第八
まずやってきたのは、いかにも君子然とした風采の男だ。鼻腔から脳へとすっと抜けるような清涼感のある、冰片の香りを漂わせた――
「成徳王子」
名を呼んで応じれば、男は品の良い笑みを浮かべた。彼の生国・
「昨年暮れの詩会でお目に掛かって以来でしょうか。あの場で殿下が詠じられた詩――“氷姿 雪を凌ぎて 志
成徳の言葉に、皓月は控えめな笑みを浮かべる。
「過分な評、却ってお恥ずかしい。なれど――あれはただ……季節が言葉を運んだまで」
「ご謙遜を。あの句には、風骨がございました」
成徳は笑みを深め、軽く杯を掲げる。皓月もまた杯を上げて礼を返す。
「――それは興味深い!」
豪快な声が響いて目を転じれば、すでに微醺を帯びた大柄の男が成徳の横に現れた。魁偉な風貌は、王子というよりは、いかにも武将らしい。
「お久しゅうございますな、皇太子殿下!」
琰の隣国、勇名でもって知られる――圭の王子・承永だ。普段は自国の防衛にあたる彼がこの場に居るのは、母皇が招いたのだろう。
「承永王子も息災そうで何より」
皓月は多く語らず、すぐに杯を掲げなおした。大の酒好きな承永には殊更何か言う必要はない。案の定、承永も侍官から杯を受け取り、杯を掲げて一気に呷る。
話に割り込まれた成徳は軽く眉をひそめたが、すぐにそれを引っ込めて端正な笑みを浮かべ直した。
「博学才穎と謳われる成徳王子が絶賛する皇太子殿下の佳篇、是非とも承りたいものです!」
「――それは妙案。国家安寧を祈念するこの宴の場にも相応しゅうございます故」
二人に言い募られた皓月はほんの少し躊躇った。が、そう言われてしまえば、敢えて固辞すべきではない。皓月は侍官を手招いて指示をする。
場の背景に徹していた旋律が、厳かに風情を変える。控えていた伶人の一人が進み出ると、ざわめきが遠ざかる。
「――
意は
氷姿 雪を
(冬の静かな灯が、一人佇む我が心を照らし、
霜に覆われた野は果てもなく、僅かな音さえも凍てついた静寂に消えてしまう。
心は常に民のもとにあり、貫くべき信念という名の剣を胸に懐いている。
雪をも凌いで咲き誇る梅花の如く、その志はいよいよ深く、揺らぐことはない)
伶人による詩の朗誦が終わると、その場は水を打ったように静まりかえった。一瞬の後、今度は王子や臣下たちの唸る声が方々から上がり、口々に何か言ってきた。
しかし、皓月の耳には殆ど入ってこなかった。
かつて、己は確かにそう詠じた。
当時の自分は、皇太子として、この颱の国の未来をただ見つめていた。
この一身を、国のため、民のために在るということを。何一つ、疑いもせず――否。それは今も変わらない。変わらない……筈だ。
けれども。――思う心が、また漣を立てた。
「そういえば、
不意に成徳が話題を変えた。思考の海に沈んでいた皓月ははっとして顔を上げる。
「晦明子の? それは興味深い」
“晦明子”とは、号でも詠者の名でもない。詩中に用いられた“晦明”の語から付けられた通称である。“子”と称するのは、その詩を読んだ者がその人を尊んで付けたもの。
ただ三首の詩が伝わるばかりで、実際は“無名氏”となっている。ただ、詩語から、浩の東の国境付近を荒らした賊を鎮圧する際、何らかの立場で従軍した人物ではと噂されている。些か浩の正統から外れた詩ではあるが、その詩はいずれも名詩と称するに値する作と皓月には感じられた。この詩を教えてくれた者も、その道の大家が名を隠して詠じたのではと言っていた。浩での評判は知らないが、颱では好んで誦する者も少なくない。
「伝統と格式を重んじる浩人の詩は正統派の持つ端正な力強さがありますが、些か興趣に欠けるのも確か。なれど、『生死に言無くして 誰か問うべけんや、清寒
成徳が口にしたのは、晦明子の詩の中でも、最も有名な詩「夜 営中に作る」三首の其の一である。
「『生や死にはそれを表現できる言葉などなく、誰にもそれを問うことなどできない。ただ冴え冴えとした月の光が無言のまま、その死を照らすばかり』か。“営中に作る”というからには戦を詠じたものなのであろう。これは、勝った側の詩か? それとも負けた側のものか? 判然とせぬな」
首を傾げる承永に、成徳は我が意を得たとばかりに頷く。
「判然としないが故に“晦明”なのです。ここには冷徹なまでの理知と洞察、そして死をあるがままに見つめる静謐な眼差しを感じます」
「成徳王子の言う通り、浩詩に確かに新奇さは乏しい。けれども、詠まれた情が普遍のものだからこそ、読む者の胸に静かに沁み入るのでは? その奥行きに学ぶべき点は、なお多い」
皓月が述べる。すると、成徳は僅かに目を瞠り、笑みを深めた。
「転じて『屍の山を月が冷え冷えと照らす』とは、実際のところ、その死を静かに見つめる詠者自身をも照らしている。故に、この句は生ける者と死せる者との別なく、ただ月が黙したまま照らしている、と。斯様に生死を等しく照らす無言の存在として月を措く詩想は、月神を崇める颱人にはまず見られぬ趣向ではある。なれど、……それもまた、世の一端に相違はない」
ここに在るのは、感情を殊更にまじえない、抑えた眼差し。一方でどこか、静かな水面の底に激しく渦をまく奔流の如き“情”を忍ばせてもいる。
それは、一幅の墨絵の中に脈打つ“真”を見つけた時の感慨にも似ていた。
そう思う皓月の脳裏に、何かが過る。――静かに何かを見つめる、一対の目が。
生じかけた揺らぎを紛らわそうと、皓月は言葉を続けた。
「――ところでその新たな詩、成徳王子はもう御覧に?」
「……残念ながら。未だ見つけられていないのです」
「それは残念。こういうのは梅石心や江肅荘が詳しい。彼らは彼の詩を殊に称賛していたし、独自の繋がりもある筈」
「ええ。――また是非、殿下と詩の心を語る機会をいただければと存じます」
「わたくしも、貴殿の御高説を賜れればと思う」
「
「では皇太子殿下、拙には一手ご指南賜ろう!! ではまた!!」
成徳と承永が去ったあと、ごく慣れた沈香の香りとともにやってきたのは、子曄だった。太子中庶子の一人とはいえ、本来彼もまた、属国の王子として麟趾閣に属する身。こういった宴に呼ばれるのも王子の一人としてである。
「――あ。俺は勿論、挨拶に来ただけですからね。何しろ俺には夏穎がいますから~」
いつも通りの子曄の物言いに、皓月は張り詰めていたものが緩むのを感じて、ふっと笑った。
「わかっている。だが、この場にそなたが居るだけでなんだか安心するな」
「……それ、あんまりむやみと人に言わない方が良いですよ」
「?」
笑顔のまま、本気か否か、判然としない口調の子曄に、皓月は首を傾げた。
「――まあいいや。じゃあ、頑張ってくださいね~」
さっとやってきたと思えば、本当に挨拶にだけ来たのだとばかりに踵を返す。
「ああ、そうそう――次の、威凌は気をつけて」
意味深な言葉を残していった子曄の背を見送る皓月の目前に、美しい玉杯が捧げられた。
月光のもとで幽かに輝くそれは、夜光杯かと思われたが――その輝きは複雑な色彩を放ち、一瞬、皓月の目を奪う。
神秘的な色合いを湛えたその杯を捧げてきたのは、颱のさらに西方――夜宇の地より訪れた、
褐色の肌に、緩やかに波打つ黒髪。夜を纏ったかのようなその風情は、遥か異国の空気を引き連れていた。
黒髪に映える金の耳飾りが微かに揺れ、颱のものとも意匠の異なる装束からは、没薬を中核に、丁香と龍涎香を忍ばせた、夜闇に潜む炎の如く、重たく濃艶な香りが漂う。
深みのある品緑の瞳が、迷いなく皓月を射抜いた。
「――衆星を従えたる明月の御名を頂き、夜香の如き御気韻の皇太子殿下の御意を得まして恐悦至極に存じます。この杯は、我が国に伝わる“
その声は朗々たるものではなく、むしろ低く静められているのに、彼の纏う香同様、不思議と耳に残る――。
“夜香”とは颱を象徴する月来香のこと。その香を纏う皓月をそれに重ねて語るのは特段妙ではない。が、敢えて月来香ではなく、夜香と言い換えたのは、寧ろこの場に在って、まさしく夜の空気を漂わせた彼自身や、国号に冠する彼の国の“夜”に重ねたようにも思われる。
けれども、それを不遜と感じさせぬ声音と眼差し。 礼を尽くしつつ、一歩踏み込むこの強かさ。子曄の言う通り、確かに油断ならない。
「捧げる者の想いが澄んでいれば、その光もまた、清らかに輝くと。……どうか、我が心の在り処をお確かめいただければ」
盞の底に揺らめく美酒は、艶やかな金色を湛えて甘やかに香る。その一方で、どこか捉えがたい深みがある。
「これは……貴殿の国で醸されるという、“夜光露”では?」
「はい。遥々、殿下の御為にとお持ちいたしました」
「……自身の心の所在を示すに、無情の物があらわすに任せるとは。随分と――度胸があると見える」
「揺るがぬものにございます故」
「映るものに不安はないと?」
皓月は静かに微笑み尋ねた。表向きは、偽りなき心の証を問うと見せかけながら――実際には、その自信は、盞に仕掛けがあるからではないのかという揺さぶりだ。
が、威凌もまた謎めいた微笑みを浮かべたまま、小揺るぎもしない。たた静かな目でじっと皓月を見詰め返すばかりである。
「ならば試みよう」
皓月はゆるやかに手を伸ばし、月光を纏う盞を受け取ろうと、指先が触れた瞬間――盞は見る間に仄光る淡い金から、鮮やかな紅色へと色を変えた。
「これは……清らかというよりは、随分と――」
熱烈過ぎる。だが、皓月は言葉にしなかった。
それは、酒の揺らめきによるものか、光の加減か――あるいは。
威凌もまた無言のままに笑みを深めた。その瞳は確かに、何らかの熱を孕んでいるようにも思われた。
けれどもその熱は、皓月の心にいささかの波紋すら生じさせない。
盞の中に残る黄金色の美酒ばかりが、もの言いたげに揺れた。
――――――――――――――
【ご挨拶】
お読み頂き、ありがとうございます!!
前回はアレな求愛かましてくる王子たちの見本市みたいな感じでしたが、今回は母上がぶち込んできたガチめな面々。唯一安心枠は子曄だけ。
とはいえ皓月の心は動きません。
いつもはぴったりくる詩を引用しますが、今回登場する2首は創作です。ぴったりこないから、もう作るしかない、と。
微妙だと感じられましたら作者のせいです。
とりあえず「ふわっ」と雰囲気を感じていただければ。
王子達の登場と共に密やかに薫る香の香り。
混ざったら大変そうだなと思いつつ、それぞれに違うものを登場させました。
因みに成徳王子の「冰片」というのは現代中国語で使われている呼び方。
脳子とか、龍脳、瑞龍脳とか呼ばれています。当時でも、めっちゃ稀少だったそう。
膠の香りを消すために墨にも使われているので墨の香りと表現する人もいるよう。
因みに玄宗は最高級の龍脳を楊貴妃に与えたとか。
綺麗な白い結晶の香です。
龍脳樹はレッドリスト入りしているので、現代それとして出回ってるのは多く樟脳からの合成品だそうです。
■『【完結】昊国秘史〈巻二〉~元皇太女、幽迷宮の残夢に眩惑す~』傳第一「雪花に眠る」第一~第三
(https://kakuyomu.jp/works/16818093072992812371)
〈巻二〉で踏んだり蹴ったりだった白羅のその後を書きました。
本編で唐突に出てきたあの人は、この流れの為にねじ込んだのですよねってとりあえず言っておきます。という訳で、その人メインの視点。
楽しんでいただければ幸いです!
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