セピア色の心

 

 私とあなたに、三度目の春はこなかった。


 高校の最終学年を迎えるその手間で、私は日本を発った。

 あなただけに、なにも言えないまま。


 最後の日のあなたは、それに気づいたわけでもないのに。春が遠くにいる夢みた──と、私の頬をいとおしそうに撫でた。

 その瞳が、その手の感触が、体温が。今も私を蝕んでいる。


 

 そのあとのあなたがどうしていたのかはわからない。深白や結さんとはあれからも連絡は取っているけれど、私はそのことを詳しくは聞けない。ただ元気でいるのかどうか、確認できるのはそれだけだった。それすら本当は、聞いてはいけないのに。二人も私の気持ちを悟ってか、あなたの名前を出すことはない。

 

 前触れなく引っこ抜かれた花は、まだしぶとく心に根を張って。毎朝、陽の光を浴びるたびにその芽を出してしまう。水なんてあげていないのに、抜いても抜いてもあなたが心から離れないのは、私の心が長雨の中にあるからなのか。

 

 思い出に押しつぶされそうになりながら、何度夜を越えれば大人になれるのだろう。

 新しい季節をいくら数えたところで、それは叶わなかった。

 

 眠れない夜にあなたを想い、夢であなたに出会って朝がくればまた恋をする。毎日毎日、あなたが私の中から消えることはない。


 夏でも冷たい指先、整った鼻筋、子犬のような拗ね顔、いつも左側にできる寝ぐせ、落ち着く声。


 好きと告げる、その瞳──。


 くしゃみをする前に縮こまるその癖さえ、沁み込んだものをなに一つも手放せないまま、セピア色の心をごまかしながら滑りゆく季節につかまって、私は歳だけを重ねていった。淡い歳月に想いを寄せながら忙しいふりをして。毎日を必死に転がして。

 それでも。何枚衣装を変えようが、何度表紙を飾ろうが、ピアスすら外すことはできない。

 着替えのときに、撮影中に、ランチのあとに。あなたに会いたい。声が聞きたい。そう思ってしまう。


 もう最近は辛いという気持ちすら感じられなくなった。

 あなたが心の中にいるだけで、私はそれでいいと思っている。

 悲しさに押し潰されそうなとき、仕事でくじけたとき。胸が詰まって迷うたび、あなたのやさしい瞳が浮かんで私を支えてくれる──もう十年以上も前の、あのころの瞳が。

 

 私はこの気持ちを愛おしく思う。

 どんなに醜く滑稽でも、あなたへのこの気持ちを胸に抱いて歩いていこう。近頃はそう思うようになった。


 いよいよ、本当に末期かもしれない。




    *********




「科木さん入りまーす!」



 結婚式と言っても、ほとんどは何かのイベントのようなそれは日本に戻って行われた。挙式の前は撮影に追われて、挙式が始まればフラッシュの波。涙のひとつも浮かびはしないけれど、めでたい席であることに変わりはない。私はいつものように笑みを浮かべて、自分で思っていたよりも落ち着いたまま挙式を終えた。


 隣にいる人。それは誰でも構わない。誰と愛を誓っても、この気持ちが消えることはないだろうから、私は前だけを見て歩かなければならない。それが私の役割で、きっと姉のそれ。そんなこともまだ母に聞けないのだから、子どもじみた私の中身はあのころのままなのだろう。

 

 そう思っていたとき、遠くからあなたの優しいまなざしを感じた。

 気のせいなのに、あなたがいるわけもないのに。心が勝手に反応して、少し苦しくなった──。



 披露宴が始まると所せましに招待客が詰め寄った。地主や経営者、同業のそれ。見たことあるようで、ない人ばかり。念入りに組み込まれた乾杯などのスケジュールが一通り終わると、各テーブルに挨拶に回り、記念撮影に追われる。貼り付けた笑みもそろそろ限界になってきたとき、疲れで吐いたため息を馴染みのある声がかき消した。



「春、久しぶり」



 あなたの声。



 によく似たそれが。




「──結…さん?」


「春ちゃん!おめでとう」

「春、おめでと」

 深白に、瑞月。

「よう春、似合ってんじゃん」

 それから。

「……成留さんいつから私のこと名前で呼ぶようになったの?」

「……こんなとこで花嫁にサンタとか言えねえだろ普通…」

 懐かしい皆の姿に、すっかり貼り付けていた笑みが本物に変わっていく。

「みんな来てたんだ…連絡くれたらよかったのに」

「なに春、知らなかったの?」

「招待状もらったんだから来るよぉ…」

 結さんと深白の言葉に、私はいつだかの母の言葉を思い出した。そういえば、お友だちに出しておくとか言ってたんだっけ──モデル仲間だけだと思ってたのに。

「そっかぁ、ありがとう。何年ぶりだろ…みんな変わってないね」

「結はちょっとふとっ──」

「成留美、うるさい」

「あ、瑞月…今はだめだよぉ…」

「だってさっきからみんな深白のこと見てる」

「見てるのは春ちゃん…手離して、もう」

 本当に、みんなそのまま。何も変わっていなかった。懐かしいその空気に、つい表情が子どもに戻ってしまう。

 私は知らぬ間に肩の力が抜けていた──この日、初めて。


 そして気になるのはもちろん、あなたのこと。

 今日という日に名前を出してもいいものだろうか。ここにいないということは、来ていないということだろう。

 それなのに、それをわかっているのに。


「あの……きょうちゃんって──…」

 私は口にしてしまった。


「……」

 全員が一斉に口をつぐむ。気まずそうに目配せをしながら、来ていない──という言葉を押し付け合うように。


「あ、ごめん…気にしないで?」

 私はそうまた笑顔を張り付けて、胸の奥のチクチクとした痛みをごまかした。

 そもそも招待状が届いているかもわからないのに、淡い期待を抱くのはよそう。もしあなたに会えたところでなにをできるわけでもない。

 あなたに合わせられる顔など、私は待ち合わせてはいないのだから──。


 しばらくみんなと戯れすっかり疲れを吹き飛ばすと、私はお色直しのため会場を後にした。




「おい、なんで来てたこと誰もいわねぇの…」

「成留美だって言わなかったじゃん…」

「空気に…飲まれました…」

「あたしはそういうの面倒なんで」





 そう、四人がヒソヒソ話していることも知らずに──。




    *********




 ちょっとお花摘んでくるから──そう言って夕季ちゃんを先に行かせたのは失敗だったかもしれない。すっかり控室の場所を忘れ迷ってしまった。時間もあまりないし、早く着替えないとまたグチグチいわれそうなのに。

 ひたすらホテルの中をうろちょろしていると、まったくもってそんな影もないところにたどり着いてしまい、私は深いため息をついた。

「……どこここ…」

 打ち合わせ中ろくに話を聞いていなかったのが仇になってしまった。あっちだっけこっちだっけと、そこら中をさまよっていたとき。


 角を曲がった先で見えた背中に、私の心臓がその動きを止めた。


 見間違うはずない。


 少し猫背で丸まった姿勢と、細身なのにしっかりとした肩。長い手足に揺れる明るい髪──耳元に光る、それ。



 私が、間違えるわけない。




「きょうちゃん……?」




 振り返らなくてもわかってしまう。

 足を止めた目の前の人が、あなただと。



「………来てくれたんだ…」



 目の前にあなたがいる。

 くる日もくる日も、胸を焦がしたあなたが。私の前に。



「……ん」



 たった一音。そのそっけない返事が耳をくすぐって、身体中が熱を持ちはじめる。


 あのころの風が、空の匂いが、夕暮れの温度が。

 その色づいたすべてが私の中を駆け巡っていく。

 




 どうしよう。




 私。




 あなたが──。






 目頭が熱くなり、目の前の背中がじわじわと滲みはじめる。

 会いたいと、声を聞きたいと。あれほど思っていたのに。いざ目の前にすると息が詰まって、言葉なんてひとつも出てきやしない。

 溜め込んだあなたへの想いは、こんなにも心に積もっているのに。

 




「おめでとう」





 ずっと聞きたいと思っていた大好きなあなたの声。やっと聞けた。


 でも、私は。


 あなたからだけは、その言葉を聞きたくなかった。



 ありがとう。

 私がそう言えば、この会話は何事もなく終えられる。それでいい。それができれば、私は大人になれる。


 それなのに、たった五文字の言葉が紡げない。

 だめだと思えば思うほど、目から溢れるしずくを止められない。

 激しくこみ上げる感情の波に押されて、声が漏れそうになる。

 だめ。声をあげたら、泣いていることをあなたに気づかれてしまう。早く、早くありがとうと、平気な声でそういわなくちゃ。

 そう思えば思うほど、呼吸のリズムを忘れて息が続かなくなる──必死に唇を噛んで声を押し殺しても、それは意味をなさなかった。



 あなたが、振り向いてしまったから。



 目が合う。視線が触れる。

 あのころの面影をそのまま、あなたはなに一つも変わっていない。


 大好きだった。あなたの優しい目が。

 私をいつもあたたかい気持ちにしてくれるその瞳が。


 ずっとずっと、恋しくてたまらなかった。



 涙でぼやっとするけれど、それでも分かる。



 あなたも、泣いてるって。



 もう、もう──。


 私、やっぱりきょうちゃんが好き。


 きょうちゃんじゃなきゃ、いや。



 何秒だっただろう。何分かも、何時間かもわからない。その揺れた瞳と見つめ合ったまま、息をすることすら忘れて、私はただひたすら言葉にできない想いを心に閉じ込め続けた。




「……あの日のワンピースと、どっちが…好き?」




 ありがとうの五文字。

 それが出ないのに、どうしてこんなことを言ってしまうんだろう。


 そのうえ、あの日だと。

 あなたからのその言葉を待っているなんて。


 浅はかで軽率で、うすっぺらくて惨めで。

 どうしてあなたを前にすると、いつもこうなってしまうんだろう。




「………きれいだよ、春」









 あなたは大人になっていた。

 




 いつまでも子どもなのは、私だけだ──。

 

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