を離せ!!」

 父親は既に血に染まったような真っ赤な顔をして、織姫の腕を掴んだまま、こちらを振り向いた。耳まで真っ赤だ。その顔が生理的に気持ち悪いと思った。

 コイツにとっての織姫は、きっと娘なんかじゃない。コイツを殺さなければ、一生、織姫は幸せになんかなれないと、その表情が物語っているようだったから。

 織姫が泣きながら、俺の名前を叫ぶ。父親が腕を離して、こちらに向かってくる。

「どうした? やれよ。万々歳だ。私はお前なんかには倒されない。すぐに退院して、私たちはお前の知らないところで暮らしていく!! 二度と会わせもしない。お前はそれで少年院いきだ。ハッピーエンドだよ」

「どこがだよ!! お前は異常だ!! 織姫を離せ!!」

「はは、何言ってる。もう離してるだろ」

「ちげぇよ……。そんなこともわかんねぇのか。織姫の人生をだよ!!」

 一瞬、父親の目が丸くなる。正気に返ったかのようだった。

 再三、織姫が俺の名前を呟くように言って、俺も感情のまま涙が込み上げてきた。

「なんでアンタらっていつもそうなんだ。俺たちにとっての大切なものを、自分たちで勝手に決めつけて、こっちがいいからって取り上げて、それが愛情? 教育だ? ふざけんじゃねぇよ!! --自分たちで決めさせてくれよ!! 誰もアンタらのお芝居に付き合うために産まれたんじゃねえんだよ!! 織姫の人生は織姫だけのものだ!! 親だって、勝手に自分のもんみたいに、決めていいわけねえだろ!!」

 俺は肩で息をしていた。包丁を掲げていた腕もそろそろ限界だった。少しずつ震え出した。

 その時、織姫のお母さんが立ち上がった。お母さんは溜まった憂さをぶちまけるように言った。

「……じゃあ、私たち親はなんだっていうの。アンタら自分が被害者みたいに言うけど、私たちだってアンタら子供の言うことを聞くためだけの玩具じゃないのよ!!」

 それは俺にとって、たぶんに父親の反応以上にショックだった。織姫のお母さんは俺の味方をしてくれると思っていたから。

 織姫のお母さんは身振りで悲壮を訴えかけて、こちらに近づいてくる。俺は包丁の刃先に気を配り、角度を上げる。

「お、おばさん……危ないから、下がってて」

「もういや!! 織姫のことも知らないわ!! 好き勝手わがまま言って!! その度お父さんに怒鳴られるのは私じゃない!! そんなに二人がいいなら駆け落ちでもなんでもすれば?!」

 しかし、その一言が再び父親の逆鱗に触れた。

 父親の精神は彼女を寝取られまいと必死になって逆上するナイーブな彼氏そのものだ。その前に、駆け落ちなど、逢瀬を連想させるような発言が不味かったのだろう。

 父親は、母親が詰め寄ったことで包丁の向きが変わったその隙を見逃していなかった。母親の身体をブラインドに使い、間合いに入るや、俺の腕をきつく掴んで持ち上げた。

 俺はとっさに力を込め直したが、一足遅く、父親ともつれ込んだ末に、気が付けばキッチンに寝転がり、マウントを取られている。

 包丁は手放してはいない。けれど、父親の過剰な力で、手首の向きが変えられている。

 切っ先が、今は、俺の喉元のすぐそこに突きつけられていた。

「貴様のようなチンピラに、絶対に織姫はやらんぞ。ヤラれてたまるものか」

 父親が呟いた。

 腕の力が押し切られる……刃が、膨らみ始めた喉の出っ張りに当たる、鮮明な痛覚が脳に走って、その時俺は気付いた。

 柄を握ってるのは俺だ。これがマズい。

 今なら例えば俺を殺したとしても、そんなに重い罪には問われないんじゃないか? そもそも、殺人が立証できるだろうか? ここにいるものの証言次第では、自殺として処理されることもあるんじゃないか?

 父親の狙いは……それか?

 一層の力を込めて押し返そうとするも、大人の体重を乗せた力にはまだ敵わない。刃先が刻一刻と中に食い込んでいくのが、その酷くなる痛みで分かる。

 俺は織姫がいるはずの方向を見ると、心の中で呟く。

 悪い、織姫--。

 喉が切り裂かれる間際、織姫が叫んだ。

 皆の目がそちらを向く。

 俺は腕の力を緩めない。

 拮抗させるので精一杯だが、その啜り泣く声だけが届いた。

「やめて……ください。もう、いいから……言う通りにするから……お願いします……」

 父親は一瞬たりとも力を緩めない。今なお、俺を殺す気でいながら、言った。

「彼に言いなさい。包丁を持ってるのはこの子だ。私は--」

 そうして俺を見下ろすその顔が勝利に勝ち誇っていた。

「--正当防衛をしているだけなんだからね。織姫」

 背筋が凍りつくような笑みに、俺は強気な表情のまま叫んだ。

「織姫、言うな!! 力入れてるのはコイツだ!!」

 織姫が立ち上がり、寝転がった俺の顔の前に膝を折る。

「ごめん、結斗……」

「織姫……やめ……」

「お願い……もう……帰って……」

 その時の表情は筆舌に尽くし難い。

 父親は満足そうに笑うと、力を次第に緩め、俺もそうして包丁を脇に落とした。


 それ以上、もう言うことはなかった。

 ただ敗北したのだ。

 俺は、またしても。

 力のない自分にイラつくとか、そんな気分さえ湧かなかった。ただ空っぽになって、気がつけば俺は帰宅して、自分のお母さんには首元をうまく隠して、ひたすら自分の部屋に閉じこもって、誰にも聞かれないように声を押し殺して、泣いた。

 きっと織姫も今頃そうしている。

 無慈悲な力に屈服させられて、その言う通りに生かされる。これが奴隷でなくて何だというんだろう。大人は、子供にとって、そうして昔から自分たちを屈服させてきた史上最悪の独裁者だ。

 この国の大人は、子供に常識の奴隷になれと、そんなことを望んで、強いるために、俺たちを産んでいる。

 大体全てコイツらのせいじゃないか。

 ならば、なぜ、

 俺たちは産まれたんだろう。

 好きに生きることも許されないのなら。

 人なんて、もう産まれない方が子供のためだ。

 俺はそうして初めて自分の産まれを呪い--。

 --この世界の成り立ちを呪った。


 織姫と再会したのは、明くる日の正午過ぎだった。

 共働きであるウチは朝から晩まで両親共家にいない。織姫もそのことを知っている。

 俺はその時、筋トレに励んでいた。

 昨夜のことは所詮、あの病的なストーカー気質の父親が強引に進めたことであって、織姫の意思とは関係がない。

 次は返り討ちにしてやればいいだけのこと。

 そのうちに大きくなったら、本当に駆け落ちでも何でもしてやればいい。

 何にせよ筋肉は全てを解決する、ということで、俺は起きた瞬間にはもうすっかり立ち直って、次なる目標が定まっていたのだ。

 そこで鳴ったチャイムに応じて、玄関を開けた先で、織姫が変わりない姿を見せたので、俺は驚いていた。

「やぁ。今、いいかな」

 そうして、俺が織姫と遊べた、生涯で最後の時間が始まった。

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