第11話
第二章・五
合格発表の日も同じ高校を受けた者同士で朝からバスを使い、電車を使って、途中緊張で吐き出すやつの世話なんかもしたりしつつ、志望校に着くと、校舎の前庭に高々と掲げられたホワイトボードを見上げた。
そして、合格を知って飛び回るやつと、そうでないやつとに別れ、そこからは前者が後者をひたすら励ましたり、慰めたりしながら、学校に行って報告するという前日以前から想像していた通りの流れになったのだが、けれど頭の中のキャンバスに描いたままというわけには、やっぱりいかなかった。
やっぱり、というからにはそう、俺自身もそれとなく気づき始めている。
織姫がいみじくも言ったこと。
--七夕の織姫と彦星みたいだね。
それは残りの364日を待ちかねたという恋しい気持ちの表現だったのか、それとも、そんな風に364日を細々と離れていくような、既にして末期を悟った恋人たちの気持ちの表現だったのか。
この時、俺はもう気づき始めている。
天の河に分たれたみたいに、俺と織姫とは、365日を共に過ごす運命にないということに。
灰色の掲示板の上に自分の番号を見つけたとき、どちらかというと信じられないというか、困惑の気持ちの方が強くて、すぐには喜べなかった。神様の気まぐれか、あるいはその先で突き落とすつもりの悪魔の仕業かもしれない。
そもそも大事なのは、その高校に受かるというよりも、織姫と同じ高校に受かること。織姫も受かっていなければ、そこに自分の番号があろうが、それ自体に意味はない。
そうして織姫の横顔を伺う時の方が、なぜか緊張した。
悪魔の仕業だとすれば、ここだろうと思った。経験則から染み付いた思考的退避行動のようなもので、だから、その時も、梯子を外されるんじゃないかと疑ったのだ。
前庭の木々の、舞い散る小さな葉の中で、その頬に涙が伝うのが見えた。一瞬、最悪の結果も想像したが、そうではなくて、それは歓喜の涙のように見えて、俺は小さく尋ねる。
「……あった?」
「うん……」
彼女の口からそこまで聞いて、初めて、俺は安堵した。だって、それ以上に信頼のおけるソースなんて、俺にとってはこの世にない。
織姫が否定していれば、絶望に突き落とされていただろうが、しかし肯定したのなら、それは神にだって覆せない絶対的な確定事項だ。
そして、織姫は肯定した。やっと報われたのだ。安心していいんだ。もう世界にだって裏切られることはないんだと、思った。
けれども、神は更に巧妙である。
俺が次に何か言うよりも早く、視界の外から別の合格した女生徒がやってきて、織姫に気持ちのまま飛びついて、おめでとうを繰り返す。
俺も気持ちは同じだったから、抱きつきはしないけど、同じくらい破顔して、自分の番をゆっくり待つことにして、その様子を見ていた。
織姫も俺を見て、それを察していたと思う。
しかし、その女生徒が次に放った言葉が、俺を硬直させた。
「やったね!! これで、あの先輩と同じ高校いけるじゃん!! 水瀬さん、本当におめでとう!!」
その瞬間、そしてその後も、俺がどんな顔で不合格者を励まし、慰め、どんな顔で織姫と応対できたのか、よく覚えていない。
頭は真っ白で、もしかしたら聴き間違えか何かの勘違いではとも思うのだけど、とにかく何度も、何度も、頭の中ではその一言を反芻していた。
時間は止まらない。
個人の都合で、止まってなどくれない。
動き続ける時間の世界において、たった一つの歯車だけが停止したりすることは、隣の歯車が許さないように、俺は無意識下でやはり時間に合わせて動き、世界の調和を保つために、歩きたくなどなくても、歩いた。
途中、その場に崩れ落ちることができたなら、何か、変わっただろうか。
中学に着く頃には大分落ち着いてもきて、思考の上では、冷静に考えられるようになっていた。
今度も、そういうことか、という感想が一番先にあった。
いつもそうだ。
俺の世界の神様は、願望の成就と絶望を同時にくれる。
まるでそうすることで、言い訳すらさせまいとするかのように。
ある意味ではもう慣れ親しんだ光景ではあって、そうなると俺はすごく、すごく冷静でいられたのではないかと思う。
何事もなかったように慎んで、周りを祝福できていたのではないかと思う。
そう思いたいだけかもしれない。ぎこちなさはあったかもしれないし、同行していた誰かでも、たまたますれ違っただけのサラリーマンでも、OLでも、その歩調のズレに、どこかに気付いていた人はいたかもしれない。
でも、そういうとき、人は常に一人だ。
都合良くやってきて、問題を解決してくれる人なんてのは現れない。都合良く気付いて、どうしたの? なんて優しく声をかけてくれる人なんてのは現れない。
第一、どうしろというのだ。
どうすれば、助かるのだ。
この空虚さを、どうすれば埋められる。
薄く、俯瞰して見るに、初めて死にたいと思って電車が来るのを見た。駅の階段が突然崩れて、俺をその重みでぐちゃぐちゃに潰してくれればいいのにと思った。飛び出ることを考えて車道を見た。あいにく、あまりトラックのような大型車は現れなかった。
死にたい、と言う気持ちなんて、そんくらい身近なものだと、俺は知った。思いつけば、凶器はどこにだって、あるのだ。
今日だって別に、構わない。
あの日に心中してたって、構わなかったのだ。
教師に報告を済ませ、それぞれの教室に戻る廊下で、麻倉と会った。
向こうも向こうで、別の高校から戻ってきたところのようだった。
俺たちは互いに存在に気付きながらも、何も言い交わすことなく、すれ違い、それから少し期間を空けた明くる日、約束してたみたいにまた、屋上で遭遇する。
「……タバコ、やめたんじゃなかったの」
「知らん。暇つぶし」
挨拶代わりにそれだけ言って、俺は麻倉の方を見向きもせずに再び煙草を咥えようとした、その時だった。麻倉はぱっとそれを奪い取って、
「あっ、なにす--!!」
見様見真似で自分の口に押し当てるようにすると、勢いよく吸い込み、盛大にむせ返って、屋上の隅に走っていったかと思えば、終いには反吐まで漏らした。
俺は呆気に取られながら立ち上がり、麻倉が見ないでと言いながら、手で距離を作ろうとするのを押し退けて、落ち着くまでその背中をさすった。
もう何年も前のことでも、俺の中にはまだ小五の時のイメージが記憶に残り続けていたのだろう。
けれど、そうして想像していたよりずっと、その背は小さくて、やわかった。
「……信じられない」
数分しても、麻倉は青白い顔のままで、正常な空気を求めるように空を仰いでいた。
一方、俺は麻倉が放り捨てた一本を見つけてきて、手で埃を払うと、躊躇いなく続きを吸い始める。
「ちょ、嘘でしょ?! 信じられない! あんた、マジで?!」
「高いんだぞ。勿体ねーだろ」
麻倉が力無く首を振る。
「……うーわーありえねー。それもありえねーし、高い金払って、よくそんなもん吸う気になるね。いや割とマジで引くわー、脳に絶対! なんか問題あると思うわー」
「……で、何しにきたんだよ」
俺がイライラして聞くのと、予鈴が鳴るのはほぼ同時だった。
「おら、行けよ。鳴ったぞ」
「白上は行かないんでしょ」
「別にもう授業とか関係ないじゃん」
「そういうこと。私にももう関係ないじゃん」
そう言いながら居直すのをみて、俺はもう何も言う気にもなれず、ため息で返事をする。
次いで、麻倉が再び言った。
「なんか、言ってやろうと思ってきたんだけどさ--」
「あ?」
「さっきので忘れた。……あー、そうそう。合格、おめでとう」
「あー、ありがとうございますー。麻倉もな」
「良かったじゃん。これでまたもう一ラウンド踏ん張れる」
「……本気で言ってんのか」
「諦められないんでしょ?」
俺は純粋に驚いて、麻倉を見た。
思えば、麻倉の顔をこんなに近くで見たのも随分と久しぶりのことだった。
やっぱりそれは記憶にあったものよりもずっと、ずっと可愛らしく、微笑んだ女の子らしい表情だった。
「大丈夫だよ。白上ならやれる。今度こそ上手くやれよ。幼馴染の意地、見せてやれ--」
しかし、そうは言っても、きっともう心は折れていたのだ。
それを折れてないように言い聞かせて、見せかけていただけ。
高校に上がってから、俺はまた荒れた。
今度は普通に退学もあるが、俺は正直、もうどうでも良くなっていた。半ばそっちの方がいいんじゃないか。
すぐにそう思った。
だって、もうずっと苦しいだけだ。織姫のことを考えるのは、もはや苦行に近い。
新学期が始まって一ヶ月が勝負とはよく言ったもので、夏が来るよりずっと早く、梅雨が迫る頃には周りはもう付き合い出した連中でいっぱいだった。中学の時はあれほど敬遠されていた話題だって当然のように上がるようになる。
織姫も、その一人だった。
俺が何かするまでもなく、織姫が二年の甲斐田 奈々樹という男と付き合い出した、という話は入学して間もなく流れて、最初期こそ同級の男子も放っとかなかったのだが、それで次第に熱りも冷めていった。
甲斐田はなるほど、第一印象で気品を感じさせるような男で、真面目そうだが、堅物ではなく、しっかりとコミュニケーションもとれる、出来る優等生のお手本のような人格者だった。おまけに家も裕福で、地盤からして俺とは何もかも違う男だ。
俺はもう織姫のことが、好きなのか、嫌いになっているのか、分からなかった。
自分がしていること、してきたこと、高校の連中の上辺だけをなぞるような会話、童貞を卒業して、とたんにイキリ始める様、それぞれ、目に映る全てにうんざりして、ひどくアホらしく感じた。中学だとか、高校だとか、そんな線引きが、けれど時間の流れに抗えない人たちには、後生大切なことなんだろう。本当にアホらしい認知の仕方だと思うが。
自分を持たないそんな何事も"普通"が基準の人の群れは、俺からすると、さながらお化けか何かだ。俺自身が思う、我を主張してきた人間とも、生き物とも違う、別の何か。それはふとすると、あるいは幼い子供なら恐怖さえ覚える光景のようだったが、その中で、織姫は息づき、俺は孤立することでどうにか自我を保つ。
織姫は、かつてそれを演じていると、はっきりと言ったことがある。そこにいるのは本当の自分ではない、別の誰かなんだと。
つまり、彼女とて、本当は違うと感じながら、息づいているように見せかけているだけ、ということになる。
しかし、本当の本当にそうなのだろうか?
少なからず、世界は別の誰かである織姫を大いに認め、受け入れている。その事実はおそらく、その人を知る誰にとっても揺るがないものだろう。
それをひっくり返しても、顕すべき本当の自分の価値とは、何だろうか。
例えば、家と学校で、友達と恋人の前で、一人の時と誰かといる時、遊んでいる時と仕事をしている時、そうして切り替わったもう一方の人格を偽りだとして、そう思おうとする、そんな自分だって、一つの自分だろう。
そうして本来の自分を隠しながら、上手く世間を立ち回れる器用さこそが、織姫を織姫たらしめている要素に他ならないのではないか。
不器用ならば、それが本当だろうが偽りだろうが、そもそもそんな器用にはいかないものであり、そんな器用にはいかない自分をこそ、認めて、上手く世界に落とし込んでいくものだろう。
実在する世界においての、本当の自分とは。
その真価はなんだろう。
小学生以前の俺なら、そこには無尽蔵の価値があると断定して思えた。けど、今は違う。
今、一つだけ言えるのは、それはきっと、わがままなのだということ。
成績と、内申と、顔や体型、その他幾許かの要素で、一見清廉に正された学校という社会において、
俺が俺の我を突き通すこと。
織姫が織姫のままいること。
それは、俺と織姫だけが満たされるためだけの、ひどく子供じみて、極めて独善的なわがままなのだ。
だから、織姫は大人になるために、わがままをやめた。
その決断を三年も以前に下して、自分を取り巻く世界のための自己形成に努力したのだ。
俺は、このままでいいのか。
俺のためにも、織姫のためにも。
変わらなければならないのではないか。
織姫がそうした三年間だったとすれば、俺の三年間はさながら、そう、延命だ。
あの日終わるはずだった世界の、延命。
それはもうやめにして、選択すべきなのだ。
いい加減に生殺しみたいな生き方はやめて。
俺も、この世界も--。
そんなある日、ばったりと再会して、昔年の想いが噴き出した。
何かに導かれるように何とはなしに寄った放課後の教室で、織姫は隅の壁に押し付けられるように甲斐田とべったりキスを交わしているところで、俺はそれを見止めた瞬間、目の前が真っ赤になった。
俺が鬼の形相で近づくと、二人はとっさに離れ、織姫が俺に向かって何かいう。けど、俺の耳にはもう何も聞こえない。俺はその勢いのまま、甲斐田の顔面に渾身の一撃を加えて、殴り倒すと、織姫との間に立ちはだかった。
近くに人気はなく、机が少々やかましく倒れたところで、急ぎ、駆けつけるものはいない。
俺の固く握った拳には甲斐田の鼻血がついていて、じんじんと鈍い痛みを放っていた。その足元で甲斐田が呻き声をあげる。多少、覚悟していた反撃もなかった。
パンチ一発でKO。張り合いもない、情けねぇ野郎だ。
こんなのに織姫がいつまでもついていくとは到底思えないし、所詮一過性のもので終わることはそれだけでもすぐに分かる。
けれど、何も満たされない。
殴っても、そうして倒れ伏せった男を見下ろしても、自分の身体に煙草の火を押し付けてみても、酒を煽ってみても、ヤンキーの先輩に連れ立ってみても、全部わかってて代わりに麻倉と話していても、何も、ストレスが解消されたことなんてなかった。
そりゃそうだ。
本当に殴りたいのは、こんなインポ野郎じゃない。
殺したいのは、俺が本当にキレたいのはーー……。
「なにコイツ……ふざけんなよ、いきなりっ!!」
「うるせぇよ。どいつもこいつも、バカみたいに盛りやがって--織姫」
俺はしかし、男は無視して、振り返ると、織姫を見る。
きっと初めてだ、織姫を睨みつけるなんてことは。
織姫も何か覚悟めいたものを決めている、そんな良い面構えだった。
「歯、食いしばれ」
「…………」
織姫は何も言わず、全てを受け入れるように目を閉じ、俺は腕を振り上げ----、
「………っ」
けれど。
けれど……それでも、やっぱり、織姫を殴ることはできない。それだけはどうしてもできなかった。
俺の拳は力無く紐解かれると、その寸前で停止して、織姫の頬に弱々しく触れるに留まっていた。
それでも、俺は。
足掻く?
どうすれば?
無理だ。もう。
織姫の気持ちは……。
瞬間的に二、三の方向に思考が巡り、その一つ、を絞ろうとした時、脳裏に麻倉の声がした。
諦めないんでしょ?
大丈夫だよ。白上ならやれる。
今度こそ上手くやれよ。
幼馴染の意地、見せてやれ--。
「殴らないの?」
今度は俯いた俺の頭の上から織姫の声がした。
聞いたこともないような冷徹な声だ。
俺は震えた声で返す。
「……殴りてぇ」
「いいよ。殴りなよ。それで結斗の気持ちが済むなら。私は耐えられる」
「…………」
「強くなったと思ってた。私のこと、思い出にして、強くなってくれるって。--でも、子供みたいだね、結斗」
「…………」
「いつまでも子供みたいなことして、上手く行かなかったら駄々をこねて……そんなことばかりなんだよ、この世界。みんな、それを噛み締めながら、諦めながら、それでもどうにか理性を保って生きてるんだよ……自分が歯車の一つに過ぎないって、分かってても。そうやって世界って回ってるんだよ。楽しいことばかりじゃない、辛いことも哀しいことも踏み越えて……あぁしょうがないかって、切り替えて!! 少しでも楽になれるように探して、その辛さ哀しさを忘れられるようにって、毎日、血の涙を隠しながら笑って生きる努力してるんだよ……!! 貴方だけが、その痛みを知ってるんじゃない!! 私たちだけが特別なわけないじゃん……っ!! この世界の誰も……予定調和でできた物語の、主人公でもヒロインでもないんだから」
言葉を重ねるごとに強まっていった織姫の口調、俺が聞いたこともないそれは、まるで悲鳴で、そして慟哭だ。
傷をひた隠しにして生きてきた者の、蛹のまま脱皮せざるを得なくなって、柔い表皮のまま羽根を与えられ、その狭間でもがき続けてきた者の。
大粒の涙が、きつくしかめた双眸から止めどなく溢れて、俺を憎悪するように見つめていた。
最大にして最後の敵を前に、俺はもう為す術もなかった。
それは織姫そのものだった。
悪い、麻倉……。
俺は心の中で一言呟くと、意を決して、でも安らかに力を抜いた。
「そっか。もう、いいんだな?」
「……!」
織姫の目が見開かれる。
「俺がいなくても。お前は、やっていける」
「……あ」
「お前は俺のものじゃないから。俺は……ずっと、そうであってほしかったけどさ。決めるのは、お前だ。今、お前が決めろ」
「…………」
織姫の手足が震えていた。
長い沈黙があった。
時間にして、どのくらい経ったかも知れない。
その時だけ、動き続けていた時間が止まったようにさえ思えた。
俺は待った。
やがて織姫の唇がゆっくり開いて、言った。
絞り出されたそれは、小刻みに震えて、世界で一番儚い音だった。
「……うん。もう……いい」
俺は目を閉じて静聴する。
それで、一言を返した。
「分かった」
「……ゆ、結斗?」
「もう気安く呼ぶな。迷うぞ。お前はお前の道を進め」
「あ……ま……私--!!」
俺は織姫の言葉を待たずに、その華奢な身体を抱きしめた。
抱きしめた瞬間、その柔らかさに驚いた。
細さに驚いた。
こんなやわいもん殴ってたら、きっと取り返しのつかないことになってた。ああ、本当に殴らなくてよかった。
最後に、その気持ちを思い出せてよかった。
俺は言った。
「今までありがとう。誰よりも愛おしかった、織姫。さよなら--」
俺はそれだけ言うと、いつの間にか入り口にできていた野次馬の、その生徒や教師らの間をすりぬけ、追随を掻き分けるようにして、その場を後にした。
教師なんかは流石に肩を掴んで止めようとするものもいたが、俺は軽く振り払うと、凄んで終わらせた。学校なんぞより大切なことは腐るほどある。お前らが神様じゃねぇんだ。止められると思うな、クソ教員。
そう言って、俺は学校を去った。
足元はふらつき、何も見えない、見る気もしない感覚で、どこへとも知れず、でもとりあえず、家へ。地元へ向かうためにかろうじて、体勢は平常を装い、足は動いた。
まともに思考が働かない中、俺がしがみつくようにして何度となく、思ったのは、誰あろう、麻倉の名前だった。
なんて愚かしい男なんだろう。自分でそう思いながらも、あの屋上で過ごした日々の記憶だけが、もはや唯一の
助けてくれ、麻倉……。
強く、次第に叫ぶように心の中で繰り返し、その名を呼び求めた。
すると、驚くことに、その帰り道、ばったりとまた麻倉と出くわした。
地元の駅前の商店通り、辺りは既に薄暗く、仕事帰りのサラリーマンやバイト先に向かう若者たちでひしめきあうその中、向かいの方面からはっきりと聞き馴染んだその声が聞こえて、俺は顔を上げ、正直、笑う。
携帯や何やらで必死に繋ぎ止めようとするまでもなく、コイツとは何かと縁があるらしいと。そして思い出した。織姫が想像してみて? と言ったこと。
麻倉さんだって幼馴染でしょ?
その通りだ。ずっと、見て見ぬ振りをしてきたのは何も織姫のことばかりではない。
本当に織姫の言うとおりだったのかもしれない。
麻倉は女の友人らしき連中に混ざって、こちらに向かってきているところだった。
そういえば俺は、それが同性であれ異性であれ、麻倉が、小五の時の腰巾着を除いて、俺たち以外の人間と連んでいるのを見た覚えがなかった。
その時の麻倉はすごく楽しげで、別人のようにイキイキしているように映った。
麻倉は、俺を見つけると、最初気難しそうな顔をして、少し考えて、それからやっぱり、どこか呆れるような顔で力無く笑って、ゆるく手を振りかえしてくれた。
「え? --え?! 誰? 誰?! 彼氏?! 彼氏いたの?!」
「違うっつーの。なんていうか、腐れ縁?」
そんな話をしながら、寄ってくる。
「ごめん。やっぱ、ちょっと今日は……」
「いいよいいよー。ごゆっくりー。後で話聞かせろよー」
「だから、違うって」
麻倉は友人たちには陽気に手を振りつつ、けれども、こちらを見て、すぐに真剣な面持ちになると、次第に小走りになり、迅速に俺の目の前まで駆けてきて、一瞬の間のあと、全てを察したように、ただ俺のやや項垂れた頭を、労わるように、慈しむようにして、撫でた。
俺は麻倉にもたれかかるように頭をより深く傾けて、顔を隠した。
ここだけ、突然、大粒の雨が降り出したからだ。
「んー? ……うん、そっか。よしよし」
麻倉は軽く俺の肩を叩いて促すと、そのまま頭を包み込むようにして抱きとめ、ぽんぽんと背を叩きながら、子供をあやすような優しい声色で言った。
「うん……頑張った。頑張ったよ、白上。見てないけど、私には分かるよ」
それから、ファミレスに行って、適当に食事して、俺は、麻倉が周囲から聞いた同級生たちの近況や自身のそれについてひっきりなしに話し続けるのを、ずっと聞いていた。
突然、続けて唸り出したポケットから携帯端末を取り上げると、麻倉が呻き声をあげる。
「どうした?」
「これ見て」
麻倉はカーディガンの袖で口元を隠しながら、端末の液晶画面を見せてくる。
見慣れたチャット画面だが、写真付きだった。
コメントには二、三。これユッコたちにも送っていい? とか、嘘つき!! とか。ハートをいやに強調したたくさんの絵文字やスタンプ付きで写真が送られてきていた。
写真は言うまでもなく、さっきの抱擁の時のもので、俺は素直な感想が漏れる。
「めっちゃ盗撮されてんな」
「もうあかん。これ絶対、明日には学校中に知れ渡ってるヤツ。すぐ拡散するし、暇人だから、コイツら」
「楽しそうでいいじゃん」
「楽しく--!!」
麻倉は大きく反論しようとして、すぐに切り替える。
「……まぁ、別にいいけど」
八時ごろに店を出て、近所の公園に寄ると、屋根付きのテラスで並んで腰掛け、ようやく俺は全てを打ち明ける。
話し終わった後、麻倉は全部見聞きしていたかのように落ち着いて尋ねた。
「で、どうするの?」
俺はゆっくりと首を横に振った。
麻倉が驚いたように目を見開く。
「え、諦めるの?」
正直、麻倉に話したことで大分溜飲は下がっていたし、余裕というのか、何かが大きく自分の中で変わった気がしていたのだ。憑き物が落ちたと、慣用的にいえばいいか。
久しぶりに、意識せずに笑えていた。前はきっと中二の時。その時も麻倉が隣にいた。
「いい加減、俺も大人になんなきゃと思って」
「それでいいの? 本当にいいの?」
「えー、お前のが食い下がんのかよ」
「いやだって……だってさ。ずっと好きだったんでしょ? それ、いきなり忘れられる?」
「あそこまで豪快にフラれたらな。むしろ、さっさとそうしとけば良かったのかも。むしろ、そう決めたら、今は、なんてーかさ……こう、すげー楽になった」
「……それに、今の話が本当ならさ、私、思うんだけど、水瀬さん、ひょっとしたら……」
「いいんだっつーの。もう。アイツが言ったんだ。主人公でもヒロインでもないって。俺はもうお役御免なんだよ。それに、その方がいいって考えなかったわけじゃないんだ。アイツさ、小三の時……」
俺は少しだけ、過去に遡った話もした。
それでもまだ麻倉は納得してない様子だったが、俺は続ける。
「あーそのー……うん。……で、な? 麻倉もさ、ありがとな」
「は? ……え、私?」
「なんか、気付いたら、俺、お前にめちゃくちゃ世話になってたと思う、てか、思うじゃなくて、実際そうでしかないっていうか……」
「はぁ……?」
「うん。織姫だけじゃねぇ、俺、お前がいたから、やってこれたんだよ。だからさ、今まで本当、ありがとうございました!!」
「…………」
俺はベンチに足首まで乗っけた半胡座みたいな体勢で、曲げた膝に手をつくと、そう言いながら深く頭を下げた。
そして再び顔をあげたとき、麻倉の目からするっと、綺麗に、一雫の涙が溢れているのを見て、動揺する。
「あ、あれ……」
「わ、悪い。あーあの、俺、なんか変なこと言った?」
「い、いや!! ……ちがくて、これは!!……あれ?! なんでー……」
最初はそんな風に大袈裟なリアクションで誤魔化そうとしていた麻倉も、次第に、目元を強く拭うほどに大きくなる涙の本流に押されるようにして、声が震えだした。
「あ、あれーお、おかしいな……だ、大丈夫……だいじょぶ……だがらぁ……」
俺は、既にその効力を身をもって知っている。
けれど、昨日の今日どころの話ではないのに……そこは正直少し躊躇ったけど、今は目の前の女の子の気持ちに応えたかった。ある意味では、今日の儀式は解放ともいえる。なら、もう気にする必要もないだろう。
俺はさっき自分がそうされたように、できる限り優しく肩を引き寄せると、その重みを丸ごと包んで抱きしめた。
重い。
想像していた以上の、ずっしりとした重みを感じた。それは冗談とかではなくて、この重みが大切なんだと思った。
体重を預けてもらえる。たったそれだけで、こんなにも充足するものなんだ。
一瞬やっぱり織姫のことは浮かんだけど、彼女は遂にあの日以来、俺にそうしてはくれなかった。なら、そうしてくれる人を大切にして支えてやりたいと、そう思って受け止めようとしてしまうのは、不純だろうか。節操なしだろうか。
でも、俺はそう思って、小さなその頭を、か細いその背を撫で続けた。感謝の気持ちを、何度も何度も繰り返しながら。
帰宅は十時過ぎにもなった。
疎に散り出した空の光を見上げながら、そんな風にして歩いていると、ふと思いついて俺は言う。
「一度、言ってみたかったことあるんだけど、言ってみていい?」
「なにそれ……」
俺は、麻倉の既に察したような、呆れ果てた顔を無視して、空の光を指差すと、
「あれがデネブ、アル--」
「ちげーし。あれはデネボラ、アルクトゥルス、スピカ! 春のだいさんかっけい……」
麻倉はそれから、素早く背後に回り込んで俺の頭を掴むと、東の方角へ強く向けて続ける。
「夏の大三角形はあっち! まだ当分見えねーよ」
「……なんでそんな詳しいの」
俺は捻られた首を片手で押さえながら尋ねる。
「調べた。嗜みっしょ」
「どんなだよ……」
言いながら、俺は思い出していた。
こんな風にまだ戯れていた頃のことを。
葛西と飯島と高橋と麻倉と織姫と、皆で毎度バカをやったこと。色々、失くしてしまったものばかりだけど、こうしてまだ残っているものもあると思うと、けれど、素直に口はゆるんだ。
その関係は当時の俺からしたらすごく不思議なものだったけど、成るべくして成ったようにも思える。
少しして、麻倉はどこかこちらを伺うように二、三目配せしてから、突然、切り出した。
「あの、さ?」
「んー?」
「あーその……ね」
「うん……」
ここで俺も完全に麻倉の方を向く。
「……どうした」
「えっと……」
「なんだよ」
「えっと、さ……」
「なんだよ笑」
俺がかつて葛西や飯島にそうしていたように、その肩を腕で軽く叩くと、麻倉は少し黙ってから、言った。
「私、まだ処女なんだけど……いる?」
あまりの急な話題の展開に、俺は思考が追いつかないものの、少しして、
「ちょっと、考えさせて」
それだけ返した。
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